じいちゃんの親父と一緒に見た映画は、生涯でたった2本だけです。
その一本は、小学校3年生の時に公開された「ゴジラVSモスラ」というもので、ザ・ピーナッツが小人役で「モスラ~や、モスラ~」とモスラを呼んで、悪役ゴジラと対決するという内容で、ものすごく怖い表情で鳴くゴジラとザ・ピーナッツの可愛い歌声が印象に残りました。
母親は、小学校に勤めていたので小学生の頃は毎年夏休みになると映画に連れて行ってくれましたが、一番印象に残ってるのは5年生ぐらいの時に見た「サウンドオブミュージック」です。
中学になると映画の世界にどっぷり漬かって、1人でいろんな映画を見まくって、それが将来の仕事に繋がっていくことになります。
さて、結婚したじいちゃんにある日親父から電話がかかってきて「一緒に見たい映画がある」ということで「何を見るの?」と聞くと「高倉健の鉄道員(ぽっぽや)」とうことで、スケジュールを合わせ、じいちゃんが車を運転して映画館へ鑑賞に出かけました。
親父は任侠映画時代から「高倉健」の大ファンで、じいちゃんが子供の頃よく親父一人で(母親も働いてたので)映画館へ行き、帰り道でパチンコ屋によって、じいちゃんが学校から帰ると紙袋一杯のお菓子をくれたことを思い出します(親父は、夜勤がほとんどで平日昼間の休みが多かった)。
さて、何で親父が「ぽっぽや」を見たかったかというと、当時すでに退職していましたが、親父も国鉄職員で貨物列車の機関士(運転手)をしてた「ぽっぽや」だったからです。
子供の頃から親父の仕事ぶり(新人の時に蒸気機関車の窯だきコンクールで全国トップテンに入ったとか、ほとんど自慢話)はよく聞かされていましたので、それで懐かしくて「ぽっぽや」を見たいんだろうと分りましたし、高倉健が主演だったのも映画を久しぶりに見たいと思ったきっかけだったんでしょう。
二人で並んで映画を見てから老舗の豆腐料理店で夕食を食べました。
「どうだった?」と感想を聞くと「う~ん、世界が違う」と一言・・・。
機関士と駅員では、全く仕事の内容が違うし、幸福な家庭生活を送っていた親父とは状況が全く違う不幸せな男の姿を見て、若干ガッカリしたのかもしれません。
それ以来、親父と映画を見ることはなく、亡くなって来年は七回忌を迎えます。
高倉健さんも亡くなり、昭和のスターたちが次々と天国に召されています。
じいちゃんが映画界に入った頃は、超斜陽産業の一つで大手の映画製作会社も倒産という憂き目に合ってた時代でした。
その中で活況を呈していたのは「日活ロマンポルノ」ぐらいでした。
大手の映画会社が作品を作れない中で、低予算で作品を作り、小劇場で公開する独立プロダクションが映画産業を支えていました。
スタッフも少ないギャラで、必死で映画作りをしていました。
じいちゃんも修業時代には、製作費はないし、見てくれる人も少なかったけど、そんな中で面白い経験を一杯しました。
さすがに、ギャラが少ないので、CMや企業広告用映画などのスタッフとして食いつないでいたら、いつの間にかそっちが本職になってしまいました。
そんなじいちゃんも、今はほとんど仕事をしていません。
若いクリエーターたちがいろんなメディアで活躍しているのを嬉しく思っているぐらいです。
高倉健さんの訃報を聞いて、親父と過ごした半日の出来事をふと思い出しました。
その一本は、小学校3年生の時に公開された「ゴジラVSモスラ」というもので、ザ・ピーナッツが小人役で「モスラ~や、モスラ~」とモスラを呼んで、悪役ゴジラと対決するという内容で、ものすごく怖い表情で鳴くゴジラとザ・ピーナッツの可愛い歌声が印象に残りました。
母親は、小学校に勤めていたので小学生の頃は毎年夏休みになると映画に連れて行ってくれましたが、一番印象に残ってるのは5年生ぐらいの時に見た「サウンドオブミュージック」です。
中学になると映画の世界にどっぷり漬かって、1人でいろんな映画を見まくって、それが将来の仕事に繋がっていくことになります。
さて、結婚したじいちゃんにある日親父から電話がかかってきて「一緒に見たい映画がある」ということで「何を見るの?」と聞くと「高倉健の鉄道員(ぽっぽや)」とうことで、スケジュールを合わせ、じいちゃんが車を運転して映画館へ鑑賞に出かけました。
親父は任侠映画時代から「高倉健」の大ファンで、じいちゃんが子供の頃よく親父一人で(母親も働いてたので)映画館へ行き、帰り道でパチンコ屋によって、じいちゃんが学校から帰ると紙袋一杯のお菓子をくれたことを思い出します(親父は、夜勤がほとんどで平日昼間の休みが多かった)。
さて、何で親父が「ぽっぽや」を見たかったかというと、当時すでに退職していましたが、親父も国鉄職員で貨物列車の機関士(運転手)をしてた「ぽっぽや」だったからです。
子供の頃から親父の仕事ぶり(新人の時に蒸気機関車の窯だきコンクールで全国トップテンに入ったとか、ほとんど自慢話)はよく聞かされていましたので、それで懐かしくて「ぽっぽや」を見たいんだろうと分りましたし、高倉健が主演だったのも映画を久しぶりに見たいと思ったきっかけだったんでしょう。
二人で並んで映画を見てから老舗の豆腐料理店で夕食を食べました。
「どうだった?」と感想を聞くと「う~ん、世界が違う」と一言・・・。
機関士と駅員では、全く仕事の内容が違うし、幸福な家庭生活を送っていた親父とは状況が全く違う不幸せな男の姿を見て、若干ガッカリしたのかもしれません。
それ以来、親父と映画を見ることはなく、亡くなって来年は七回忌を迎えます。
高倉健さんも亡くなり、昭和のスターたちが次々と天国に召されています。
じいちゃんが映画界に入った頃は、超斜陽産業の一つで大手の映画製作会社も倒産という憂き目に合ってた時代でした。
その中で活況を呈していたのは「日活ロマンポルノ」ぐらいでした。
大手の映画会社が作品を作れない中で、低予算で作品を作り、小劇場で公開する独立プロダクションが映画産業を支えていました。
スタッフも少ないギャラで、必死で映画作りをしていました。
じいちゃんも修業時代には、製作費はないし、見てくれる人も少なかったけど、そんな中で面白い経験を一杯しました。
さすがに、ギャラが少ないので、CMや企業広告用映画などのスタッフとして食いつないでいたら、いつの間にかそっちが本職になってしまいました。
そんなじいちゃんも、今はほとんど仕事をしていません。
若いクリエーターたちがいろんなメディアで活躍しているのを嬉しく思っているぐらいです。
高倉健さんの訃報を聞いて、親父と過ごした半日の出来事をふと思い出しました。