【連載】頑張れ!ニッポン⑲
阪神・淡路大震災から30年
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
▲阪神・淡路大震災で倒壊した高速道路(ウェザーニュースの画面より)
北伊丹製作所に出張の日だった
阪神・淡路大震災の発生から30年の節目となる今年は、テレビで多くの特集番組が流れ、嫌でもあの日のことが思い出される。
1995年1月17日のあの日、私は北伊丹製作所に出張の予定であった。早朝のフライトに乗るために鎌ヶ谷市の社宅で、目覚まし代わりにセットしてあったラジオを聞いていた。
突然臨時ニュースが流れ出し、神戸大阪方面で大きな地震が発生したとのこと。その放送だけで出張を止める訳にもいかず、取り敢えず羽田空港に向った。
伊丹行きのフライトは予定通りとのこと、乗り込んだ機内で離陸を待っていると、前方のテレビに地震のニュースが流れ出した。見慣れた阪急伊丹駅のビルが映し出されたので何事かと見ていると、ビルの最上階にあるプラットフォームが崩れ落ち、1階にある交番が潰れていた。
これは只事ではないと思ったが、今更引き返すこともできずそのまま伊丹まで飛んだのだった。伊丹空港は天井の一部から水がしたたり落ちていた以外は見たところ変わりなかったが、タクシー乗り場に着くと、人が溢れていていつ乗れるかわからない状態だった。
伊丹空港から歩いて工場に向かう
空港から工場までは5~6Kmだということは分かっていたので、同僚と二人で工場まで歩くことにした。途中の家々は傾いていたり、壁が裂けて家の中が見えたり、門や玄関が崩れたりしているのが多くみられた。
酒屋の前を通るとビンが割れたのか、酒の匂いがプンプンしていた。工場に着いたのはおそらく11時ごろだったと思う。守衛に本社から来たと告げ事務所棟へ入ったが、人影も見られず事務所で一息入れていると、グラグラとかなり大きめの余震が来た。
ここに居ても何もできないし二次災害に会う恐れもあると思い、伊丹市の中心まで歩いて行く事にした。伊丹市中心部は電車もバスも止まっており、どうしたものかと考えていたら「空港まで臨時のバスを出すが誰か乗る人はいないか」と運転手が言っていたので、それに乗り込んだ。
同僚は宿泊の予定をキャンセルし、東京までのフライトを見つけて帰って行った。私は豊中市にまだ自宅マンションがあり、そこに大学生の長男を一人で住わせていたのである。今回の出張では、そこに泊まる予定だったので、伊丹空港に着く早々、安否を尋ねるために電話した。
その時点では電話は通じていたが、工場に着いてから関係者に電話した時は、もう電話は通じなくなっていた。だから、社員の安否確認は相当時間がかかったことを覚えている。
半導体工場には純水が欠かせない
プライベートな話を延々と述べて恐縮だが、ここから地震と半導体工場の事を考えてみたい。
北伊丹の工場は3階建ての長方形の箱のような構造なので、建物自体が潰れる事はまず無かった。工場敷地の一角には、上水を処理して超純水とし、それを工場全体に供給するための設備が設けられている。
純水をつくる装置は特殊なフィルターやイオン交換樹脂などからなっており、そこからポンプで製造ラインに供給される。また製造工程で必要となるガス類を供給するタンクも数棟あり、液体の窒素、水素、酸素などが専用トラックで運ばれてそのタンクにいれられる。そして、そのタンクから配管を通して製造ラインに供給される仕組みになっている。地震で水素の配管が損傷したら大事故になりかねない。福島第一原発で起こったような水素爆発が起こっても不思議ではない。また、シランやヒ素などの毒ガスも製造ラインの一部で使用しているので、その配管が漏れたら命に係わる事故になりかねない。ラインに並ぶ製造装置は多くの種類があるが、一番地震の影響を受けそうなものは露光装置かも知れない。製造装置は床への取り付けなどは地震を想定して行われており、装置によっては免振構造となっていると関係者から聞いたことがある。
▲純水製造装置(三菱ケミカルアクアソリューションズ(株)のHPより)
阪神地区は地震が少なかったのに…
ところで、日本は地震大国でどこでも地震が起こり得るので、半導体工場立地の選定は悩ましいものだ。阪神地区は歴史的に地震は少ないと思われていたのにあのような大地震が発生した。
九州はシリコンアイランドと呼ばれており、その中心部である熊本県には多くの半導体工場がある。その熊本が震度7の地震に襲われたのは記憶に新しい。福岡も時々大きな地震があるので、油断はできない。
日本だけではなく、台湾も地震が多い。直近では、2024年4月3日にマグニチュード7.7の地震が発生している。TSMCのある台北近郊の新竹でも震度5弱を記録したとの事である。
米国では、シリコンバレーから50~70Kmのサンフランシスコでもたびたび地震が起こっている。近くに長さ1000Km以上に及ぶサンアンドレアス断層があり、サンフランシスコやロサンゼルスは大地震に見舞われる地域なのだ。
2011年の東日本大震災の時は、ルネサスの那珂工場が被害を受け、約3カ月操業が停止した。その為、自動車向けマイコンの供給がストップし、車の生産に多大な支障をきたしたのである。
国内メーカーだけでなく、海外の自動車メーカーも影響を受けて大問題になったのであった。サプライチェーンと言う言葉が一般的になったのは、この時以来ではないだろうか。
また、当時は全ての原子力発電所が止まってしまい、電力の供給が逼迫して計画停電と言う処置がとられている。度々言うように、半導体工場は24時間、365日連続運転を前提で稼働しており、電力が途中で途絶えては仕事にならないのだ。たとえ予め停電の時期が分かっていても、途中で電気が止まるのでは工場稼働の計画が立てられない。
当時はユーザーである自動車メーカーも一緒になって、半導体工場のある地区を計画停電の対象から外してもらうよう、経産省に働きかけてもらったのである。半導体工場は組み立て工場を含むと、北は北海道から南は九州鹿児島まで、全国いたるところにある。それらの地域で台風、地震、洪水、停電などあらゆるリスクを克服しながら工場を稼働させているのである。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)