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アンソニー・トゥ回顧録① 日の丸が去ったころ

2023-01-23 05:43:33 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

台湾で創設された新興メディア「The News Lens」日本版に、アンソニー・トゥー(杜祖健)博士の回顧録が掲載されています。回顧録①は1月16日に、同②は22日にそれぞれネット公開されましたので、本ブログで転載することにしました。以下は回顧録①「日の丸が去ったころ」です。

 

 

2023-01-16 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録①

日の丸が去ったころ

 

杜祖健(Anthony T. Tu)

 

筆者紹介 

台湾出身の米国の化学者。コロラド州立大学名誉教授。1930年、台北市生まれ。 日本統治下の台湾で初の医学博士となった杜聡明氏の三男。台湾大理学部卒後、渡米。ノートルダム大、スタンフォード大、エール大で化学・生化学を研修。ヘビ毒研究を中心に毒性学および生物兵器・化学兵器の世界的権威として知られ、松本サリン事件解明のきっかけを作った。「毒 サリン、VX、生物兵器」(角川新書)など著書多数。


【注目ポイント】
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、台湾から日の丸が去ったころを振り返り、台湾人としての心情を記録する。

 


私は日本の「学徒兵」だった

1945(昭和20)年4月、新学期を迎え私は旧制台北第一中学の3年生になった。しかし戦況は悪化し、毎日のように米軍機による空襲があるので勉強は満足にできなかった。その年の6月、私は台北一中からの書留で「学徒兵」として動員されるとの通知をうけた。このとき私は疎開先の台北北西郊・北投にいた。

当時の日本は、台湾こそが米軍の次なる侵攻目標だと推測していた。

私ども一中生も日常的に勤労奉仕に駆り出されていたのだが、その場合の現場の監督はあくまで一中の教員だった。だが戦況が悪化し、情勢も緊迫してくると、中学校2年生以上は学校単位で軍に動員されるようになったのである。

結局私たち一中生は台湾軍築城部隊第1大隊第2中隊に所属することになった。小隊長は陸軍少尉でその下に下士官がおり、分隊長は上等兵。完全に台北一中とは関係を絶たれ、軍の一員、すなわち「学徒兵」となったのだ。

ついでに言えば台北四中に通っていたすぐ上の兄も同様に軍に動員され、台北帝国大学(現台湾大学)医学專門部の学生だった一番上の兄も衛生兵として応召した。


▲台北帝国大学(現台湾大学)附属病院


話を戻すが、この当時母と父は台北南西郊外の大渓に疎開していたので、動員の通知を受けた私は北投の疎開先の家に置手紙を残した。そこには動員でいつ命がどうなるか知れないが、「長い間の親の愛顧に感謝します」などと書いた。

台湾北部において軍は、米軍が台北北西郊・淡水の対岸の八里から上陸して台北に侵攻すると見ていた。それで日本軍は台北で決戦する準備として、水源地がある付近の山を徹底的に要塞化した。

われわれ一中の生徒約200人はそこの道路整備をする役割を与えられ、毎日それに従事した。台北の街は定期的ともいえる頻度で空襲による爆撃を受け、轟轟(ごうごう)たる爆弾の破裂音は水源地にいる私たちの耳にも届いた。ある空襲の際などは、部隊の最高司令官にあたる陸軍中将と同じ洞穴(要塞の一部だった)に避難したこともある。ただし、私たちの居場所は台北の中心部からは随分と離れていたので安心していた。

同年7月末には慰問団の来訪もあり、団員の歌手が「勘太郎月夜唄」と「上海の花売り娘」をうたってくれた。そのメロディーは、どういうわけだか、いつまでも私の耳に残った。

 

終戦の日と、その晩の恐怖

「今こそ撃てと宣戦の大詔に勇むつわものが…」

1945年8月15日、われわれは平常通り軍歌を歌いながら道路普請の作業場に行った。昼過ぎだったと記憶しているが、同じ現場で作業にあたっていた日本人一中生が玉音放送による終戦の事実を告げた。われわれは作業を止めて宿舎に戻った。その晩、日本人一中生らは台湾人が謀反を起こすかもしれないといい、みなで寝ずに警戒にあたった。

台北一中生200人のうち台湾人は私を含めて2人だけである。だから私は日本人生徒に殺されるのではないかと心配したが、その晩は事もなく済んでホッとした。

8月の末にわれわれ勤労学徒はみな一か所に集められ、現場の監督にあたっていた日本陸軍中将が勤労学徒隊の解散の式辞をのべた。彼は第1次世界大戦が終わった時はドイツに武官として駐在していたという。この時のドイツは戦時よりも戦後の方が苦しかった。それゆえに「日本も同じようになるだろうから、諸君は将来の日本復興 のため万難を覚悟しろ」と呼び掛けていたのが印象的だった。

 
終戦直後の台湾の変化

台湾が中国に復帰するというニュースは素早く全島に達した。市街ではいたる所「光復台湾、復帰中国」「歓迎祖国回来」などと横断幕が掲げられ、“祖国”に復帰したという喜びに溢れていた。台北の街は一気に親中反日の空気にあふれ、反日感情が爆発したので、多くの台湾人が日本警察の派出所を襲い、警察官をなぐる様子がみられた。日本の警察官の奥さんが泣き叫びながら、「やめてください」と懇願していた。

私は台北一中の学生だったので、日本人生徒と一緒に勉強をしていた。あるとき、黄さんという一学年上の先輩に呼び出され、「日本人と一緒に勉強してはいけない。台湾人は永楽国民学校を借り、台湾人学生はそこに集まって勉強するのだ」と告げられた。


▲台北一中(現台北市立建国高級中学)


台湾人は中国語(北京官話)を知らないので、伝統的な中国の初学者用の学習書「三字経」を勉強して「これが中国語か」と思ったりしていた。

一中、三中、四中の台湾人学生が集まってが全部で50人ばかりであった。日本時代、台湾で台湾人が中学校に入学するには、植民政策によって人数が制限されていたためであった。そのため多くの優秀かつ経済的に恵まれた台湾人は、日本本土に行って教育を受けるようになった。日本本土は台湾とは違い、台湾総督府の植民政策による制限がなかったためであった。私は幼稚園、小学校、中学校で一緒だった日本人の友人、平田精甫(せいすけ)君と一緒にいたので、よく台湾人生徒に止められ「何で日本語をしゃべるのか」と注意された。

やがて“祖国”の軍隊が台湾にやってきた。傘を差し、ボロをまとい、わらじ履きで天秤棒を担いだ“祖国”の軍隊の貧しさに多くの台湾人が驚いた。

結局“祖国”からは多数の中国人(外省人)がやってきたが、初めころこそみな歓迎していたものの、やがて彼らの貪欲さに閉口していった。

ある者は大学病院の一等室を自分の住家として占領し、部屋代を払わない。台湾人は日本の植民政策から解放されて、今度は自分たちが台湾を治めるものと思っていたが、その夢は完全に破壊された。今までの台湾の常識は通用しなくなった。

ある役所を中国人が接収した。日本人の役人が提出した財産目録に漢字で「金槌」(かなづち)と書かれていた。接収に来た中国人は日本人にご馳走してその「金の槌」を持って来てくれ、と要請した。日本人は不思議に思って「金槌」を持ってきた。その中国人は「これではない」と大変立腹した。文字通り「金」で作られた槌だと思っていたのだ。

また水道の蛇口の栓を回すときれいな水が出てくる様子に感心した別の中国人は、街で水道の蛇口を買ってきて、壁に埋め込んだが栓を回しても水が出ないので不良品なのかと思ったという。この時期のこういう笑い話は枚挙にいとまない。

つまりは文化水準の低い連中が、文化水準の高い台湾の人を統治に来たということで、いたる所でこういう類の逸話が生まれていった。

 
“祖国”中国に対する失望

終戦時に“祖国”を愛した熱情はやがて失望に変じた。幻想の期間はわずか1年ぐらいであった。

当時台湾ではやった言葉は「昔われわれは犬を養っていたが犬は家の番をするなど役に立つ。しかし今は豚を養っている。豚はただ飯を食べて寝るだけで台湾のためにならない」。犬とは日本人のことを言う。豚は大陸から来た中国人を言う。台湾人は人間だから二脚と自称していた。

ここにきて台湾人は初めて日本人の清廉さに気がついた。日本人には悪いところもあるが清潔で貪欲さがない。中国人にはない優良な気性を有している。両者の民族性の違いを台湾人は、初めて直視したのであった。

 
228事件で機銃掃射を受ける

終戦当時は経済の混乱で人々の生活はとても苦しかった。

常軌を逸した大陸のインフレも天文学的なすさまじさで、その影響は台湾にも及んだ。

台北の大稻埕太平町(現南京西路)でヤミ煙草を販売していた女性が、中国大陸からきた外省人警察官ら取り締まりにあたっていた官憲による摘発を受けた。女性は土下座し、許しを懇願したが、殴打されるなどの暴行を受けた。これに同情して集まった民衆に対し、取り締まり側は威嚇発砲。その弾は無関係の台湾人に命中し、死亡させたにも関わらず、警官らはそのまま立ち去った。

これが原因となって多くの人が台湾総督府庁舎(現総統府)に置かれた台湾省行政長官公署(のち省政府)に対し、抗議デモを展開する騒ぎとなった。


▲台湾総督府庁舎(現総統府)


このとき私は建国中学高等部の生徒であったが、状況に詳しい同級生が「台北の街は混乱しきっている」と教えてくれた。不謹慎ながら興味をもった私は、授業が終わった後、友人と二人して台北市街への見物に行った。

歩いて行政長官公署の近くに来てみると。建物の周囲は護衛の兵隊が囲んでおり一般人は近寄れないようになっていた。

いきなり目に飛び込んできた光景はすぐ近くで台湾人が石で外省人を殴っている姿だった。長官公署を護衛する兵隊が、殴られている外省人を助けに来た。殴っている台湾人は兵隊がそばにきたことに気がつかなかった。やがて兵隊がピストルをその台湾人に向けて撃ったが、音がしなかった。

兵隊は「打不出来」(弾がでなかった)とつぶやいた。この台湾人は本当に運が良かった。

その後私は北門のそばまで来た。その近くには鉄道警察の建物があり、台湾人群衆がこれを襲撃しようとしていた。


▲北門

 

建物の中から「ポン、ポン」とピストルの音が聞こえてくる。やがて中国兵を満載したトラックが北門の所に到着した。周囲を台湾人が囲んでいたが、当初はトラックの中国兵とは穏やかに話をしていた。

しかし、いきなり「ダダダー」という音が耳をつんざき、トラック車上の機関銃が周囲の群衆に向かって発砲し始めた。私は台北一中の軍事訓練が身についていたので即座に地面に伏せた。

まわりの人はキャーキャーと泣き叫びながら走りまわっていた。

そうこうするうちに銃声がやんだ。私は中国兵がトラックから降りてきて周囲に倒れている人を銃剣でとどめを刺しに来たのかと心配しつつも、怖くて身動きができなかった。

やがてトラックが動き出したことがエンジン音でわかった。

今度は道路に伏せている自分がひき殺されるのではないかと心配した。しかしトラックはそのまま去って行ったので、ようやく周りを見た。

私の両側にいる2人が撃たれ、血が流して倒れており、意識が無いようであった。おそらく機関銃の掃射によって射殺されたのだと思っている。私の命は機関銃の弾のポンポンというその寸隙にあったのだ。運が良かったとしかいえない。これこそ天祐だと思った。

天祐はめったに起きるものではないだろうが、奇しくも私は天の計らいでもあったかのように、その恩恵にあずかったのだと思った。

その後暴動は遼原の火のごとく台湾全島に広がり、陳儀台湾省行政長官は台湾人による二二八事件の処理委員会を各地で発足させた。

台湾人は、自分たちの手による自治台湾の実現を願った。ただし、当時は台湾が中国から分離し、独立するというような願いはなかった。

陳儀は一時逃れで台湾人の要求を承諾。大陸から援軍を呼ばないと虚偽の約束をした。

3月10日頃のことだと思うが、夜明けから機関銃の音が鳴り響いた。後になって基隆から中国兵が上陸し、無差別に住民を殺していたことを知った。やがてその殺戮行為は全島に広がり、今なおどれほどの台湾人が殺されたか正確な統計がない。日本の高等教育を受けた知識人などを中心に2万人から5万人が殺されたと言われている。(続く)

★回顧録②「吹き荒れた白色テロの嵐」は、1月30日(月)に本ブログに掲載する予定です。


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