白井健康元気村

千葉県白井市での健康教室をはじめ、旅行、グルメ、パークゴルフ、パーティーなどの情報や各種コラムを満載。

ボスポラス海峡の夕陽に乾杯!【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(71)

2024-10-05 05:30:39 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(71)

ボスポラス海峡の夕陽に乾杯!

 

イスタンブル(トルコ)

 


 イスタンブルでは時間は流れず、降り積もってゆく。初めてボスポラス海峡のアジア側から欧州側の景色を眺めた時、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
 なだらかな丘陵地帯にびっしりと張り付いている建物の群れの中、夕陽を背負ったアヤソフィア博物館、トプカプ宮殿、ブルーモスクなどの歴史的建造物の威容が浮かんでいた。
 ボスポラス海峡の欧州側から見ても、アジア側からみても、その光景には、時間が物理的なカタチになって凝固したかのように多くの視覚情報が溢れていて、ボーッと眺めているだけで1時間くらいはアッという間に過ぎてしまう。
 
 イスタンブルは間違いなく特別な街だ。長い歴史の中で西洋と東洋が交錯し、せめぎ合ってきた。地図を広げてみると、トルコが欧州、西・中央アジア、中東、そしてアフリカの中央に位置していることに改めて瞠目させられる。
 国際都市イスタンブルを南北に切り裂くボスポラス海峡の北は黒海、南はマルマラ海で、マルマラ海はダーダネル海峡によってエーゲ海に繋がっている。そして、エーゲ海の先の地中海を挟んで欧州、アフリカと接している。こんなに、多くの国々と接している国家が他にあるだろうか。

 イスタンブルの前身がコンスタンティノープルであったことをご存じの方は少なくないだろう。紀元330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が建設してから1922年にイスタンブルと改名されるまで、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国と約1600年間、4つの帝国の首都であり続け、現在も世界有数のメトロポリスである。
 イスタンブル、そしてトルコは、東西のパワーバランスの中で翻弄されてきたが、今もその特異な位置づけは変わらない。トルコ国民の9割以上はイスラム教徒だが、1987年にキリスト教国ばかりのEC(欧州共同体、EUの前身)に加盟申請申請した。現在に至るまで準加盟国としての参加は認められているが、中東情勢が緊迫し続ける中、EUへの参加実現は遠い未来のことになるだろう。

 

▲アヤソフィア

▲トプカプ宮殿の門の前で

▲ボスポラス海峡の夕陽

 

 固い話はここまでにして、トルコについて思いつくまま記してみたい。
 殆どの日本人は、「イスタンブール」と発音するだろう。これは、1978年に発売された庄野真代のヒット曲『飛んでイスタンブール』の影響ではないか。
 筒見京平作詞のサビの部分は、イスタンブールの「ブール」の部分で韻を踏み、心地よいリズムを生み出している。一部抜き出してみよう。こんな具合だ。

 ♪おいでイスタンブール うらまないのがルール
 だから愛したこともひと踊り風の藻屑
 飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール
 夜だけのパラダイス

 ♪おいでイスタンブール 人の気持はシュール
 だからであったことも蜃気楼真昼の夢
 好きよイスタンブール どうせフェアリー・テール
 夜だけのパラダイス

 これが、「イスタンブル」だと日本語の素晴らしい韻が使えなくなってしまう。しかし、残念ながらトルコ語の発音だと「イスタンブル」が正しいのである。
 
 何故かトルコには国の名称に関する話題が多い。古くは、日本の「トルコ風呂」がトルコ人の感情を害したというので、名称変更を余儀なくされた。
 トルコ風呂はさて置き、トルコのエルドアン大統領は2021年、「Türkiye(テュルキエ)」表記がトルコの文化、文明、価値観をより正確に代表しているとし、国内外での国名表記「Türkiye(テュルキエ)」に統一すると発表した。
 こうしてトルコ政府は翌年、国名表記を変更した。公式の英語表記の「Turkey」のほか、スペイン語表記の「Turquia」、フランス語表記の「Turquie」なども、すべて「Türkiye」に変更されたのである。

 国名変更のウラには、Turkeyは七面鳥という意味の他に、ケンブリッジ英語辞典が「酷い失敗」「馬鹿者・愚か者」と定義していることもあるらしい。
 尚、日本政府は令和4(2022)年に外務省大臣官房長名で、トルコ政府と交わす文書にTürkiyeを使うことに同意はしたものの、日本が独自に発出する英文文書では従来どおりTurkeyとする通達文書を発出している。日本語では、従来どおり「トルコ」のままだ。

 ところで、トルコは、国民の9割上がイスラム教徒でありながら、政教分離の徹底した「世俗主義国家」である。俗に「トルコのイスラム教は宗教ではなく文化である」という。
 だからなのか、サウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)といったイスラム教国で感じる独特の緊張感がまるでない。女性はスカーフやブルカを強制されないし、飲酒も自由だ。
 大抵のレストランで、トルコ名産のワインや国民酒ラク(Raki)の他あらゆるアルコール飲料を楽しむことができる。呑み助の私には大変有り難い国だ。
 ラクーは葡萄に酵母を加えてアルコール発酵させ、アニス(西洋茴香 ウイキョウ)で香りを付けたものだ。このラクーは、ギリシャでは「ウゾ」、イタリアでは「サンブーカ」、スペインでは「アグアルディエンテ・デ・アニス」、フランスでは「パスティス(ペルノーやリカールなど)」と呼ばれる。
 それぞれが「ウチがオリジナル!」と主張しているのが面白いではないか。瓶に入ったラクー透明だが、加水すると白濁する。
 ラクーを口に近づけるとアニスの独特な香りが鼻をくすぐり、口に含めば最初に控えめな甘さ、次に苦みが広がる。夕暮れのボスポラス海峡に向かい、冷えたラクーのグラスを口に近づけるのは至福の瞬間だ。

▲夕暮れに冷えたラクーが似合う

 ボスポラス海峡には現在3つの橋が架かっている。最初の第1ボスポラス大橋は英国の会社が1973年に完成させたものだが、交通量の増大に対応するため、第2ボスポラス大橋建設プロジェクトがぶち上げられ、私が勤めていた会社が受注し1988年に完成させた。
 このプロジェクトの入札には勿論英国の会社も応札し、当時のサッチャー首相もトップセールスを展開していた。それが、いきなり日本企業にかっさらわれたのだから、サッチャー首相は怒り心頭に発し、日本政府に強烈に文句を言ったらしい。公正なビジネスなのだから文句を言われる筋合いなど全くないが…。

 トルコに行って、「第2ボスポラス大橋は、我が社が建設した」と言えば、どこでも抱きしめんばかりに「ありがとう!」の賛辞を浴びせられ、鼻高々だった。
 その後、第2ボスポラス大橋建設での技術力の高さが認められ。第1、第2ボスポラス大橋の耐震補強工事に加え、新旧ゴールデンホーン橋、イズミット湾横断橋の建設、イスタンブール長大橋梁耐震補強工事など,多くのプロジェクトで、トルコの道路交通インフラ整備に大きく寄与してきたことを誇りに思う。

▲第2ボスポラス大橋

 

 イスタンブルの地下宮殿として知られるバシリカ・シスタン(Basilica Cistern)を訪れた。東ローマ帝国が作った大貯水槽で、世界遺産に登録されている。この貯水槽の大きさには圧倒される。
 長さ138m・幅65mの巨大な空間は、高さ9mの大理石の円柱336本で支えられ、円柱の基礎部分にはメドゥーサの頭の彫刻が施されている。
 メドゥーサは、ギリシャ神話に登場する女性の怪物だ。頭髪は無数の蛇で、その恐ろしい姿で見たものを恐怖で石のように硬直させしまうとされる。この地下宮殿は、007の映画『ロシアより愛を込めて』のロケ地でもあった。

 

▲荘厳な雰囲気さえ漂う大貯水槽

▲メドゥーサの首

 ところで、トルコは世界有数の親日国と呼ばれている。トルコ人は恩義を忘れないからだ。1985年にこんなことがあった。イラン・イラク戦争の最中の3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表した。その時点で、テヘランから飛び立つ総ての航空機は満席で、215人の日本人は、為す術もなくテヘランに取り残されてしまう。

 世界各国は自国民救出のために救援機を派遣する。ところが、情けないことに日本政府は「航行の安全が確保できない」という理由で、民間機も自衛隊派も派遣しなかった。あろうことか、自国民を見殺しにしようとしていたのである。そんな切羽詰まった事態で、途方に暮れる我が同胞に救いの手を差し伸べてくれたのがトルコだった。トルコから2機の救援機を派遣し、日本人全員215人を救出してくれたのである。フセインが宣言したタイムリミットのわずか1時間前のことだった。

 当時、テヘランには多くのトルコ人が居住していたのだが、救援機を日本人に譲り、トルコ人は危険な陸路で非難した。このニュースを聴いた時、私は感動で涙ぐみそうになった。では何故、自国民より優先して日本人を助けたのか。理由が分からず、日本政府も日本のマスコミも首をひねっていた時、当時の駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏はこう語った。

「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです。エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。だから、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

 トルコとビジネスをしたことがある人なら、「エルトゥールル号遭難事件」のことはご存じだろう。明治23(1890)年9月16日の 夜半にオスマン・トルコ帝国の軍艦 エルトゥールル号が台風のため、現在の 和歌山県串本町にある大島樫野埼沖で遭難した。587名の犠牲者を出した大惨事で、日本の海難史上初の大規模な外国船の海難事故である。

 この遭難事故に際し、串本町の住民たちは不眠不休で生存者の救助、介護、遭難者の遺体捜索、引き上げに尽力したのだった。更に、日本全国から多くの義援金が寄せられた。その結果、69名の乗組員が救出され、後に大日本帝国海軍の巡洋艦でトルコに送り届けられたのである。

 

▲日本が大好きなトルコ軍の若い兵士たちと筆者(中央)

 

 エルトゥールル号遭難事件とテヘラン在留邦人救出作戦を題材にした『海難1890』という日本・トルコの合作映画がある。親交が深かった安倍首相とエルドアン大統領の後押しもあり、国家級プロジェクトとしてこの映画は2015年に公開された。私は妻と一緒に、映画館に観に行っている。感情過多のチープな表現もあるにはあったが、歴史的事件を俯瞰的に見ることができて興味深かった。
 今でもトルコ人と話すとかなりの確率でエルトゥールル号の話題が出てくる。トプカプ宮殿で出会ったトルコ軍兵士たちからも、初めて会った私にエルトゥールル号のお礼を言われた。日本人として、嬉しいではないか。親日国トルコに、そしてボスポラス海峡の夕陽に乾杯!

 

           

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界半導体市場統計が示した... | トップ |   
最新の画像もっと見る

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道」カテゴリの最新記事