【連載】藤原雄介のちょっと寄り道㊴
「鰯の串焼き」で日本が恋しくなった
マラガ(スペイン)
マラガ(Málaga)のビーチで、上半身裸になり、日光浴をした。眩しい光、不規則に吹く風、波の音……。目を閉じると不思議な多幸感に包まれた。
が、その多幸感を維持するのは、なかなか難しい。仰向けに寝そべって数分もすると、太陽に炙られた顔や胸はヒリヒリと熱く、背中側は冷えてゾクゾクする。無意識に身体を回転させ、うつ伏せになる。すると、今度は腹側が冷たくなる。
そんな体験は初めてだった。日本のビーチで寝そべって陽の光を浴びたら、身体の表も裏も全身満遍なく、暑いだろう。くるくると回転を繰り返している内に当たり前の事に突然気づいた。「空気が乾燥しているんだ」と。「まるで回転焼きだな」と苦笑していたら、魚を焼く香ばしいが漂っていることに気づいた。
ビーチのそこかしこに、鰺や鰯の塩焼きを売る屋台が散らばっている。急に空腹を覚えた。深い皺の奥まで日に焼けたオヤジの笑顔に釣られて、鰯の塩焼きを注文した。
▲マラガの名物料理、鰯の串焼き(sardinas al espeto)
太い串に刺され、直火で炙られた鰯の皮は美しくこんがりと焦げ、これでもかと振りかけられた塩が表面に白く浮き出ている。これは、sardinas al espeto(サルディーナス・アル・エスペト=鰯の串焼き)と呼ばれるマラガの名物料理だ。
スペインで最もポピュラーな鰯料理は、フライパンでニンニクと共にオリーブオイルでソテーし、たっぷりレモンを搾っていただくsardinas a la plancha(サルディーナス・ア・ラ・プランチャ=鰯の鉄板/フライパン焼き)で、これは家庭でも簡単にスペインの味を再現できる。
▲鰯の鉄板焼き(sardinas a la plancha)
で、マラガの「串焼き」はと言えば、日本の焼き魚そのものだ。懐かしさがこみ上げ、ちょっぴり日本が恋しくなった。
「セニョール、どうだ、旨いだろ!?」
と、日焼けしたオヤジが自慢げに問う。
「最高に美味しいよ!(¡Riquísimo!)」
そう言って、私は油でギトギトの親指を立てた。
オヤジの顔がほころんだのは言うまでもない。
マラガは、アンダルシア地方の Costa del Sol (コスタ・デル・ソル=太陽海岸)の中心に位置するリゾート都市だ。亜熱帯性に近い地中海性気候で一年の内320日が晴れだから、太陽に恵まれないドイツ、英国、北欧の人たちの憧れの地の一つである。
私がマラガを訪れた1973年当時、そのビーチは静かで鄙びた光景だったと記憶している。しかし、1973年に38万人ほどだったマラガの人口は、1年を通して快適な気候、ゆったりと流れる時間、それに豊かな食文化に引き寄せられたヨーロッパの富裕層を主体とする移住者が押し寄せたため、現在60万人にまで増えている。
因みに、同期間のマドリッドの人口は315万人から327万人とわずか12万人しか増えていないのだから、マラガのリゾート都市としての発展ぶりがいかばかりだったか容易に想像できる。
そのビーチにはリゾートホテルが林立し、まるでハワイのような雰囲気だという。多分、現在のマラガは、私の知るマラガとは全く違う街になってしまったに違いない。
▲近代的リゾートホテルが建ち並ぶマラゲータ・ビーチ
マラガは、世界有数の複雑な歴史を持つ都市で、紀元前770年頃にフェニキア人によって建設されたマラカ(Malaka)に遡る。
紀元前6世紀からはカルタゴの支配下に入り、紀元前218年からは古代ローマに支配された。ローマ帝国が崩壊し、西ゴート王国の支配が終焉すると、その後8世紀から15世紀にかけて約800年間はイスラム勢力の支配下にあった。
マラガには、グラナダのアルハンブラ宮殿を模して築かれたアルカサバ城塞等のイスラムの遺構、16世紀から18世紀にかけて建設されたゴシック、バロック、ルネサンスの諸様式が融合したエンカルナシオン大聖堂など素晴らしい歴史遺産がいくつもある。
が、それらは現代的な街並みの中にポツンポツンと散らばっていて、コルドバ旧市街のように街全体が世界遺産のような街と比べるとやはり何か物足りない。そのせいだろうか、残念なことに私のマラガの思い出は、「回転焼き」と「鰯の串焼き」の他に思い当たらないのだ。
▲アルカサバ城塞遠景
▲エンカルナシオン大聖堂
ところで、Costa del Solという名前は、オーストリア人の観光業者が1928年頃、観光客誘致のためにひねり出したものだ。それまでこの地域は、アルメリーア海岸と呼ばれていた。
¡Costa del Sol!
このなんとも魅力的なネーミングのおかげで、1950年頃から、マラガは急速に国際観光都市として発展し始めたのだった。
近年、マラガは、ピカソ生誕の地であるというアイデンティティーを生かし、街中至る所に展示された前衛芸術作品や映画祭、音楽祭、食の祭典等多くの催しを開催することによって、スペインを代表する文化都市に生まれ変わっているという。もう一度訪ねてみたいものだ。
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。