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花房義質 波乱の朝鮮に初代公使として赴任  【連載】池上本門寺と近代朝鮮②

2020-02-01 12:49:51 | 【連載】池上本門寺と近代朝鮮

■歴史読物■

▲川瀬巴水・作「池上本門寺」

 

【連載】池上本門寺と近代朝鮮

 東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。

▲日本統治時代の朝鮮全図

■第2回■波乱の朝鮮に初代公使として赴任

花房義質 (はなふさ よしもと   1842~1917) 

                   

                   田中秀雄 (近現代史研究家)     

 ペリーの黒船により日本が鎖国を解き、開国したのは安政元(1854)年となる。その後英国やロシアなどとの列強とも和親条約、通商条約を結んだ。しかし国を開くとは、腕力を伴う国家間の競争のただ中に打って出るということである。
 ロシアとの修好通商条約は安政5(1858)年だが、3年後にはそのロシアに対馬を占領される事件も起こっている。太平の眠りを覚まされた日本は、力が勝ちを制する帝国主義の世界に否応なしに押し出されることになった。「富国強兵」は国民挙げてのスローガンとなったのだ。それができなければ、植民地にされるのは必定であった。
 一時的にも対馬を占領されることになったのは、北の守りが弱いからである。北にある朝鮮との新たなる外交体制を作り上げておかなければならないと明治政府は考えた。しかし中国に臣従する姿勢を崩さない李朝朝鮮は、新しい明治天皇政府を認めようとしなかった。このために「征韓論」も起きたのであるが、これが今に続く苛立たしい対韓外交の始まりである。
 ギクシャクはしたが、お隣朝鮮との「日朝修好条規」が結ばれたのは明治9(1876)年になる。するとまもなく一番近い釜山や首都の漢城(今のソウル)には、日本人が商売のために住み着き、日本の銀行の支店もできるようになっている。
 その初代朝鮮公使として漢城に赴任したのが花房義質(1842~1917)である。明治13(1880)年のことである。しかし当時の李朝政府の内情は魑魅魍魎というべきものだった。具体的には王様の高宗が優柔不断で、妻の閔妃が裏側から権力を操縦する体制である。それを快く思わない高宗の父、大院君と閔妃一族との間で血で血を洗う抗争を繰り広げていたのだった。日本もこれに巻き込まれてしまったのだ。
 高宗と閔妃は自分たちを守る軍隊をつくろうと日本に協力してもらっていた。その新式軍隊の指導官が堀本礼造中尉である。こちらの軍隊は王様に近く、給養が良い。しかしその他の旧式軍隊には砂交じりの腐ったコメを配給していた。兵隊たちは怒って、大院君を押し立てて王宮に押し入ったのだ。「壬午軍乱」(1882)という。
 大官たちは兵士に惨殺され、閔妃も危なかったが、なんとか逃げおおせた。しかし閔妃派と思われていた堀本中尉も惨殺され、日本公使館は焼き討ちにされた。花房義質も危なかった。なんとか仁川まで逃れて、船で日本に逃げた。
 これにショックを受けた金玉均という朝鮮改革派の志士がいた。日本に当時留学していた彼は、朝鮮政府の責任を問うために花房たちが仁川に向う日本の船で帰国する。そして朝鮮近代化運動に邁進するのだが、そのためには守旧派体制を打倒せねばならぬと考えた。
 そして起きたのが、「甲申事変」(1884)である。金玉均一派が率いるクーデター事件であるが、見事に失敗して、彼は日本に亡命する。この事件で漢城に住んでいた日本人40名ばかりが事変に介入してきた清国兵に惨殺され、女性はレイプされた。これに怒ったのが、金玉均を支援していた福澤諭吉である。事件から4か月後の時事新報(明治18年3月16日)に載せたのが、「東方の悪友を謝絶する」という、かの有名な「脱亜論」なのである。
 花房義質は朝鮮公使辞任後においても、順調に出世し、位人臣を極めた。池上本門寺にある墓には枢密顧問官、従二位とある。子爵であり、また日本赤十字社長などを務めた。隣には妻の墓が仲良く並んでいる。右手には彼の長男である花房太郎海軍少将の墓がある。彼は日露戦争の時代は海軍大尉であり、防護巡洋艦「千歳」の航海長を務めた。黄海海戦や日本海海戦で弾雨の下をくぐっている。
 太郎の墓の真向かいには、石造りの墓碑があり、花房福次郎中尉の履歴が漢文で彫られている。彼は太郎の息子で、東北帝大を卒業後、満洲の製鋼所に就職した。その後、軍務に就いたが、「諾門干」にて戦死とある。「諾門干」とはノモンハンのことである。昭和14(1939)年夏のことだ。明治から昭和にかけて、激動の時代を生きた一族の墓が本門寺にある。

 

▲花房義質の墓

 

田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】 

昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。


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