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楽しく話して 楽しく歌って① 【村民の声⑫】

2024-06-09 05:37:39 | 村民の声

【村民の声⑫】

楽しく話して 楽しく歌って①

 

岩崎邦子

 

      

 小・中学校の同窓会案内状が初めて届いたのは、私が40歳になった昭和55(1980)年の夏のことである。まずは、9年間という子供時代を共にした仲間たちと会えるのだ、という懐かしさが先立った。 

 会場は故郷のО市の中心から少し離れたホテル。ロビーで出会った友たちは、すぐに、誰ちゃん、何君と分かる人が大半で、手を取り合って懐かしんだ。小学校時代には、何かが気に入らないと、すぐに拳を振ることで怖い存在だったU君が私の顔を見て、
「あ、あんた誰?」
 すると近くにいた誰もが、
「クンちゃんが、分からへんの? 〇〇(学校の名前)のもぐりだよ~」
 と、笑いたてている。
 当時は接点がなかったとはいえ、U君とは「お互いに元気で良かったネ」と、握手を交わした。 

 こんな有様からの同窓会は、懐かしさと元気であったことへの喜びの場となった。今後は、3年ごとに同窓会を開くとの約束がされてから、二次会への案内は、同窓会幹事から街中にある幾つかの喫茶店とバーを兼ねたような店が候補にあげられた。
 関東から出かけて行った数人は、10人も集まれば一杯になってしまうような席で、詰め合ってようやく、15、6人も座った。薄暗い照明のなかで、地元のО君がテレビのような画面を見ながら、マイクを握りしめて歌い出した。
 1960年頃から始まったというカラオケ、1980年代にはあちこちで大流行りとなったとか。だが、私が出会った初めてのカラオケで歌うという場面であった。私にはというか、当時の関東勢の者にとっては、さっぱり分からない歌なのだが、地元の人たちで盛り上がっている。彼は持ったマイクを手放したくない、と言った様相でもあった。 

 地元の人たちは「また、始まった」と言っている。だが、私の感想は小学校時代のО君は、授業中には、先生に名指しをされても、ろくに返事も出来ない子だった。時々はヤンチャをしたのか、先生の逆鱗に触れて、廊下で水入りのバケツを持って立たされていたっけ。そんな印象しか残っていない。
 まぁ、大人になれば誰もが子供時代とは違うのは当たり前であるが、今のО君は人前で元気に熱心に歌っていることが驚きであり、その姿には、感心してしまった。 
 それに引きかえ、出席した関東勢はどうか。大人しいというか、どこかしら「田舎者たちの娯楽だね」といったニュアンスがあって、「では、次に」と言って歌う者は一人もいなかった。 

 地元での初めての同窓会以後、関東に居住する有志たち15人ほどで「K会」を作り、年に数回の昼食会や一泊のバス旅行などをするようになる。私の気持ちには「次回の地元での同窓会ではカラオケでも歌えるようになれると良いね」との思いもあった。
 が、「行こうよ」いう人はいない。というか、高校から音楽学校に行ったМさんと、娘を有名な音大に行かせたというSさんは、大人になった今、自らも地元のコーラスの会に所属していて、音楽や歌には精通しているからか、「カラオケに行く」「カラオケで歌う」は、どこか邪道のような雰囲気であった。 

 3年ごとに開かれるようになった故郷での同窓会では、会場となったホテルのカラオケのある別室に移動して、二次会が開かれることになり、幹事が司会者となってのカラオケ大会となった。
 カラオケで歌いたいのが目的ではなく、まだまだおしゃべりをしていたい、というのが本音での参加であった。が、司会者となったH君が、
「遠路から出席した関東勢の方から…」
 と、進行しはじめた。
 誰も名乗らない状態のなかで、無理やりに指名をされてしまったのは、私であった。音が出始めると、知らない曲でもなかったので、勇気を出して歌うことになったが、曲の出だしからトチリ、何か所かの音程もうまくいかない情けない歌い方になってしまった。 

 ようやく席に戻ると、長くコーラスをしているSさんから幾つかのダメ出しをされた。もちろん良きアドバイスであり、悪意があったわけではなかったが、その場にいることが、つらくもなって来た私である。
「あんな言い方しなくてもね~」と、しばらくしてHさんが、私に寄り添って言った。「ちゃんと歌ってたよ、それより誰もが嫌がる一番に歌ったこと、褒めてもいいのにね~」
 そう慰めてくれたが、私にとっては、苦い苦いカラオケの初体験だったことに変わりはない。私は、歌そのものは好きであったが、人前で「歌う」ことは、学校時代の音楽の時間くらいだった。
 
 薄い知り合いを頼って過ごした疎開先で、両親が、忌み嫌われた肺結核で亡くなった中で、幼少時代を迎えた私。幼稚園に行くこともないまま、兄や姉たちのお下がりの「キンダーブック」が唯一の絵本となって、描かれている動物や果物などで、文字(カタカナ)や歌を覚えた。小学校に入学してみると、昭和22(1947)年から国語の教科書がひらがな標記になって、あわてて覚えなおしたことを思い出す。 
 姉たちが好んで歌う童謡や抒情歌を聞いていた。私が好きだったのは「チューリップ」「メダカの学校」とかだったが、誰もが知っているような童謡を覚えたのは、4歳上の姉のお陰である。彼女が特に好んで歌っていたのは「庭の千草」「椰子の実」などだったなぁと、懐かしく思う。 

 疎開先から以前に住んでいた所に引っ越せたのは、小学校の2年生になってからであった。当時は夕方になると、必ず、少し高い所に置かれたラジオから流れ聞こえる「鐘の鳴る丘」を夢中で聞いたものだ。私は戦災孤児ではないけれど、親のいない子達の話という共通点が、妙に心に突き刺さっていて、元気に明るく生きていく話に救われる思いだったのだろう。
 やがて、友人たちが手にしていた少女向けの雑誌を見せてもらうようになったのだが、当時、大きな眼が何とも可愛い松島トモ子が、表紙になってよく出ていた。次々と売れっ子となった少女が出てきたが、姉たちが大好きだった「みかんの花咲く丘」を歌っていたのは、川田正子・孝子の姉妹だった。
 そして、安田祥子・安田晶子(由紀さおり)姉妹も、当時は、数々の童謡を歌っていたが、後にはふたりで「日本の歌」の抒情歌を歌うようになって、日本各地でコンサートを開き、名を馳せていた。その後、由紀さおりは「夜明けのスキャット」で一躍有名になり、歌手兼タレントとしても活動するようになる。


▲少女マンガ雑誌「少女」の表紙を飾った松島トモ子(昭和33年)


▲安田祥子・安田晶子の「メモリアル100曲集」


 ところで、客が全員で歌うという歌声喫茶というのは、昭和30(1955)年頃から1970年代までが最も流行っていたとか。だが私は、チャンスも無く、一度も行ったことがない。「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」など、ロシア民謡で盛り上がっていたことを、後になって聞いたものだ。 

 所帯をもってからの私は、もっぱら、テレビから流れてくる歌を聞いていた。当時は歌番組も豊富であった。そうした日々に慣れっこになっていた私が、盆帰りで兄が家長となっている実家にいても、テレビを付けるとそうした番組を見ていた。
 ある時、2階から降りてきた兄は、何も言わずにテレビのスイッチをプツンと切ってしまった。兄は中学から飛び級で大学生になったが、両親が亡くなって退学。なので、学歴は小学校卒。20歳にもならない時に祖母と妹たち4人の家長となってしまった。しかし、奮闘して会計士の資格を取得した。
 そんな経緯から学歴の低い私に対して「邦子は本を読め」と言われ続けて来ていた。なのに、そうした気配も無いミーハーな私を苦々しく思っていたのだろう。 

 兄は、根っからの音楽が嫌いだった、という訳ではない。余談だが、後年兄が85歳で亡くなった際には、斎場ではずっとクラシックの音楽が流されていた。CDの何枚かが義姉に託されていたのだ。
「春」(ヴィヴァルディ)、「G線上のアリア」(バッハ)、「ノクターン」(ショパン)、「月の光」(ドビュッシー)など……美しい音色の音楽が、通夜でも葬式でもずっと会場で流されていたのだから。

 すっかり、話の道がそれてしまったが、娘は小学4年生になると、中学受験をしたいと言い出した。その理由は「給食が嫌だからお弁当を持ち、電車に乗って学校に行きたい」と。ま、私も子供の頃は、給食の脱脂粉乳が嫌いで、他の総菜も苦手が多くて食べられず、給食時間には何度も泣いたものだ。 
 娘は中学受験のためには、塾通いをし、週に一度は四谷大塚でのテスト勉強をしなければならない。だが、そのための勉強をするのは、いつもテレビが真ん前にあるテーブルを陣取っていた。                    

 当時は、久米宏と黒柳徹子が司会をしていた「ベスト・テン」を始めとした音楽番組が盛んな頃で、ジャニーズ事務所のタレントが台頭してきていた時代だ。まずは、タノキン(田原俊彦・野村義男・近藤真彦)トリオが、大人気となり、多くの男性アイドルが量産されるようになった。
 女性アイドルも松田聖子や中森明菜など、名を挙げればきりがないほど、次から次へとテレビ画面に映し出された。すっかりアイドルファンになって行くその娘に便乗して、ミーハーになって喜んでいた私は、大いに母親失格と言った所である。

 娘はテスト勉強が第一なのに、テレビの歌番組に釘付けになっていたのは、翌日の学校でのテレビの話題についていけなくて、クラスでは仲間外れになることが、何よりも恐怖であったらしい。今思えば、ぎりぎりであったにしても、希望中学に合格できて、お弁当を持って、電車に乗って、の毎日で通学が出来たのは、よほど運が良かったのだろう。 
 その後、何年も経った今、娘も私も、アイドル大好きのミーハー気質のままだ。娘は、今はアメリカに住んでいるが、世界や日本のエンタメ状況をしっかり把握している。 

 またまた、話はすっかり変わるが、市川市から今の住まいに移って来てから、自分の趣味というか、楽しめるものに関わりたいと思っていて、その一つに「歌えるようになりたい」があった。 
 コーラス員募集を見て、早速出かけてみると、歓迎ムードであったが、皆さんがパートに分かれて、楽譜を見てすらすらと歌っていることに、怖気づいてしまった。「いきなりこのレベルにはなれない」と思ったからである。 

 そんな折、白井駅前センターのフェスティバルに行き、コーラスグループを見学した。当時私が覚えたいと思っていた「花は咲く」を始め、懐かしい歌を含めた歌唱風景を見て、是非入会したい、と思った。しかし入会してすぐに、その指導の先生はご自身の都合が悪くなってしまった。 
 それから先生は変わったが、若くて熱心な指導で楽しく歌うことが出来た。コーラスなので、女性はソプラノとアルトに分かれるが、私はソプラノとなった。ソプラノは主に主旋律を歌えることが多いので、私にとってラッキーだった。 この頃は男性が少なく、テノールだけだったと記憶している。

 白井市の音楽祭に参加するようになった。年月を経て男性メンバーも少しずつ増えてくると、テノールとバスに分かれて、レベルアップした指導をされた。この4つのパートのバランスが上手くいけば、素晴らしいのだが……自分が頑張れば良い、というものでもない。音楽祭参加が第一の目標になると、コーラスで歌うことの楽しさは激減、つくづく嫌気がさしてしまった。(つづく)


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