池田一貴さんの短期連載小説(上・中・下=毎週火曜日)
矢切の渡し 関八州夢幻譚(中)
これは夢なのか。蚊帳の中で見た女は……
四 満月の夜の変身(承前)
源次楼(げんじろう)は頭が混乱していた。さっきまで蚊帳(かや)のなかで寝ていたのは、柴又生まれの不細工な娘、百合の香(ゆりのか)だったはずだ。それが今、行灯(あんどん)を点(とも)したら、夢にも現実(うつつ)にも見たことのない稀代の美女が、そこにいる。とても言葉にはできぬ、錦絵の絵師も描けまいほどの美形だ。源次楼はかすれた声を振り絞った。
「て、てめえは誰だ!」
「ごめんなさい。惑わせてしまって。私は百合の香。といってもすぐには信じられないでしょうけれど、話を聞いてください」
百合の香はすこしずつ語りだした。
源次楼は、あまりにも美しい女を前にして、どこを見たらいいのか視点が定まらず、目が泳いでいる。世に神々(こうごう)しいという言葉があるが、本当に神々しい人は、からだ全体から幽(かす)かな光を発しているように見え、朦朧(もうろう)然とした微光に内側から照らされている。そんな神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる存在を目(ま)のあたりにした経験は、源次楼にはなかった。
百合の香がこんな身体になったのは、十四歳で初潮をみてからだという。以後、満月の夜を迎えるたびに苦しい発作が起き、気がつくと顔貌(かおかたち)や四肢がこんなふうに変ってしまうのである。四肢が、と言われて気がついたが、確かに手足もすらりと伸びており、完全に別人に変身している。しかし、次の朝には元に戻るという。一晩だけの変身なのだ。
「化け物みたいな身体でごめんなさい」
百合の香は心苦しそうに詫びる。
「な、なに、俺は化け物きらいじゃねえから。なんなら、ずっと化けたまんまでも構わねえ」
本音だった。
源次楼は照れて頭をかき、ハッと気づいた。柴又の二本差し(武士)どもが、駆け落ちする俺たち二人を追い、鉄砲まで撃ったのは、この変身のせいか。代官はこの満月の夜の変身を知っていたのか? だが、殺しては元も子もあるまいに。
「はい。お代官さまはご存じだと思います。柴又村には長老だけに受け継がれた古くからの秘伝、言い伝えがあります。その一つが、私の家系に続く身化け、変り身の話。口外してはならぬ掟(おきて)なのに、たぶん長老が、今のお代官さまに話してしまったのでしょう」
その話はどうやら不正確だったらしい。長老から長老へ、何代にも渡って口伝されるうちに、実態からかけ離れてしまったようだ。真実を知るのは家族のみ。長老らは荒唐無稽な神話のような秘伝を語り伝えてきたらしい。
「三月ほど前、代官屋敷に呼ばれ、お女中方の前で裸になれと命じられました。尻尾を出せとか、お乳が四つか六つあるはずとか言われ、もう死にたくなるほど恥ずかしくて、悔しくて、泣きました。あんなこと耐えられません」
百合の香は涙ぐんでいる。
「そいつぁひでえ。おめえが『私を連れて逃げて』と言ったのは、そんな経緯(いきさつ)があったのか」
「はい。柴又では周りの耳が怖くて、詳しい話ができませんでした。ごめんなさい」
「だんだん読めてきたぜ」
「じつは、もう一つ、話さなければならないことが……」
「なんだい」
その刹那、ドタッと何かが倒れたような音がして、話が中断された。
垣根の外で聞き耳を立てていた国定忠治の子分甚太(じんた)が、大きな蝦蟇(がま)ガエルに飛びつかれ、びっくりして尻餅(しりもち)をついたのである。甚太は這(は)うようにしてその場を去った。その後ろの岩陰に隠れていた半目(はんめ)の権左(ごんざ)も、これをしおに引き上げた。
五 新妻をねらう忠治
国定忠治は膝を打つ。
「やはりそうかっ。俺の睨(にら)んだとおりだ。で、女の正体は何だ。狐か狸か、それとも」
「お、お許しを。そこまでは……」
「なにっ」
甚太は首をすくめた。忠治の怒りを買えばどんな仕打ちが待っているか予想もつかないため、震え上がっているのだ。
田部井(ためがい)村でも豪農といってよい百姓家を博奕(ばくち)のかたに取り上げ、定期的な賭場(とば)のひとつとしている国定忠治一家だが、そこは赤城山の洞窟とは別の臨時宿舎でもあり、幹部の寄合処でもあった。今日は幹部が集まるなか、三下の甚太から報告を聞いているところである。
忠治はふっと表情をゆるめた。
「考えてみりゃあ、亭主の源次楼も昨日まで知らなかったようだから、まだ正体まではわからねえだろうな。ごくろう。ま、これで遊んでこい」
忠治が与えたのは銭ではない。「銀壱匁」(ぎんいちもんめ)と書かれた駒札(こまふだ)だった。駒札とは、特定の博奕場でのみ通用する賭金(かけきん)がわりの木の札(長方形の手札)のことである。現代でいえばゲームセンターの専用チップのようなものだ。銀壱匁の駒札は、現金の銀一匁に相当する。現在の貨幣価値にして約二千円。当時、有力なやくざの駒札は、地元の商店で現金がわりに通用した。藩札(藩が発行する紙幣)と同程度の信用があったものもある。
甚太は胸をなでおろし、二枚の駒札を押し戴いていそいそと退出した。
「旦那さん。耳よりな話があります。ちと、お人払いを」
と忠治の前に進み出たのは半目の権左。「親分さん」ではなく「旦那さん」と言ったのは、なぜか忠治はそう呼ばれることを喜んだからだ。自分をやくざではなく、大店(おおだな)の旦那とでも思いたいのだろう。身内は親分と呼ぶ。
じつは他所(よそ)のやくざ連中も、忠治一家をやくざだとは思っていない。賭場荒しをしたり、豪商を襲って強盗をしたりする、博徒の義侠に外れた盗賊一味だと見なしてきた。とはいえ、忠治は豪商・豪農以外の堅気衆には手出しをしない、また有宿(戸籍のある、無宿ではない)の若者を子分にはしない、など頑なに守った原則もある。天保の大飢饉の際、貧窮農民に現金と米を配ったのも、誇張されてはいるが事実である。
忠治の指示で、日光の円蔵を除く子分たちは席をはずした。といっても、襖の外で、刀の柄に手をかけて聞き耳を立てていた。余所者(よそもの)を簡単には信用していない。
「へへへ。じつは源次楼の野郎、あっしに『あの女をもらっちゃくれめえか』と相談していたようなわけで、あの百合の香を上手に奪いとる算段なら、あっしにおまかせを」
「源次楼のその話は、百合の香が化けることを知らなかったからじゃねえのか」
忠治はするどい。権左は冷や汗をかいた。
「え、いや、た、確かにそうですが、あっしは源次楼の弱みをよく知っていますんで」
「弱み? 女に弱いとか、そんなことか?」
こんなに先を読まれたんじゃやりにくい。
「いえ、それがすこし違うんで……まあ、あっしにまかせておくんなさい」
「よし。なら、もし逃げられでもしたら、すべてお前のせいだ。覚悟はいいな」
権左の背中は汗でびっしょり濡れていた。残暑のせいばかりではない。
六 変身の秘密
満月の夜、百合の香の話には、重要な続きがあった。甚太と権左が帰ったあとのことである。
いかにも未通女(おとめ)らしく頬を染めながら、しかし凛(りん)とした態度で、百合の香が言う。
「もう一つの話というのはこうです。私と夫婦(めおと)の契(ちぎ)りをした男(ひと)には、その男にだけ、私の身体(からだ)に刺青が見えるようになるそうです。それも身化けした満月の夜だけ。契り月の次の満月の夜に、主(ぬし)様(夫)は初めてそれを見、そこで大事な決め事をしなければなりません」
百合の香じしん、母から聞かされた話だから、詳細はわからぬとはいえ、要約すればこうだ。
夫と契ったあと、次の満月の夜に変身するとき、百合の香の身体には夫にだけ見える刺青があらわれる。初回の刺青は、左右の胸に「開」と「閉」という字が浮き出る。夫はそのどちらかを選び、胸が凹(へこ)むほど押さねばならぬ。それが未来を決める。つまり、この開と閉の刺青は、一種の釦(ぼたん)なのである。現代風にいえば「未来の扉を開く二者択一の釦」とでもいえようか。
開を押せば、以後毎月、百合の香は今夜のように身化けし、全身に地図の刺青が浮き出る。月ごとに異なるその絵図を書き写せば、やがて百万両の埋蔵金の隠し場所が判明する。その代わり、刺青は消えなくなる。つまり夫の目には、妻は「美人だが刺青女」になってしまうのだ。
一方、閉を押せば、もう刺青は出ない。また身化けもしなくなる。つまり百合の香は、ただの不細工な容貌の女のまま、ふつうの人生を生きるのである。
「それでも、私と契りますか?」
源次楼はこのとき初めて、百合の香を愛(いと)しいと思った。容貌が美しいからではない。健気さに惚れたのだ。その夜、源次楼は百合の香を抱いた。
翌朝、百合の香が「昨夜お情けをいただき、身ごもりました」という。なぜか、妊娠したかどうかがその翌日にはわかるというのだ。これもまた、常人にはない特殊な能力であろう。
七 伯父の首を差し出せ
「源次楼さん、出入り(喧嘩)にござんす。お支度を願います。客人は一宿一飯の義理により、出入りの先頭に立って働くのが渡世のならわし。お支度を願います」
ついに来たか。源次楼はなんとなくこれを予感していた。数日前から忠治の子分たちの動きがあわただしい。
しかし、よく聞けばやくざ同士の出入りではなく、「八州廻り」すなわち関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の「道案内」を務めている三室の勘助(本名・中嶋勘助)を血祭りにあげるための出入りだという。
「道案内」といっても単に八州廻りの役人の先に立って道順などを教えるための案内役というわけではない。一定数の捕方(とりかた)どもを引き連れて賭博犯らの捕縛に協力する重要な役柄なのだ。つまり、幕府の正式な役人ではないが、それに準ずる補佐役なのである。公儀の権威を背に帯びている。
勘助はもともと東小保方(おぼかた)村の名主で、訴訟に強い、人望のある人物だった。いわば村のインテリだ。この当時は八州廻りの道案内に任命されていた。
八州廻りとは、関八州全体を捜査する特別警察官である。現代米国のFBIに相当するといえば解りやすいだろう。当時、江戸幕府が用意したFBI的な組織は二つあって、ひとつが八州廻り、もうひとつが火付盗賊改め(ひつけとうぞくあらため)である。
しかし八州廻りの役を担うのは、関東各地の代官の手付(てつき)・手代(てだい)という身分の低い事務方ばかり。同じく領主違いの土地でも自由に捜査できたFBI的な火付盗賊改めが、最高で五千石を超える大身の旗本、かつ番方(武官)の先手(さきて)組であったのとは大違いだ。後者は武士・僧侶等をも捕縛でき恐れられたが、前者は人員と権限が限られており、主に博徒を取り締まった。
八州廻りはその権限で、各地の村役人・宿役人・やくざの親分・岡っ引きなどを「道案内」に任命し、その配下の番太を捕方として、彼らの情報と人脈に頼った捜査をしていた。各地の道案内は、半「公人」というか臨時警察官だったわけである。主にやくざと岡っ引きを兼ねた二足草鞋(わらじ)の地回りが道案内を務めた。博徒が博徒の捕縛を手伝うのだから公平なわけがない。
ところが三室の勘助は、道案内には珍しい堅気の知識人だった。ただし、甥がやくざだった。国定忠治の股肱(ここう)の子分のひとり、板割の浅太郎(本名・武井浅二)がそれである。浅太郎の伯父であったことが道案内に選ばれた理由だったのかもしれない。また人望もあったので協力者も多かった。
百合の香の身化けから四日後、すなわち天保十三(一八四二)年八月十九日、田部井村の賭場を八州廻りと道案内・捕方らが急襲した。
国定忠治と日光円蔵はあやうく捕まるところを長脇差(ながどす)で切り抜けたが、予想もしない勘助の主導に驚いた。しかも、この日に限って浅太郎がいない。伯父・甥が示し合わせて忠治を八州廻りに売ったか、と思われた。
忠治の怒るまいことか。
「浅太郎を捕えて叩き斬れ」と叫ぶ。忠治と幹部らが潜伏する赤城山の洞窟に、浅太郎がやって来た。親分に斬られるのを覚悟していたようで、顔は真っ青だ。
長脇差に手をかけた忠治を、円蔵が抑える。
「親分、浅が裏切ったという証拠はねえ。ここは浅の忠誠心を試す方が上策じゃあるめえか。伯父の勘助の首を持ってこさせちゃどうです?」
さすが国定一家の軍師である。戦力を減らさず忠誠心を高める、という策だった。
こうして九月八日の夜、板割の浅太郎のほか、忠治の子分八人、助っ人として客人の源次楼と権左、計十一人が三室の勘助の住まいを襲うことになった。勘助宅に見張りや用心棒がついている場合に備えての人数である。
八 板割の浅太郎の無残
やくざ同士の喧嘩なら怖くはねえ。遠慮もしねえ。しかし聞けば、相手は八州廻りの道案内。しかも浅太郎の伯父。こりゃあ道に外れた殺し合いじゃねえのか。──源次楼は足が重かった。
道すがら思いきって浅太郎に問いかけた。
「伯父さんを斬って、その首を親分に差し出すなんてあんまりだと思うが、本当にそれでいいんですかい?」
「ほかに道があるか。俺の命はとっくに親分のもの。親の指図(親分の命令)にゃ背けねえ掟だ。堅気の伯父さんには申し訳ねえが……」
「人の道に外れすぎてやしねえかい?」
「人の道? それを踏み外した無宿者が、なにを偉そうに」
「おっと、そりゃ道理だが、それにしても八州廻りの道案内を殺したとなりゃあ、公儀への謀反(むほん)、逆賊だ。打首(うちくび)、獄門は間違いなしだが、みんなその覚悟はあるのけえ?」
その言葉に浅太郎は怒った。突然、長脇差を抜き、源次楼に斬りかかる。
「てめえ、邪魔する気か!」
他の子分八人も一斉に刀を抜いた。すでに源次楼も正眼に構えている。上州の田舎道で上弦の月に照らされた十本の金属光が、じりじりと間合いを詰めている。
半目の権左が裏返った声をあげた。
「ちょちょちょっとー、みんな待て待て。ここで斬り合ってどうするだー。こ、この源次楼兄いは侍の十人ぐらいアッという間に斬り捨てるヤットウの達人だぞ。俺ァこの目で二回も見た。北辰一刀流の免許皆伝、千葉道場で敵なしと恐れられた凄腕だ。親分の指図を果たす前にみんな死んじまったらどうするだー」
浅太郎ら九人もちょっとひるんだ。源次楼は、
「いや免許皆伝なんて聞いたこともねえ。俺は弱いぜ。さあ打ち込んでこいや」
ニヤリと笑う。浅太郎が憮然として刀を鞘(さや)に収めたので他の八人もそれに倣った。
「源次楼、おめえは帰れ。邪魔だ。この決着は親分の前でつけるからな。権左、おめえはそいつが逃げないように付いて行け」
浅太郎の言葉に、権左が「へえ」と応じた。心なしか嬉しそうな声である。
源次楼と権左が一軒家に戻ると、入れ違いに国定忠治が出てきた。
「おう、もう終わったか。こっちも味見はすんだぜ。人間と変わりねえな」
「え?」
居間に入ると、半裸の百合の香が泣いていた。
源次楼は血相を変えて飛び出し、叫んだ。
「待てい。忠治、待てい!」
(続く)
【池田一貴(いけだ いっき)さんのプロフィール】
福岡県生まれ。団塊の世代。東京外大卒。産経新聞社を経てフリーランスのジャーナリスト。現在、ノンフィクションおよびフィクションの作家として執筆活動。