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親友が思い出を語った! アンソニー・トゥー博士追悼〈パート5/最終回〉

2024-11-13 07:33:49 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

■アンソニー・トゥー博士追悼〈パート5/最終回〉

親友が思い出を語った!

 

日本各地での講演会、メディアとのインタビュー、オウム真理教サリン事件の中川智正死刑との15回に及ぶ面会など、アンソニー・トゥ―博士の傍らには、必ず同じ人物の姿がありました。博士の親友、安福達雄さん(90)です。トゥー博士と行動を共にするたびに、安福さんは趣味のビデオカメラを回していました。それでは、思い出の写真・動画とともに博士との交友を振り返ってもらいましょう。

(★動画を見るには、マウスで緑色の部分をすべてなぞってから右クリックし、「https://www.youtube……に移動」を左クリックしてください。)

 

【安福達雄さんのプロフィール】

1934 (昭和9年):長野県飯田市で誕生(旧氏名:宮澤達雄)
1947~1953: 名古屋の東海中学校・高等学校在学&卒業
1953: 国家公務員四級職試験合格
1953~1954: 愛知県瀬戸郵便局庶務会計課に勤務(大学進学用の学資を蓄えるため)
1956: 南山大学英語学英文科入学
1956: 運輸省国家試験通訳案内業(ガイド試験)【英語】合格
1956/1957: 南山大学在学中の夏季休暇中及び冬期休暇中に日本交通公社名古屋駅前案内所の嘱託で訪日の外人観光客を通訳案内
1957: 2月 南山大学第2学年終了。同大学中退。
1957:4月 米国オハイオ州クリーブランド市フェン・カレッジ(現:オハイオ州立クリーブランド大学)へ転校、1学年に編入。
1957: 9月 米国オハイオ州立ケント大学に転校、3学年に編入(主専攻:経済学;副専攻:英文学)
1959: 6月 米国オハイオ州立ケント大学卒業。
1959~1960: 米国オハイオ州ベッドフォード市の貿易会社ナショナル・ポッタリーズ社勤務
貿易業務全体(商品買い付けバイヤーとして香港・日本などへ出張も含め)に携わる。
1961: 日本へ帰国。
1961: 7月~1962: 2月:日本交通公社嘱託通訳案内業ガイド(名古屋を中心に就業)。
1962: 4月:エッソ・スタンダード石油(ESSO/EXXON)本社入社し、宣伝課勤務。次いでSS開発部を経て同社東京支店販売部及び仙台支店販売部(課長)で東北6県を管轄した。その後、エッソ石油本社へ転勤、LPG販売部訓練課長、経営企画部アドバイザー、新規事業開発室アドバイザー勤務する。シンガポールへの業務出張も経験。
1978〜 1986: エッソ石油開発に技術・業務部長として出向。 帝国石油と共同事業で福島県常磐沖の深さ150mの海底から3000m地下へ掘削して天然ガスを開発する。そして採集された天然ガスを全量東京電力広野火力発電所(福島県)へ海底パイプラインで供給する磐城沖天然ガス開発プロジェクトに携わった。関連して米国メキシコ湾の海底天然ガス開発プラットホームを視察も重ねる。
1986: 磐城沖天然ガス開発プロジェクトが順調にオンストリームになり、エッソ石油に戻り営業調査部に勤務。
1994: エッソ石油定年退職。
1994~2008: 日本アムウェイにヘッドハンティングされDH臨時社員として採用され、IPO準備業務に携わり、法務関係業務を経て、社長室長兼コーポレート・セクレタリーとして勤務。
2008: 日本アムウェイ退職、現在に至る。
 
登山、歌声、語学習得、英文原書の読書、ビデオ撮影、YouTube作成が趣味。我孫子サイエンスカフェ(撮影スタッフ)、日本エスペラント協会正会員、国史跡八王子城とオオタカを守る会、マトリョーシカの会(ロシアの歌とロシア語を学ぶ会)、東京賢治シュタイナー学校(支援会員)、真宗東京教区八祖・武蔵野同朋会、お季楽会登山グループ、各種歌声の会に所属。また、英語討論弁論大会で優勝し、同大会協賛のエンサイクロぺディア・ブリタニカ日本支社から1970年版『エンサイクロ ぺディア ・ブリタニカ』全24巻を授与されている。

 

先に旅立った杜先生に捧ぐ

安福達雄

 

 The Great Northern Star! 杜祖健先生を一言で表現すれば、この語に尽きるのではないでしょうか。まさに「すべての人の航海を導く北極星」でした。政治体制の異なる世界中の国々を訪れ、毒物學の発展とそれに伴う社会の環境や生命の安全に多大な貢献をなされた偉大な博士でした。

 2014年の春、京都大学楽友会館でオウム真理教サリン事件について講演をされた時にビデオカメラを持参して、その模様を撮影しました。それ以来、先生が講演やその他の用事で来日される時は、ほとんど毎回杜博士の講演の旅などに私は全国多くの地に同行させて頂きました。杜先生の講演内容は、それぞれの主催者・団体などに理解し易いように準備されていて、講演には関係者以外の一般人でも喜んで聴講できる機会を与えておられました。じつに心の広い学者でした。

 杜先生については、ともすると学問追求のために象牙の塔に立てこもって研究に余念がない学者のように想像される向きもあるかと思われますが、さに非ず。杜先生は学術関係の交流以外にも、幅広い分野の人々、とくに私のような一般の人々とも交流を待たれていました。先生との出会いから旅立たれるまでを回想して追悼の言葉にしたいと思っております。

茨城県取手で先生の94歳を祝う

 茨城県取手市の「街のうたごえ喫茶」で8月17日、杜先生の94歳を祝う誕生会が開かれました。じつを言えば、その前日、米コロラド州デンバーで開かれる杜博士の誕生会に参加するべく、成田空港からアメリカに飛び立つ予定だったのです。デンバ―行きの航空券も早々と5月には購入してあったのですが、出発当日に関東を襲った台風7号の影響で新幹線も全線運転休止、航空機も成田からも羽田からも運航停止となりました。
 そんなわけで、デンバーでの誕生会には誠に残念ながら参加できず、日本で杜博士の94歳を祝ったわけです。

▲「街のうたごえ喫茶」で杜先生の94歳を祝う。右から2人目が筆者

https://www.youtube.com/watch?v=zOz43p8jCOo&list=PLERuG2InV9bvbz_vNnDyPfwehUM_hiyTx&index=3

 

先生の愛唱歌は『ラバウル航空隊』『ゴンドラの唄』

 杜先生が来日されるごとに、先生の日程さえ都合がつけば、私は新宿の歌声喫茶「ともしび」をはじめ、各地の歌声喫茶にお連れしたものです。太平洋戦争末期に台湾の中学生だった先生は、日本軍の教練に参加させられています。
 日本語が堪能で、日本の歌も好きで『ラバウル航空隊』『北国の春』『ゴンドラの唄』などを好んで歌われ、とても毒物学者とは思えない雰囲気でした。 横浜みなとみらい近くで開催される「ロマンの会」に参加された時は、1960年代にタイで杜先生が知己を得られた木村利人博士(生命倫理学創設者で『幸せなら手をたたこう』という歌の日本語歌詞の創作者)を紹介してもらいました。
 両博士が50年ぶりに「ロマンの会」の席上で再会されるなど素晴らしい感動の瞬間を参加者に与えてくれたものです。(アンソニー・トゥー博士追悼〈パート2〉の写真参照)。この時の「ロマンの会」では杜・木村両博士を囲んで『幸せなら手をたたこう』と『北国の春』を全員で楽しく歌いました。

https://www.youtube.com/watch?v=TZld1dO5NtE&list=PLERuG2InV9btfLHHUT1zqKzdDzy9fgTf

 新宿の「ともしび」では『ゴンドラの唄』を歌い、この歌にまつわるエピソードを会場の参加者に披露されました。

https://www.youtube.com/watch?v=K9HNspeYLU8&list=PLERuG2InV9bs-xG3rrQ_3NkCUP8l0lRZB

 

坂本九の『幸せなら手をたたこう』日本語版をつくった木村利人博士も杜先生の友人

 横浜みなとみらい近くで開催される「ロマンの会」に参加された時は、1960年代にタイで杜博士が知己を得られた木村利人博士(生命倫理学創設者で『幸せなら手をたたこう』という歌の日本語歌詞の創作者)を紹介してもらいました。
 両博士が50年ぶりに「ロマンの会」の席上で再会されるなど素晴らしい感動の瞬間を参加者に与えてくれたものです。(アンソニー・トゥー博士追悼〈パート2〉の写真参照)。この時の「ロマンの会」では杜・木村両博士を囲んで『幸せなら手をたたこう』と『北国の春』を全員で楽しく歌いました。

 この「ロマンの会」ですが、終わった後には、みなとみらいの「万葉の湯」温泉に有志一同と行ったこともあります。またある時は、東京の出版社の社員で杜博士が出版した書物の編集担当者も一緒に東京八王子の高尾山の登山をし、帰路調布の湯守の里深大寺温泉を杜先生、編集者、そして私の3人で楽しみ、深大寺そばに舌鼓を打ったことも懐かしく思い出されます。

https://www.youtube.com/watch?v=TZld1dO5NtE&list=PLERuG2InV9btfLHHUT1zqKzdDzy9fgTf

 杜先生が参加された歌声喫茶は「ロマンの会」(5回)、「ともしび」「街のうたごえin竜ケ崎」、西新宿の「トミ」、「ESSO横濱で唄おう会」(この時はTBSの記者も同席)「うたごえ成田」の多きに及んでいます。新宿の「ともしび」では『ゴンドラの唄』を歌い、この歌にまつわるエピソードを会場の参加者に披露されました。

https://www.youtube.com/watch?v=K9HNspeYLU8&list=PLERuG2InV9bs-xG3rrQ_3NkCUP8l0lRZB

オウム真理教のサティアン跡があった旧上九一色村を訪ねて

 杜先生は2014年9月、富士山麓の旧上九一色村を訪れ、オウム真理教がサリンを製造した第7サティアンの後がどのようになっているか視察されました。「地下鉄サリン事件の被害者の会」の代表、高橋シズヱさんも同行し、私の長男が車を運転して出かけています。
 当該地は視察時草ぼうぼうで、サリンのような恐ろしい毒が製造された場所とはとても思えないくらいでした。然し、あのような恐ろしい事件を二度と起こさせたくない、と杜先生は感慨深げに呟いておられました。

▲雑草が生い茂ったサティアン跡地で(旧上九一色村)

  杜先生は訪日時には、たびたび東京拘置所を訪れています。オウム真理教サリン事件の中川智正死刑囚と面会するためです。東京以外の拘置所も含めて全部で15回も面会しました。東京拘置所を訪れた時には報道関係者の共同記者会見にも応じています。

 

▲東京拘置所で中川死刑囚と面会した後、記者団に囲まれる杜博士(2018年3月14日)

 

https://www.youtube.com/watch?v=tM2i5Nzem3w

 

中川死刑囚と面会した元米海軍長官宅も訪問

 また、米国でオウム真理教サリン事件の様子や情報を集めておられた元海軍長官リチャード・ダンチック氏のお宅をワシントン郊外に訪問し、いろいろ情報を交換したこともありました。

 

▲▼ダンチック元海軍長官を訪ねる

https://www.youtube.com/watch?v=bdDzXA9JLxg&list=PLERuG2InV9bv3PNfx2H1GfeCfCyEG-pAf

 

首都ワシントンで警察に逮捕?

 サンフランシスコ近くのサン・マテオ市に杜先生が在住の頃、私は2016年、2018年、2019年とそれぞれの夏、杜先生のお宅にお邪魔しました。2019年には先生が所有するハワイのホテルコンドを訪れたり、先生と一緒に米国内の旅をしています。
 私が杜先生と一緒にワシントンDCに行った時には、私一人が夜遅くまでワシントンDCの見物をしたことでひと騒動がありました。
 宿泊したホテルに深夜になっても私が返らず、スマホでも連絡がつかなかったので、先生が非常に心配されて、ワシントン警察に私の捜索願を出されたのです。
 ワシントンDCおよび隣接の周りの市にも捜索網が敷かれました。ワシントン記念塔、リンカーン記念堂、ホワイトハウスなどを巡って一人満足して真夜中に地図を片手にホテルに向かっていると、いきなりスピーカーから大きな声が聞こえてきました。
「Are you Mr. Yasufuku?」
 いったいこのワシントンDCで私の名前を知っているのは誰かと振り向くと、警察のパトロールカーでした。このパトカーに収容されて杜先生が心配しているホテルに無事送ってもらったというわけです。
 この間、杜先生は日本にいる私の長男と長女に、「安福さんがワシントンで行方不明になりました」と連絡を入れてくれたそうです。なんて親切な杜先生でしょう。恐縮するばかりですが、そんなエピソードも懐かしく思い出されました。

いつも杜先生が運転していた

 私が米国内を旅行した時は、いつも杜先生が愛用のキャデラックを運転してくれました。一方の私はというと、見るもの聞くものが珍しくて仕方がない。ひたすらビデオカメラを回していました。
 2019年7月には、先生の三女夫妻とその家族が集まったGrand Big Reunionに参加するため、加州のサン・マテオ市からウィスコンシン州の州都マデイソン市まで車で往復しています。
 もちろん、運転したのは杜先生。サンフランシスコから太平洋を渡って広島くらいまでの距離を杜博士がひとりで運転をされました。途中5回ほどモーテルなどに宿泊しながらの旅です。
 私は例によってビデオ撮影に夢中でしたのでした。そんな時日本の軍歌や歌謡曲を一緒に歌ったりして眠気を覚ましながら大陸を横断したものです。先生が89歳の時でした。それにしても、杜先生は大変なエネルギーの持ち主です。

 

▲▼お揃いのTシャツでマディソン市内を散策

 

https://www.youtube.com/watch?v=zoGLos1DajY&list=PLERuG2InV9bsyYqwb8jYmPduDxRoOpgn7

コロラドの山の家でキャンプファイヤー

 マディソンからコロラドを経由してサン・マテオまで帰る途中、有名な避暑地のヴェイル(日本でいえば軽井沢)で杜先生の超豪華なホテルコンドに一泊し、温泉につかってからサン・マテオに向かいました。
 コロラドでは、杜博士の山の家にも2016年と2018年の2回連れて行ってもらい、杜先生の長男夫婦とキャンプファイヤーを楽しんだりしました。先生に頂いた縫いぐるみのロバは今でも、「先生はどこだ?」とばかりに嘶きながら我が家を歩き回っています。

▲コロラドの山の家でキャンプファイヤー

https://www.youtube.com/watch?v=siC3vh4KP7o&list=PLERuG2InV9bv_U3fLIfE0EKeCrtlteJK4&index=3

■米国の旅の撮影を私がして編集をプロの松本氏が編集した動画

https://www.youtube.com/watch?v=W6rMMmBB1vk&list=PLERuG2InV9bv1utpr3lFSJA4FrMNmPM9m&index=3


夫人が眠るアルタメサ墓地へ

 2016年、2018年には、サン・マテオからスタンフォード大学のあるパロアルトへドライブに連れて行ってもらいました。パロアルトのアルタメサ墓地を訪れ、杜先生の奥様のお墓と奥様ご出身の山本家のお墓があります。奥様の墓石には杜先生の名前も彫られていました。「私が死んだらこの墓に入るのだよ」と笑顔で仰られた顔が今も目に浮かびます。

 私は2014年から本年9月まで月刊誌『選択』を先生のところに毎月送っていました。書店では購入できないけど、各分野にわたる優れた分析・論評などでいっぱいです。先生は『選択』の熱心な読者でした。先に述べましたが、日本での交友は学術関係のみならず、多岐にわたっていました。私のように学問とは関係も何もない一般人にも親しく付き合ってくれました。
 奥様が亡くなられてから随分後に「後添えを」と探されれたようですが、先生のお眼鏡にかなう女性はどうも見つからなかったようです。いずれにしても、杜先生のような素晴らしい方は二度と現れなかったのでしょう。When comes such another. 杜祖健先生のご冥福を心からお祈りいたします。(おわり


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