■歴史読物■
▲川瀬巴水・作「池上本門寺」
【連載】池上本門寺と近代朝鮮
東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。
▲日本統治時代の朝鮮全図
■第3回■「大陸浪人」の先駆け
岡本柳之助 (おかもと りゅうのすけ 1852~1912)
田中秀雄 (近現代史研究家)
前回に紹介した朝鮮独立党の金玉均のその後から始めよう。
閔妃一族が支配する朝鮮政府はテロリストを日本に送って、金玉均やその仲間の朴泳孝を殺そうとした。金玉均は岩田周作という偽名を使い、日本各地を転々とした。小笠原諸島まで行っている。まるで配所の月を見る流刑者のようだった。志を得ず、鬱々として楽しまない金玉均を小笠原まで慰めに行ったのは頭山満率いる玄洋社の若者、来島恒喜である。欧米の帝国主義を打ち破り、アジアの復興を唱える頭山満は金玉均を保護していたのだった。
福澤諭吉も「東洋の悪友を謝絶する」と言いながら、金玉均を見捨てなかった。福澤の弟子である井上角五郎や須永元が親身になって金玉均たちを応援していた。
岡本柳之助も同じ志を持っていた。紀州藩士の家に生まれた彼は年少の頃からその才能を発揮していた。彼が陸軍に入ったのは明治7(1874)年である。3年後の西南戦争では、西郷軍を相手に獅子奮迅の活躍をした。しかしその翌11年の陸軍の不満分子の反乱事件「竹橋事件」に連座して、「以後官途に就くな」という珍妙な判決を受けた。それからの彼の人生はいわゆる「大陸浪人」の先がけというべきものだった。
まもなく彼は朝鮮改革の志士、金玉均や朴泳孝らと知り合って、肝胆相照らす仲となる。甲申事変に失敗して逃げてきた金玉均に、岡本は「なぜ、まず俺に相談しなかったのか」と苦言を呈しながらも温かく見守った。
しかし悪夢は近づいていた。明治27(1894)年3月、言葉巧みに金玉均に近づいた洪鐘宇が彼を上海におびき出したのだ。福澤、頭山、そして岡本も行かない方がいいと止めたが、金玉均は危険を承知で誘いに乗った。しかし上海に着いたとたんに殺された。洪鐘宇は閔妃一族の手先だったのだ。
凶報を知った岡本は、急いで上海に渡った。しかし既に遺体は腐敗防止用の石灰にまぶされて朝鮮に運ばれていた。朝鮮には凌遅刑という身体を寸断する恐ろしい処刑方法がある。それをするつもりだと岡本は感づいた。させてはならないと、岡本は上海にいる各国の領事を動かし、朝鮮政府に警告するよう要請した。しかし手遅れだった。金玉均はさらし首にされ、バラバラにされた手足、胴体は野良犬の食らうままにされたのだった。
時あたかも朝鮮問題が原因で、日本と清国の間で戦雲がたなびいていた。要は朝鮮を独立国と認めるか、あるいは中国の属国と認めるかの違いだった。帰国した岡本は郷土の先輩である陸奥宗光外務大臣の依頼を受けて朝鮮に渡った。
閔妃一族は清国と結んでいた。岡本は彼らと対立する大院君に近づき、二人は肝胆相照らした。大院君は日本の守備兵と共に王宮に乗込み、政権を握った。7月22日深夜のクーデターである。日清戦争が始まる3日前のことである。戦争がはじまると岡本は帰国した。
戦争は日本の有利に展開し、翌明治28(1895)年4月の講和条約となった。しかし露仏独による三国干渉があった。これに従わざるを得なかった日本は、朝鮮政府内での影響力を失った。日本党として政府内にいた朴泳孝も失脚した。閔妃一族はというと、今度はロシアと手を結んだのだ。
日本の危機感は募った。それは金玉均の思想の流れを汲む禹範善、大院君を信奉する李周会も同じであった。岡本も、戦後の急激な暗転に急いで朝鮮に戻った。彼らは新たな朝鮮公使、三浦梧楼と相談して、形勢の逆転を狙った。岡本は再び、大院君の出馬を要請した。大院君はうなずいた。そして大院君を先頭に押し立てて再び起きたクーデターが閔妃殺害事件である(明治28年10月8日)。
この事件に関しては、詳しくは拙著『優しい日本人、哀れな韓国人』(WAC出版)を読んで欲しいが、要は朝鮮近代化を願う金玉均を殺し、無残なさらし首にした元凶は閔妃だと、当日の襲撃者が皆思っていたことである。彼らにとっては、閔妃は憎むべき仇であったのだ。たとえて言うと赤穂浪士の討ち入りに近い。
しかし岡本は下手人ではなかった。ほとぼりが冷めたと思われた明治36(1903)年、禹範善は自分だと告白し、そのために暗殺された(11月24日)。岡本は事件の関係者40数名の一人として、広島監獄に繋がれたが、特に処罰は受けなかった。李周会は朝鮮側で処刑された(明治28年10月19日)。
当時、京城にいてこの襲撃に参加を請われたが、病気のために参加できなかった西河通徹という朝日新聞特派員がいる。彼の回想(『新聞記者打明け話』所収 昭和3年)によれば、日本政府による事件関係者の退韓処分は、外交的に気兼ねが過ぎていたという。
というのも、市内の掲示板に大院君の名で、「余(大院君)宗親の家に生れ、情、座視するに忍びず」云々と、王室の者として閔妃の行状に我慢がならなかったことが書かれてあったというのだ。日本政府は平然と構えていて良かったというのが彼の観察である。
ロシアの朝鮮進出はついに日露戦争(明治37~38年)となった。日本は勝利し、朝鮮は日本の保護下に併合されることとなり、清国には辛亥革命が起こった。風雲急を告げる東洋の情勢に岡本は急ぎ上海に渡った。しかし病に倒れ、明治45(1912)年5月14日、上海で不帰の客となった。
荼毘に付された岡本の骨を新橋駅に出迎えたのは、彼の同志である頭山満や三浦梧楼であった。その後池上本門寺に埋葬されるが、墓の裏面には「於清国上海没」とある。岡本の死去の時点で中華民国は既に成立していることになっているが、実態は変わっていないというのが当時の人々の認識であったのだろうか。
▲岡本柳之助の墓
昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。