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世界をリードした島田海軍技術研究所  元自衛艦隊司令官が父親の驚くべき研究を明かす

2024-02-23 05:24:15 | 特別記事

世界をリードした島田海軍技術研究所

元自衛艦隊司令官が父親の驚くべき研究を明かす

 

▲元自衛艦隊司令官の山崎眞さん

 

 静岡県島田市で1月27日、軍事研究者が注目する講演会が行われた。「海軍島田実験所研究者―山崎荘三郎の戦中戦後」と題された講演会(主催・島田近代遺産学会)である。講師は元海上自衛隊海将で自衛艦隊司令官を務めた山崎眞さんだ。

 まずは山崎眞さんの略歴を紹介しよう。

昭和16(1941)年11月、岐阜県高山市生まれ。昭和40(1965)年3月、防衛大学校(9期、機械工学科)卒業し、海上自衛隊に入隊。護衛艦「あきぐも」艦長を経て、昭和60(1985)年に米国海軍大学校に留学する。帰国後、第1護衛隊群司令、練習艦隊司令官、海上幕僚監部装備部長、大湊地方総監などを歴任して平成10(1998)年7月に自衛艦隊司令官に就任。同年8月、北朝鮮のテポドン1弾道ミサイル対処を指揮し、翌年3月には能登沖不審船対処(わが国初の海上警備行動)を指揮したが、この年の12月に退官した。平成24(2012)年2月まで日立製作所および伊藤忠商事顧問、BMD国際会議、米海軍水上艦協会(SNA)シンポジウム、ISA(International Studies Association)Conventionなどに参加。現在、全国防衛協会連合会常任理事、日本国際政治学会会員。

 

 講演に先立ち、島田近代遺産学会会員の餘家清さんが山崎さんを紹介した。餘家さんは本ブログ編集人(山本徳造)の40数年来の知人でもある。くしくも餘家さんの義父・霜田光一さんは先の大戦中、大学院特別研究生として島田海軍技術研究所でレーダー開発にたずさわった人物だ。

 

▲講演に先立って山崎さんを紹介したのは、島田近代遺産学会の会員の餘家清さん

▲『大学院特別研究生の[糎波電探]開発―霜田光一の海軍戦時研究』

 

 そのときの研究を霜田さんは何冊ものノートに書き残していた。3年前、それらの資料や霜田さんとのインタビューをもとに餘家さんが一冊の本にまとめる。それが『大学院特別研究生の[糎波電探]開発―霜田光一の海軍戦時研究』。本ブログの書評コーナーでも取り上げたが、残念ながら昨年5月、霜田さんは102年の生涯を閉じた。大往生である。

 さて、この日の講演会は二部構成だった。第一部は「父と私の戦中戦後」、第二部は「防衛よもやま話」。第一部の主役が、山崎さんの父親・山崎荘三郎さんについてである。

 荘三郎さんは明治38(1905)年12月 岐阜県高山市で四人姉弟の末っ子として生まれた。出生生家は一位一刀彫を営んでいたという。第八高等学校から京都帝国大学理学部物理学科に進学した。

 昭和12(1937)年10月に日本無線(株)に 入社、真空部にてマグネトロンの開発に従事する。その2年後の昭和14(1939)年、極超短波大出力マグネトロン(M-3)を世界に先駆けて完成させた。さらに翌年にはM-3の改良型マグネトロン(M-312)を完成。昭和16(1941)年10月 マグネトロンM-312を使用したレーダー(22号電探)の試験に成功する。

▲実験中のマグネトロンを前にした山崎荘三郎さん(昭和15年10月、日本無線三鷹本社で)

▲レーダーの実験を東京湾で実施し、連続波による探知実験に成功(昭和15年11月、島田海技研の実験船上にて)

▲初めてインパルス法によるレーダー研究に着手した頃。2号2型レーダーを担当したグループ一同と(昭和16年3月、新宿宝亭にて)

▲海軍技研の渡邊寧所長の書。渡邊さんは後に静岡大学の学長に

 

マグネトロンと強力電波兵器

 荘三郎さんが島田海軍技術研究所(海軍技術研究所島田分室が正式名称、以下=島田海技研)に出向したのは、昭和18(1943)年10月のことだった。海軍奏任官待遇である。こうして荘三郎さんは高周波発振管のマグネトロン(磁電管)の開発と強力電波兵器開発の「Z研究」にたずさわることになった。

▲海軍技研に出向中の山崎荘三郎さん(左)

▲山崎荘三郎教授が就任時に制作したマグネトロン(長さ40㎝、電極は戦時中のもの。大阪教育大学物理学教室所蔵)

 

 島田海軍技術研究所には、日本を代表する科学者が顔をそろえていた。その実態を子息の山崎眞さんが明かしたのだが、当時の日本の科学水準が世界のトップを走っていたことに、今更ながら驚かされる。

 まずは島田海技研の顔ぶれ見てみたい。

 所長/渡邊寧(東北帝国大学教授)、副所長/水間正一郎(海軍技師。研究者/山崎荘三郎(日本無線技師)、高尾磐夫(旅順工大教授)、萩原雄祐(東京帝国大学教授)、菊池(大阪帝国大学教授)、渡瀬譲(大阪帝国大学教授)、朝永振一郎(東京文理科大学教授)、小谷正雄(東京帝国大学教授)等(出典は伊藤庸二・著『機密兵器の全貌』他より)。

 まさにそうそうたる面々ではないか。そんな優秀な科学者たちが取り組んだのがマグネトロンの開発だった。山崎さんが年表で説明する。  

 

昭和8(1933)年 伊藤庸二海軍技術中佐が磁電管(マグネトロン)の研究を開始。マグネトロンはレーダーの電波発信源(心臓部)
昭和9(1934)年 海軍技術研究所(海技研)が日本無線株式会社との協同研究を正式契約
昭和13(1938)年 海技研は超短波橘型8分削用マグネトロン(波長10cm、連続出力300w)を完成、技術振動(G型振動)を発見するも理論的解明未了
昭和14(1939)年春 日本無線株式会社真空部(中島茂部長、山崎荘三郎課長等)がG型振動を解明し、波長式を導き水冷式陽極(無酸素銅製)を発明。これによって、大出力の「水冷式陽極磁電管M-3」(波長10cm、連続出力500W)を完成させる。英国より1年半も早く、世界初だった。
同 年(1939)年秋 東京湾観艦式において見陸上から空母「赤城」をキャッチ(波長10cm)
昭和15(1940)年 M-3の改良型磁電管M-312(対水上レーダー用)を完成
昭和15(1940)年11月 M-3 による連続波レーダー探知試験に成功(送受信機別々)
昭和16(1941)年4月 ドイツ視察団の伊藤藩二中佐からインバルス超短波変調技術情報
昭和16(1941)年10月28日 M-312を使ってパルス変調レーダー探知実験に成功
昭和17(1942)年5月 戦艦「日向」に22号対水上レーダー、戦艦「伊勢」に21号対空レーダー、戦艦「山城」に逆探(受信装置)をそれぞれ搭載。アリューシャン作戦での視界不良時、戦艦「日向」は22号電探を使い味方艦隊の集結に当たって安全を確保した。ミッドウエー作戦には、レーダー、逆探装備態は配備されなかった。
昭和17(1942)年6月 呉帰投前、戦艦日向が22号電探により36kmの距離で戦艦扶桑を探知
昭和17(1942)年6月21~24日 「日向」「伊勢」の両戦艦が第2回電探実験を実施
昭和17(1942)年6月 ミッドウェー海戰直後、戦艦「日向」にて「電探検討会議」を開催。山本五十六大将が「通常兵器ではこの戦いは1年持たない……若い技術者が画期的な兵器を開発してくれ」と発言
昭和17(1942)年10月 日本無線(株)が海軍技術研究所三鷹分室を大拡張。大出力マグネトロンの研究を開始(伊藤庸二海軍造兵中佐)
昭和18(1943)年1月 「Z研究構想(原子力、強力電波)」の開始(海軍軍令部)
昭和18(1943)年6月  静岡県島田市での実験所建設に着手(海軍技師・水龍正一郎が立案計画)に電波研究部在新設(部長は名和武技術少将)。霜田光一氏が參加し、電波探知機の開発及び22号レーダーの受信方式を改善(鉱石検波スーパー方式の改二受信機に)
昭和19(1944)年6月 島田海軍技術研究所が正式に開所。その目的は、大出力極超短波の発生輻射による物理化学・生理作用を研究。これの用兵上・技術上の利用についての具体策を立て装置を試製

 

戦後は大阪教育大学学長代行に 

 山崎荘三郎さんの戦後も気になる。昭和20(1945)年9月、終戦により日本無線を退社して高山市に帰省。昭和25(1950)年5月に京都大学講師になり、翌年12月には大阪学芸大学助教授に。昭和28(1953)年4月、同大学教授に就任。ちなみに大阪学芸大学は昭和42(1967)年6月に「大阪教育大学」に名称変更される。大学紛争が吹き荒れていた昭和44(1969)年10月、大阪教育大学学長代行に就任し、大学紛争を収拾する。昭和46(1971)年4月、同大学を退職、名誉教授に。

 講師の父親、山崎荘三郎さんが出向して研究開発に没頭していた島田海技研。その例を見てもわかるように、当時の日本は世界をリードする「科学大国」であった。そのことに今更ながら驚く読者も少なくないだろう。

▲山崎荘三郎さん(左)と眞さん(江田島の海上自衛隊第一術科学校にて)

 

北朝鮮相手の防衛最前線

 講演の第二部「防衛よもやま話」では、講師の山崎眞さんが勤務した海上自衛隊でのエピソードが中心だ。いずれも興味深い内容ばかりである。とくに平成10(1998)年8月、北朝鮮がテポドン1弾道ミサイルを発射時には、山崎さんが指揮をとった。
 さらに翌年3月に能登沖に不審船が現れる。北朝鮮の船だった。山崎さんはこのとき、日本初の「海上警備行動」を指揮したのである。まさに「防衛最前線」だった。講演会が静かな興奮の渦に包まれたのは言うまでもない。

 

▲軍人同士は仲が良い?

 

毒物研究のトゥー博士とは旧知の仲

▲成田に到着したトゥー博士

 

 島田市での講演会の翌日、アメリカから一人の学者が密かに来日していた。毒物研究の世界的権威、アンソニー・トゥ―博士である。
 本ブログでもお馴染みの博士は現在、アメリカで透析治療を受けているが、日本での透析方法を知りたいと来日、こうして東京都内の内科医院で月水金の週3日透析を受けることになった。
 しかし、透析のない日や気分が良いときに、ごくごく一部の日本人と面会することに。親交のある山崎さんも、その一人だった。こうして2月3日、横浜の日本料理店で二人は久しぶりに再会する。
 このとき、山崎さんがトゥー博士に島田市での講演の資料を渡しながら、父親と島田海軍技術研究所のことを説明したのは言うまでもない。なにしろトゥー博士は戦時中の秘話に非常に関心があるからだ。そんなわけで、二人の会食は話が弾んだようである。その1週間後の2月10日、トゥー博士は帰国の途に就いた。

▲▼山崎さんから島田海技研の説明を受けるトゥー博士

 


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