【特別企画】42年前のフォークランド紛争から学ぶ①
日系人も元自衛隊員も戦った
山本徳造(本ブログ編集人)
今から42年前の1982年、フォークランド諸島を実効支配するイギリスと領有権を主張するアルゼンチンが武力衝突した。いわゆるフォークランド(アルゼンチン側は「マルビナス」と呼ぶ)紛争である。結局、この紛争にイギリスが勝利し、フォークランド諸島は英国系住民のもとに戻った。紛争直前まで支持率低下に悩んでいたサッチャー首相は一躍「救国の英雄」に。敗北したアルゼンチンのガルチエリ大統領は政権の座から引きずり降ろされ、しばらくしてアルゼンチンは軍政から民政に移行する。
私は当時、週刊誌の特派記者として紛争終結までの約1カ月間、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに滞在した。マルビナス諸島での取材は禁止されていたので、もっぱらブエノスアイレスと隣国ウルグアイの首都、モンテビデオで情報戦を中心に取材していたのである。そのフォークランド紛争は結局、約3カ月という短期間でイギリスの勝利で幕を閉じた。そこが現在もなお人々を苦しめているウクライナとガザの紛争と決定的に違う。期間の短さだけでなく、紛争の片方の当事者であるアルゼンチン、とくに首都の市民生活も、戦時下とは思えないほどあっけらかんとしていた。それどころか、市民の関心ごとはイギリスとの紛争ではなく、スペインで開催中のサッカー・ワールドカップにあったのである。
もちろん、ブエノスアイレスかフォークランド諸島まで約1900キロとかなり離れていることもあるだろう。それにイギリス軍が敵国の首都を空爆することも考えられない。アルゼンチンの人口の過半数を占めるのは、イタリア系である。そのラテン気質がそうさせているのか。気が向けば、行きつけのカフェでエスプレッソをすする。夜8時を過ぎれば、いつものように分厚いステーキをメンドーサ産の赤ワインで流し込む。夕食後は年配の人なら、夕食後はタンゴバーで夜遅くまで踊る。いずれにしても、日本人から想像もできないほどの余裕だった。
ちなみにフォークランド諸島の領有権をめぐっては、紛争終結後も決着はついていない。だから、アルゼンチンに中国かロシアが影響力を持つようになるなら、話は別である。いつ紛争が再発してもおかしくはないのだ。東西冷戦終結後の世界を見ればわかるだろう。「安定した国境線は、どこを探してもない」といっても過言ではない。台湾統一をもくろむ中国は台湾への威圧をますますエスカレートしている。
台湾有事なら日本への影響も避けられない。それどころか、日本固有の領土である尖閣諸島を実効支配することも大いに考えられる。北朝鮮の暴発も予測不可能だ。そしてプーチンのロシアも何をするかわからない。はたして日本に有事の備えはあるのか。筆者が当時、ブエノスアイレスで取材して週刊ポスト(1982年6月11日号)に掲載した現地報告を再掲する。
■週刊ポスト(1982年6月11日号)
ブエノスアイレス発/本誌特派・山本徳造
日系アルゼンチン兵士の
戦地マルビナスからの手紙
20歳の息子を志願兵として戦地に送り出した
松本和子さんの慟哭
▲炎上する英艦アンテロープ (写真上) サッチャー英首相、(右) ガルチエリ・アルゼンチン大統領
一個5000ペソの"愛国バッジ"
マイアミ発のパンナム453便がアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着したのは、5月21日午前8時30分。あとで消えると、ちょうどその時刻に英国軍がマルビナス島(フォークランド島)に上陸作戦を開始していた。
町は平穏だった。ブエノスアイレスの銀座ともいうべきフロリダ通りは、恋人たちが肩を寄せあって、三々五々散歩している。電器店の店先のテレビが、英国軍のマルビナス島上陸のニュースをュースを流していたが、立ち止まる人はいない。
だが、恋人たちをよく観察すると、たしかに"戦争"がそこに影を落としていた。彼らのジャンバーやセーターの胸には、アルゼンチン国旗のバッジが付いていたのだ。"愛国基金"を集めるため、町のあちこちに設けられたボックスで売っている、1 個5000ペソ (約90円)の"愛国バッジ"だ。
バッジのほか、新聞にも確実に "戦争"が存在していた。たとえば、5月25日付の各紙は「キャンベラ大破」の見出しをデカデカと掲げていた。前日、アルゼンチン軍機が英国の戦時徴用船「キャンベラ」を大破させたことを報じていたのだ。
しかも、現地の新聞をみていると、戦況はアルゼンチンが断然、有利に運んでいるように思えてくる。勿論、アルゼンチン当局が厳重な報道管制をとっているので、見方が一方的になるのはやむを得ない。
ブエノスアイレスの市民が不思議なほど落ち着いているのもひょっとすると、この厳重な報道管制のためかもしれない。戦後生まれの私にとって歴史の一コマであった『大本営発表」とそれを信じこんだ『国民生活』をふと重ね合わせてみたくなる。そんな雰囲気が戦時下のブエノスアイレスには漂っている。
前線の息子に"慰問袋"を…
約3万6000人の日系人は、戦争の成り行きを固唾をのんで見守っている。
5月1日、約3000人の日系人がアルゼンチンへの"忠誠"を証明するため、「ビバ・アルヘシンチーナ(アルゼンチン万才)」と叫びながら、ブエノスアイレスの目抜き通りを、デモ行進した。また、日系人の "愛国基金"は、1億5000万ペソをこえている、と聞いた。
▲愛国デモを行なうブエノスアイレスの日系人たち
私は日本人会(会長・宇野文平氏)を訪れた。同会では、"マルビナス対策本部"を設置して出征した日系人の情報収集を行なっていた。
対策本部によると、これまでに確認された"出征日系人"は5人。内訳は、戦闘機パイロット(空軍少佐)、軍医(空軍中尉)、戦車隊員(兵卒)、空軍要員(階級不明)、陸軍通信兵(同)――だという。
陸軍通信兵の名前は、松本俊二君(20)といった。アルゼンチン名はファン・アルベルト・マツモト。ブエノスアイレス大学政経学部に学ぶ二世だ。私は、俊二君の両親を訪ねた。
ブエノスアイレスから北へ車で約1時間。エスコバールという小さな町の郊外に俊二君の実家があった。
父親の毅さん(46)は、香川県出身で、25年前にアルゼンチンに移住したという。毅さんはいった。
「今度の紛争で、私はアルゼンチンを見直しました。息子は、大学を2年で休学して、アルゼンチンのためにすすんで戦いに出かけました。入隊は4月12日でしたが、その時はまさか前線に出かけるとは思ってもいなかったので、友人もよばず、家族だけでささやかな壮行会をしたんですが、ある日突然、マルビナスから手紙がきたので、じつはおどろいた次第です。その後、『元気でいる』という電報も届きました」
戦地マルビナスからの俊二君の手紙は、ことさらノンビリし調子で綴られていたという。「こちらで英語でも勉強しようかと思っています」 そんなことも書かれてあった。 それは彼の両親に対する精一杯の思い
やりであったのだろう。
母親の和子さん(43)は次のように切々と語った。
「あとで上官から聞いてわかったんですが、息子の連隊は750人のうち、50人がマルビナス行きを免除されたそうです。うちの息子も、免除組のひとりでしたが、出発直前に従軍牧師や上官に頼み込んで、マルビナスにいったらしいんです」
彼女は、チョコレート、防寒クリーム、靴下、手袋などを詰めた小包、すなわち"慰問袋"を作って、マルビナスの俊二君に送ったという。
日本人会の宇野文平会長の子息・ワルテ君(19)は、マルビナスの後方支援基地コモドロリバダビアで、従軍している。父親の宇野会長に会うと、
「息子から手紙がきましたが、私はそれを読んで涙をこぼしました」
と述べた。
父親の涙をさそった手紙の文面とは、次のようなものである――。
「コモドロ・リバダビアの基地から英機動部隊の攻撃に向かうアルゼンチン空軍の若きパイロットたちは、飛行機の座席に着くと、『ビバ・ラ・パトリア!(祖国万才)」と叫び、飛び立っていきます。誰ひとりとして、生きて帰ろうとする者はいません……」
まるで、太平洋戦争末期におけるカミカゼ特攻隊の出撃風景そのものではないか。そういえば、アルゼンチン機は、カミカゼのように、英機動部隊に突っ込んでいくと聞いた。
元自衛隊員2名が義勇兵に
アルゼンチンの青年たちは、いま、祖国の危機に愛国心を燃立たせている。
「私は30年間、この国に住んでいますが、アルゼンチンのどこにこんな愛国心に燃えた青年たちがいたのか。不思議なくらいです」
と、宇野氏は語った。
日本人会副会長の森田弘さん(49)には、23歳になる息子のルイス君がいるが、
「ルイスは、ブエノスアイレス大学の医学部の学生です。今年卒業するんですが、もしかすると、兵役に服し、マルビナスへ行くかもしれない。そうなれば心配だけど、義務なのだから、よろこんで送るつもりです」
という。
ブエノスアイレス市内で公認会計士をしている、二世の家路リカルドさん(35)も、愛国心を煮えたぎらせていた。
「もし、二世部隊が編成されたら、私は必ず志願します。"愛国基金"には、50万ペソ出しました」
私がインタビューした日系人の中で、もっとも若かったのは上原ダニエル君(23)。彼は日本人会青年部長で、職業は保険外交員。空軍で2年間兵役を務めたというダニエル君は、アルゼンチンが核兵器を保有している、と信じて疑わない。
「でも、核兵器は使わないほうがいいと思う。広島・長崎のことは知っています。あれは悪いことです。英国軍に対しても、核を使用するのはやめた方がいい」
彼のガールフレンドは、ダニエル君が戦場に連れていかれるのを心配している……という。
さらに、現地の邦字紙『らぷらた報知』(5月16日付)には、次のような記事が掲載されていた。
山内隼雄氏と馬場一寿氏というコルドバ在住のふたりの元自衛隊員が義勇兵として、アルゼンチン軍に志願した――。
たしかに、国家存亡の時に示される祖国愛、愛国心は美しいものかもしれない。しかし……と、私は考える。いかにミサイ飛び交う近代戦といえども、〝弾よけ”になるのは民衆だ。その姿に変わりはない。
岩手県出身の佐々木良蔵さん(53)は、アルゼンチンに移住して15年目。ブエノスアイレスの南30キロのノンチャンで、米と花を作っている。男7人、女1人の子だくさんの佐々木さんは、噛みしめるようにいった。
「私は、日本で戦争を体験しています。その体験からいっても、紛争が早く片付いてほしいと思います。アルゼンチンが勝つかどうかはわかりませんが、本土への爆撃がないことを祈っています……」
こうした気持ちは、アルゼンチン国民に共通してあるのではあるまいか。
冒頭で述べたように、戦時下でありながら、ブエノスアイレスの街は不気味なほどの平静さに包まれている。だが、その静けさこそが、実は戦争による"国民悲劇"への予兆ではないだろうか。
そして、少なくとも、われわれと同じ日本人の血が、英ア戦争という近代兵器戦の中で今にも流されようとしている事実だけは、地球の裏側にいる1億人の日本人に是非とも知ってほしいと、いま私は願っている。
★次回はイギリス、アルゼンチン両軍が繰り広げた心理・情報戦の実態に迫る!