【連載】半導体一筋60年④
「失われた30年」への序章
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
「第一次半導体協定」は米国の宣戦布告だった
私は昭和60(1985)年10月、半導体工場から本社半導体マーケティング部門に異動となったのですが、それは日米半導体摩擦が続いている時期でした。その4カ月前の同年6月、米国半導体工業会(SIA)は「米国市場において日本がDRAMをダンピングして売っている」と米通商代表部(USTR)に提訴しました。
1970年代後半から80年代にかけて、日本の半導体、特にDRAM(Dynamic Random Access Memory)は米国市場において売り上げを急速に伸ばします。DRAMとは、半導体素子を利用した記憶装置の一つ。主にパソコンのメインメモリ(主記憶装置)として用いられています。
この日本製のDRAMが世界の市場から米企業を追い出す勢いを示しました。そして昭和61(1986年)には日本の半導体生産額が世界市場で米国を上回るほどになります。米国は深刻な危機感を抱いたのも当然でしょう。
米通商代表部(USTR)の提訴を受けて日米政府間交渉が始まりました。その交渉の結果、翌年9月に「第一次半導体協定」が締結されます。この協定で日本は次のようなことを約束させられました。
①日本の市場を海外メーカへ開放する。
②日本企業はダンピングをやめる。
しかし、翌1986年になっても日本のダンピングは続いたことにより、「日本市場の開放も不十分だ」として、米国は日本からのパソコン、カラーテレビ、電動工具の輸入に100%の関税をかける事を通告しました。
米国のバイデン大統領は最近、中国製EV(電気自動車)への関税を25%から100%に引き上げることを表明し、対中強硬姿勢を鮮明にしましたましたが、私は1980年代の日米半導体摩擦を思い出したものです。
▲キャンプデービッドで会談したレーガン大統領と中曽根首相(1986年4月)。「ロン」「ヤス」と呼び合うほど首脳同士は仲が良かったが…
強気の日本にアメリカが反撃
日本にダンピングを止めさせる手段として、米国は日本企業の原価データを提出させ、それを基にFMV(Fair Market Value=公正市場価格)なるものを算出し、この値以下で売るとダンピングとみなすと言い出しました。
各社の社内情報にまで踏み込む強引なやり方には、みんな驚いたものです。それだけではありません。さらに日本市場の開放に関しては、外国製半導体(殆どは米国製)の日本市場でのマーケットシェアを20%以上にすることを要求したのです。
当時、外国製半導体の日本市場でのマーケットシェアは、確か10%程度でした。これを20%まで持ってゆくのは至難の業としか言いようがありません。なぜかというと、日本の半導体市場は家電向けが主体だったにもかかわらず、それに適したアメリカ製半導体が少なかったのです。
そんなわけで、アメリカ製の半導体が日本でシェアを伸ばす事は大変難しかった理由がお分かりになったでしょうか。左ハンドルで燃費が悪いアメリカ車が日本で売れないのと同じで、要するに市場のニーズに合わないものは売れないというわけです。
この半導体協定にもかかわらず、日本企業の勢いはしばらく続きました。前述のように1989年においても、半導体の売上ランキングベスト10に日本企業が6社も入る状況でした。
当時の日本の半導体メーカーの鼻息は荒く、「アメリカの半導体なんて使えねえ! 何でもいいから輸入してどぶに捨ててしまえ」と吐き捨てるように言うのを聞いたことがあります。
1989年に出版された『NOと言える日本』の中で、著者の石原慎太郎氏は「アメリカのミサイルは日本の最先端半導体が無ければその精度を保てない。この半導体をソ連に渡したら冷戦の軍事バランスをがらりと変える事ができる。日本はアメリカの言う事を聞く必要は無い!」と述べました。これでは米国の危機感は高まる一方です。
日本の半導体に大打撃を与えたバブルが崩壊
しかし、1990年代に入ると、潮目が変わり始めました。日本経済のバブルが崩壊したのです。土地と株は暴落し、銀行は巨額の不良債権を抱えました。こうして日本経済の迷走が始まったのです。
経済の低迷は通奏低音のように、日本半導体の長期的凋落に影響を与えたのではないでしょうか。次いで世界的な半導体の産業構造に大きな変化が起こり始めます。すなわちファブレスとファンドリーの誕生です。
ファブレスは工場を持たないメーカのことで、製品開発や設計のみを行います。工場を持たないので巨額の設備投資負担は無く、投資のタイミングを誤るリスクもありません。
一方のファンドリーは半導体の製造工場と受託製造に特化した専門企業のことを指します。ただ、ここで説明するには紙面が足りませんので、その話は次号以降にしましょう。
半導体市場は変動が激しく、急成長することもあるし急降下することもあります。「シリコンサイクル」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。4年に一度需要が急増し、その後に急落することを指しています。オリンピックと米国大統領選挙は4年おきに同じ年に行われます(前回の東京オリンピックは例外)が、この年は大体において半導体の需要は拡大してきました。
しかし、他の要因もあるので、このサイクルもずれる事があります。投資の判断を誤れば、工場が完成する頃に市況が悪化することもあります。そうなれば巨額の赤字を出すことになります。
ファブレス半導体企業はアメリカに多いようで、優れた製品開発力・設計力を武器に、急成長したスタートアップ企業が続々と誕生しています。ファブレスは自社ブランド製品を売り、製品については全責任を負います。
最近、急成長して米証券市場を牽引して話題になっているNVIDIA(エヌビディア)は、ファブレス半導体の代表的な存在です。
一方、ファンドリーは他社からの委託を受けて生産を行い、製品開発や設計はやりません。自社ブランドで製品を売ることもないと思ってください。この形態の企業は台湾に多く、熊本に新工場を建設中で話題になっているTSMCはそういったファンドリー企業の代表格です。
最先端の半導体をつくれることができるのは、今やTSMCのみと言われていますが、そのことについても次号以降で説明を試みたいと思います。
「水平分業」と「垂直統合」
このファブレスとファンドリー企業が続々と生まれた1990年代後半に言われ出したのは、「水平分業」と「垂直統合」という事です。日本企業は殆ど垂直統合型で、IDM(Integrated Device Manufacturer)と呼ばれていました。
IDMは研究、開発、設計、量産、販売全てをやることを強みとし、誇りともしていました。そして製品もメモリ、マイコン、アナログ、ロジック、パワーなどあらゆる製品を手掛けていました。総合電気メーカの一部門としての半導体事業であり、全方位展開が当然の発想だったと思います。
平成2(1990)年に日本半導体のマーケットシェアはピークアウトし、その後今日に至るまでの30年間低落を続けています。ピーク時に50%もあったシェアですが、今では8%程度になっているのが現状です。
「失われた30年」と言われてきました。しかし、半導体の低落は34年間も続いています。半導体は景気動向の先行指標だと言われていましたが、日本経済全体が低落するのに先行して、半導体の低落が始まったのではないでしょうか。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)