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毒物研究に没頭した日々を振り返る   在米68年のトゥー(杜祖健)博士

2021-09-21 04:30:14 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

毒物研究に没頭した日々を振り返る

在米68年のトゥー(杜祖健)博士

 

1930年に台湾・台北市で生まれたアンソニー・トゥー(杜祖健)博士が渡米したのは1953年のことでした。ノートルダム大学、スタンフォード大学、エール大学で学んだ後、ユタ州立大学、コロラド州立大学で教鞭を。専門はヘビ毒でした。私生活では1957年に日系アメリカ女性と結婚、5人の子供(娘3人、息子2人)を授かります。1998年からコロラド州立大学名誉教授に。オウム真理教が起こしたサリン事件の解決に大きく貢献したのもトゥー博士でした。テロ対策の講師として世界中を飛び回る多忙な生活。91歳を迎えた今も元気いっぱいです。なんと今年11月からは台湾の大学で客員教授として特別授業を受け持つとか。渡米して68年、トゥー博士はこれまでの研究生活を振り返った一文を榕樹会会報『榕樹文化』(2021年秋季-22年新年号)に寄せました。アメリカ人教授たちの嫉妬、日本の大学制度との大きな違いなど、じつに興味深い内容が満載です。本ブログではトゥー博士の許可を得て、同会報から転載することにしました。(本ブログ編集人・山本徳造)

 

曲がり道の研究 
私の研究フィロソフィー

杜祖健

 

 近頃電話で各国から問い合わせを受けるのはCovid-19が生物兵器と関係が有るかということが多い。オウムの中川智正氏が死刑になる前は各国からの講演の招待やインタビューは日本で起きた1994-95年に起きたサリン事件が多かった。その前はヘビ毒やラマン分光学でよばれることが多かった。それで私はヘビ毒のコンサルタントとしてエジプトに12回、インドには13回、パキスタンには7回も行った。
 日本の報道機関からの質問はかなり同じパタンが多く、「中川智正氏の拘置所での面会の時に、彼の死刑を受ける心情はどうか、覚悟はどうか等聞いてくれ」とかいうのが多かった。同じインタビューでもアメリカや台湾のテレビ局からの質問は同じサリン事件に関しても日本からの質問と少し違うのが多かった。たとえば「貴方は専門がヘビ毒なのにどうしてサリンテロ事件で日本の警察をお手伝いできたのですか」などであった。確かにヘビ毒は私の専門であるが、サリンでもお手伝いできたのは私は毒物学に興味を持ったので、ヘビ毒だけでなくあらゆる毒に興味を持ったためである。それで今回は私が1962年独立研究をしてからどうゆう風に今の研究体制になったかを述べたいと思う。

1.研究には研究資金を獲得すること

 アメリカの大学では給料は9箇月支給が多い。それは大学で教える報酬である。それで残りの3カ月は何してもかまはないのが原則である。理工科系の先生ならグラントがあればその中から夏の月給3か月研究の為とっていいことになっている。グラントというのは外から自分で取ってくる研究費のことである。私は1962年から退官する1998年まで夏の月給が取れたので幸いであった。この点は日本の大学とかなり違うところである。
 アメリカのグラントは国からの、州からの、個人財団から等多くの種類があるが、額が多いのはやはり国からのである。医学関係だとほとんどはNIH(アメリカ国立衛生研究所、National lnstitutes of Health)からのである。理系ではNSF(アメリカ国立科学財団、National Science Foundation)グラントは全国的な競争なのでとれるのが難しい。また大学も教員はグラントを持ってくるベきと思っているので、グラントを取れない先生は淘汰されて免職になる。アメリカでは大学に採用されてもすぐに永久な職を与えられるわけでは無い。たいてい4-5年の暫時的職でそのあと成績を見て Tenure(任期)をあげるかどうかを決める。Tenureをもらえば退職するまで大学に勤めることが出来る。
 グラントを取るには学術的な論文がないともらえない。初めてAssistant Professor(助教)になった人は論文がない。それでまず自分で研究していい論文を出すことが大事である。それで私はまず学術雑誌に採用されるよう学生とともに努力した。生化学で一番いい雑誌というとアメリカ化学学会誌Biochemistry(『生化学』)とアメリカ生物化学会会誌のJournal of Biological Chemistry(『ジャーナル・オブ・バイオロジカル・ケミストリー』)で、そこに出せるように努力した。学会誌でなく出版社の出しているArchives of Biochemistry and Biophysics(『生化学と生物物理学のアーカイブ』)やBiochimica et Biophysica Acta(『バイオチミカとバイオフィリカ・アクタ』)もいい雑誌なので出すように努力した。やがて1966年に初めてNIHのグラント3年間のが取れた。その次に私がとったのはFDA(アメリカ食品医薬品局、Food and Drug Administration)のグラント3年間取れ、またアメリカ海軍の研究費を4年間取った。 それで私は研究費に困ることは無かった。アメリカでの研究費は研究人員の俸給、私の夏の俸給、研究の雑費、学会出張費などを含む。


▲私の研究室のメンバー。これらの人の給料は私のグラントから払う

 


2.Teachingの良しあし

 アメリカの先生がTenureをもらえるかの一つの要素はTeaching(授業)が良いかどうかである。通常学期末になると学生にTeaching baluation(授業評価)の紙が渡され、その教員の良しあしを学生が評価するのである。私が教員の職を初めて取ったのはユタ州立大学でアメリカではあまり有名な大学ではない。Teaching Duty(授業義務)は重く、私は一般化学で学生数が110人ぐらいであったので、その採点だけでも大変であった。そのほか蛋白化学と実験の科日も担当したので、昼間は教えるだけと研究生の指導で時間を取られ、論文の読みは夜にした。コロラド州立大学に移動してから、Teachingはぐっと少なくなり、研究により時間を注ぐことが出来た。
 アメリカでは毎年の俸給の昇給はTeachingの良しあしも評価の一部で場合によつては昇給されない先生もいる。私の場合昇給の多少で文句を言うことは無かった。私は外国生まれなので、英語は自由に喋れてもTeachingではNativeの人にはかなはない。それでもらう分はそれで適切と自分でおもったからである。

3.校外での活動
 
 アメリカの先生は時々小学校の生徒に研究についてわかり易く話してくれと頼まれることがある。私も例外でなく小学校、中学校、高校やほかの大学から呼ばれて講演に行った。時々新聞社、テレビ局からも呼ばれることもあった。 実際には研究や授業で忙しいのだが、これも大学の先生の仕事の一部分として頼まれると喜んでした。
 校外からの呼ばれたときは授業に影響しない限り海外やアメリカ国内での招待講演も皆受け付けてした。それで私は講演やコンサルタントとして各国に行った。それで世界一周を9回、エジプトは12回、インドは13回も行った。

▲国連のОPCW(化学兵器拡散防衛機構)の派遣で2007年イランで講演

 

4.同僚との関係

 アメリカ人は表面上友好的な態度で接することが多い。ところが陰で何をするかわからない。通常アメリカの大学の先生はグラントを一つ持てばいいのであるが、私は3つのグラントを初めから取り、一時は5つのグラントがあったこともある。ユタ州立大学ではグラントを取ると学長室に行って登記して番号をもらい、それから自由に使える。普通の大学ではグラントを管理する特別オフィスがあるが、ユタ州立大学はあまり有名校でないので、グラントをとれる先生が少ないので、独立したグラントオフィスがないので学長室の秘書が兼任でしていた。私が3つ目の取れたというと、びっくりして小声で私に話した。「こんなにたくさんグラントを取ったことほかの先生に話してはいけないよ。ほかの先生が嫉妬して怒り出すから」という。それで私は「親切な忠告ありがとう。私も注意します」と返事した。ここの秘書のいうことは正しい。特に私は台湾から来た教員でアメリカ人から見れは台湾なんて聞いたことのない国の人が自分よリグラントをたくさん取っていると思うと普通のアメリカ人は快く思わないのである。それで私はいつも低姿勢でやってきた。アメリカではグラントを獲得すると大学も間接費というのをもらえる。その原因は研究をしたら、それだけ大学の負担も大きくなる。例えば電気、水道代、ヒーティーング、エーアコンディション代を指す。間接費は大学によって違う。コロラド州立大学の場合は47.5%グラントを出すところから取る。それで大学のグラントオフィスや副学長、学部部長などは私が他の先生よリグラントを取る成績が抜群なので良く認めてくれた。例えば一度外国の学会に行きたいと思ったが、旅行の金が尽きたが、大学が飛行機代と滞在費を出してくれたことがあった。問題は同じ教室の同僚である。表面上は皆穏やかであるが、陰でいろいろ邪魔することが有る。例えば私が外から学生が自分でスコラーシップを持ってくるというとき、この学生の成績が芳しくないから、入学させないとか間接的な邪魔をすることが有る。私はこれら外界の雑音には気をかけずもっぱら学生やポストドク(博士課程修了後. の研究者)の研究の指導に専念した。

▲私の学生の卒業式に出る。左は修士、右は博士号をとった学生

 

 ある時学会に出た時、知らない人が会いたいという。彼が言うには「貴方のグラント申請書が私の教授の所に審査に来た。教授はわざと不合格と書いた。私の教授は貴方がバリバリ研究で成功しているので嫉妬して怒っているためです。」と話してくれた。これはあり得ることだと思う。それでグラントで失敗してもくじけずに次にまた申請するように努力した。
 もう一つ例をあげて見よう。FDAがヘビ毒から薬を抽出したのを審査するため私に出てくれという。私はタイでウミヘビ毒を採集でタイ国に行かないといけないので断った。しかしFDAは「それならタイからFDAの会議にでそのあとまたタイに戻れば簡単でないか。その費用は全部出すから出ろ、政府が必要なときにそれに応ずるのは国民としての義務だ」とお説教を頂いた。それで私はタイで1週間滞在しマレーシアの国境付近で採集してからバンコックに戻り、ワシントンに飛行機で戻り、翌日ワシントンからベッセスダ市の会場にタクシーで行った。FDAのお役人が立って待っていた。私を見るなり喜んで、「貴方が本当に来れてよかった。万が一貴方が来れないと大変なので、スタンド-バイとして John Hopkins大学、インデアナ大学、とコネティカット大学の先生3人を呼びました。でもDr.Tuが来れて本当にたすかりました」という。私は困ったなーと思った。その原因は何もしないで3人に恨まれてしまう羽目に会うためであった。この会議は3人の神経毒の専門家と3人の神経臨床の先生が薬としての良し悪しを審査する。しかしこれらの大先生はヘビ毒のことを知らない。それで審査の前に私にヘビ毒、特にヘビの神経毒について20分間話してくれとの要求であった。たった20分の為に私をタイから呼び、またタイに送り返してくれたのであった。出る釘は打たれるというように、私は校内でも校外でも低姿勢でするように努力した。

5.曲がり道の研究

 私が独立研究を始めたのは1962年ユタ州立大学でAssistant Professorになってからである。まず何を研究するかを決めないといけない。私はスタンフォード大学でTabaco Mosaic Virus(タバコモザイクウイルス)の核酸の研究とエール大学で Heme-Protein(ヘムタンパク質)の研究をしていたので、それでその延長の研究をしようとした。私はすぐにできると自身満々であった。

 A.Virusとヘムの継続研究
 それでユタ州に多い甜菜糖にくっつくウイルスを分離してその構造を調べようとしたが、いくらやっても、分離できなかった。このプロゼクトは完全に失敗した。核酸とマグネシュームと結合の研究はうまく行き生化学でもいい雑誌 Biochemistryに採用された。また本にも1章を書いてくれと頼まれたりした。またほかの本の中でも大きく引用された。このテーマで私は博士号を2人の研究生にあげた。
 Hemeペプチドの研究は学生に与えず、私一人で続けてやり、Blochmica et Biophysica Actaに一人で発表することが出来た。この研究は私一人でしたのでこの論文だけ私だけの名前である。退職するまでに私は計300篇の論文を出したが、私一人のペーパーはこれだけである。私一人で実験してもできるのだと自信がついた。

 B.ヘビ毒の研究
 私が台湾を訪れたのは1962年で9年後に初めて台湾に戻った。父は二つの研究で有名であった。それはヘビ毒の薬理作用とアヘンの撲滅に尽力した。私が帰米する前日5種類の台湾産のヘビ毒をくれ、「お前は興味が有るかどうかわからないけど。ヘビ毒を研究したいならこの毒をアメリカに持って帰って研究でもしろ」といった。私はただ軽い気持ちでユタ州立大学の図書館ですべてのヘビ毒に関する本を読んだ。それで感じたことは、ヘビの咬傷はヘビの種類によって病理作用が違うのはヘビ毒の成分がヘビによって違うのではないかと思った。それでその成分を分離して化学構造を調べたら、おのおの違った構造式の成分が見つかるはずだと思った。それでNIHにガラガラヘビ毒を分離してその化学構造を調べたいと書いた。当時アメリカでのヘビ毒の研究は皆医者による研究が多かった。私はこの考えが採用されグラントが1966年から退職する1998年で続いた。それでガラガラヘビの毒成分の構造は私の研究室からかなり発表された。退職した後、カリフォルニアでガラガラヘビ学会で表彰された。

▲フイリッピンの無人島の洞穴のなかでウミヘビを命がけで採集する

 

 次に力を入れて研究したのはウミヘビ毒でこれはアメリカ海軍、NIH、アメリカ陸軍が研究費をくれたので、思う存分研究することが出来た。多くのウミヘビ毒の神経毒を分離してそのアミノ酸配列を決定したが、お互に似ており、その上コブラの神経毒とも近似していた。それで特に珍しい変わった構造は見つからなかった。それで沢山論文を発表した割に、私自身はそれほど満足でなかった。

▲インドの天然毒の学会から表彰された金属製の盾

 

 C.ラマン分光学による研究
 毒とは別に私はラマン分光学の生体物質の構造の研究でかなりいい成績をあげたのでこれについて述べよう。
 私は毎週一回図書館で最新の文献を調査するほか自分でChemical Abstract(『化学的抽象』、世界中の化学・化学工学分野の文献を収録した抄録・索引誌)、Current Content(『現在のコンテンツ』、世界の主要学術雑誌の最新目次情報を収録し、タイトルや著者名から文献を検索 できる資料)また秘書によるBiological Abstract(生物学的抽象)で私と関係あるほかの人の研究を追跡していた。その中でラマン分光学による生体物質への応用が目についた。ラマン分光は光の散乱による現象である。それしか覚えていなかった。好奇心で何でラマンが生化学に使われるか知りたくなった。残念ながら物理は1949年大学Ⅰ年生の時以来勉強していない。それで初めから勉強し直しをしないといけないので、一般物理の教科書を2冊買って急いで読み上げた。次にラマン分光学に体当たりをしょうと思いラマン分光学の本を3冊ばかし買って読んだ。わかるところも分からないところも有ったが一応ラマン分光学が何たることかわかるようになった。今度はラマンを応用した実際の論文を読み、何でラマンが生化学に応用出来るか了解できるようになった。今度は特に蛋白質への応用に注意して読み、ヘビ毒にも応用できるのではないかと思つた。しかし私にはラマン分光器がない。それで Georgia Tech(ジョージア工科大学)の Dr.Yuに手紙を出し私がヘビ毒から分離した神経毒の3次構造をラマンでしないかと申し出た。それで私はGeorgia州まで運転して彼の研究室でラマンスペクトル(ラマン分光法)を取った。スペクトルを解析したところ神経毒はBeta-Sheet(タンパク質の通常の二次構造の一般的なモチーフ)とBeta-Turn(タンパク質およびポリペプチドの非常に一般的なモチーフ)でによる構造でAlpha-構造(らせん状のタンパク質分子)のはないと結論して二人で喜んだ。そして私はすぐに論文を書いて生化学でも一番いい雑誌 Journa1 of Biological Chemistryに発表を採用された。それからあとX-rayでほかの研究者が同じ結果を発表した。

▲私が自分のグラントで申請して取れたラマン分光器

 そのうち共同でほかの研究者と何篇かラマン分光による論文を発表した。そののちに私自身でNIHにラマン分光応用のグラントを申請し許可になった。その器械をオーダーするときの注文書にサインするとき私の手が震えた。12万ドルという私が最大金額のものを注文したので、その金額は当時は一軒の家が買えるほどの値段であった。
 自分で器械が有るとどんどん発表することが出来、やがて本を2冊書いて出版 した。また分光学の学会のEditorにも招待され、多くの学会でも呼ばれるようになった。

6.退職の決定

 アメリカでの社会での退職年齢は65歳であるが、大学だけは何時退職してもいい。それで私はグラントが切れる68歳の時と決めた。そのあとは研究を一人のポストドクだけにして、悠々とした引退後の生活をしたいと思った。私の一生涯はほとんど大学である。それで一般社会への準備として夜学に行ってビズネス概論、ビズネスの法律を勉強をした。また実際の大学外の経験を得るため、退職する10年前から病院でボランティアーとして夜働かせていただいた。

7.研究をやめる
 
 私は68歳で退職したが、日本からの先生がよく学生を一人ポストドクとして採用してくれというリクエストが多い。それで退職した後はポストドクと2人でスモールスケールで研究を続けたいと思ったので、すべての機器をほかの人にあげてしまった。グラントを申請する代わりに一人だけのポストドクだから、その給料と研究費は私は個人で毎年3万ドル大学に寄付してその金で研究を続けた。退職した後私はちょこちょこ不動産を片手間にやり始めた。それである時コンドー(コンドミニアム)を4棟建て、それを売って儲けが10万ドル出たのでそれを全部コロラド州立大学に寄付して、私自身の研究に3年間使った。この建物のお金で留学に来たのは岩手医大の工藤君、福山大学の本屋敷君、近畿大学の中国人の張虞安君であった。 日本の警察から派遣された福岡県警の森永君が来た時は器械がないので日本から自分で必要な機器を持って来て、帰国するときにまた日本に持って帰ってもらった。
 研究をやめた理由は今の研究では小規模ではできないと痛感したことだ。すべての儀器(機器)は皆退職した時にほかの研究室にあげてしまったので、いい儀器なしにはいい研究はできない。わざわざ日本からアメリカに来て満足に研究させることが出来ず、これでは日本から来たポストドクにすまないと思い、研究をやめることにした。

8.私の研究のフィーロソフィ

 私は常に次のような心構えでやってきた。

 A.すべての時間を研究とTeachingに 尽くす。日本の海軍の訓練は月月火水木金金といわれているように私もそれを実行した。

▲私は祭日もいつも大学で研究した

 B.文献を良く調査 して研究の潮流に注意した
 C.論文は学術雑誌に載せるのみならず、学会でも発表したり、総説を書いたりした。
 D.週に1回 グループの研究討論会を開いた。
 E.だめな研究員は延長して採用することをしなかった。 スタンフォード大学の指導教授は私に忠告したのはだめな研究員はすぐに免職せよと言うていたが、私にはそれほどの勇気がなかったので、契約の期間まで使用し、延長を拒否した。
 F.グラントは研究の上絶対に必要で常にいくつか保持できるようにした。申請が駄目になっても、くじけずにまた書くということにした。
 G.論文をいい雑誌に出すことが一番大事であるが、本を出す機会があればさらに良い。
 アメリカで出した本は大部分が専門書であるが、日本で出したのは専門書の他に一般向けの本も書いた。

▲私の出版した本の一部

▲日本の書店で陳列されている拙著のサリン事件の本

 

【本ブログ編集部より】固有名詞(組織名や雑誌名など)が英語のまま表記されている個所が数カ所ありましたので、日本語訳と解説などを緑色で付け加えました。それ以外はすべて原文のままです。

 

 

 

 


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