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野口 遵 朝鮮に世界最大級のダムを建設  【連載】池上本門寺と近代朝鮮④

2020-02-15 06:55:59 | 【連載】池上本門寺と近代朝鮮

■歴史読物■

▲川瀬巴水・作「池上本門寺」

 

【連載】池上本門寺と近代朝鮮

 東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。

▲日本統治時代の朝鮮全図

■第4回■朝鮮に世界最大級のダムを建設

野口 遵 (のぐち したがう   1873~1944) 

                   

                   田中秀雄 (近現代史研究家)     

 

 野口遵は明治6(1873)年、旧加賀百万石の藩士の家の長男として金沢市で生まれている。数え年7歳で東京師範学校付属小学校に入学した。同級生に作家幸田露伴の弟になる文学者・幸田成友がいる。二人は東京府立中学校、第一高等学校でも一緒だった。東京帝大に入ると、幸田は文学部、野口は工科大学電気工学科を専攻する。ちょうど日清戦争の頃である。

 明治29(1896)年、野口は帝大を卒業し、福島県郡山市の電灯会社に入社するも、父の死去という家庭の事情で2年目に退社した。彼は東京に戻り、ドイツ資本のシーメンス社に入社した。ドイツ最大の電気機械製造会社である。

 ここでの電気機械の販売、工事の設計請負などの実地体験がその後の野口の事業形成に役に立つことになる。野口はその頃から電気事業による地方開発を志し、また友人と産業用の材料としてカーバイドの研究に打ち込んでいた。野口遵の飛躍は日露戦争後の明治39(1906)年である。

 鹿児島県の山間部の大口、牛尾は有名な金山である。ここに野口は川内川の曽木滝の落差を利用する曽木電気会社を起したのだ。豊富な電気は鉱山開発に利用するだけでなく、近隣の町村の生活の電灯化を推進した。

 同じ年、ドイツでカーバイドを利用し、空中の窒素を固定する石灰窒素の製造法が確立された。野口はいち早くこれに目をつけ、ドイツまで特許を取りに行った。そして明治41(1908)年、この工場を熊本県水俣に作ったのである。日本窒素肥料会社の誕生である。必要とする電力は曽木電気が供給する。わずか25キロの距離である。

 さらに熊本県の阿蘇に出力7000キロの白川水力発電所を作り、送電距離50キロ弱の八代市に硫安工場を建てた。ときあたかも第1次大戦(1914~1918)の頃である。日本の産業は好景気となり、野口も好機とばかりに九州の工場の大拡張に着手した。

戦争が終わった大正10(1921)年、野口は欧州の視察旅行に出かけ、アンモニア合成や人絹の製造技術に着目し、その製造特許を取得した。そしてその工場を五ヶ瀬川の豊かな水量による発電が見込める宮崎県延岡市に建設した。現在の旭化成の誕生である。

 昭和の時代になると、遂に野口の事業欲は朝鮮半島に及んだ。大学の同窓生、森田一雄や後輩の久保田豊が設計した発電方式に全面的に共感したのだった。つまり北部が特にそうだが、朝鮮の地形は日本海側に険しい山脈が南北に走り、西側にゆるく川が流れる。川の上流に堰止湖を作り、山脈を貫いて水を通す。東側斜面の急激な落差を利用して発電を行うという大構想である。

 しかし日本海側の農村には何の産業もなく、電力の使い道がない。そこで野口遵の出番である。この大事業を成し遂げられるのは野口しかいないというのが森田や久保田の認識だったのだ。

 咸鏡南道の赴戦江や長津江を利用した発電は、合計50万キロワットの能力を有した。これを以て、野口は海に面した寒村を16万の人々が働く一大コンビナート、興南へと変貌を遂げさせたのだ。各家庭に暖房がなされ、給湯がされる近代都市である。

 昭和7(1932)年に満洲国ができると、朝鮮と満洲の間を流れる鴨緑江は友好関係を象徴するものとなった。満洲国と朝鮮で共同事業もできるようになったのだ。そうして野口が鴨緑江に作ったのが水豊ダムである。当時世界最大級を誇った70万キロワットの水力発電所である。

▲世界最大級を誇った水豊ダム

 

▲一大コンビナートに変貌した興南

 

 朝鮮北部はこうして近代朝鮮の工業地帯として大きく成長しようとしていた。昭和15(1940)年、小日本主義を唱えていた『東洋経済新報社』主幹の石橋湛山は、朝鮮や満洲を視察し、その驚くべき近代化への変貌に驚嘆したレポートを残している。

 野口は一大コンツェルンを作り上げて莫大な財を成したが、しかしそれを私しようとは決して思わなかった。3000万円の全資産のうち、野口化学研究所に2500万、残りの500万円を朝鮮人学生の留学奨学金に利用するよう遺言したのだ。この朝鮮奨学制度は今も続いている。

 昭和19(1944)年、野口は亡くなった。〝電力の鬼〟と呼ばれた実業家・松永安左エ門は若い時から野口と交流があったが、「一人の人間の偉大なる魂は、決してその肉体と共に滅びるものではない。それは必ず民族の生命力の火となって、再び燦爛(さんらん)たる光芒を放たずには止まない」と野口を激賞した。

 池上本門寺にある野口の墓は昭和13(1938)年、つまり彼の存命中に作られている。実母の死と共に墓域を整備したようである。野口家の墓の近くには、親友幸田成友、その兄露伴とその娘、幸田文など、幸田一族の墓がある。

▲野口家の墓

 

田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】 

昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。


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