院長の気まぐれ日誌

仕事のこと、私生活のこと、気になることなど不定期に書いて行きたいと思っています^^

愛情意識の応用問題

2015年06月09日 | 日記
人は、出来るだけ自分が傷つかず、自分に有意な考え方に流れる傾向性があるかと思います。

そして、自分が欲しいと思うものは可能な範囲で手に入れる。

出来そうもない事には手を出さない、思い半ば諦める。

過去の自分を想い出すかのようですが、今もそうかも。


人の成長は、あらゆる場面に遭遇させ、意識のレベル(魂)を高めるために存在してます。

その人の意識の劣勢なところを補修して、更に一段高い境地に意識レベルあげることが、今回生まれて来た課題になるわけです。

この世に誕生した時から、過去世の課題、自分の不得意科目の問題集を解き始めることになります。

問題集は、解りやすい基礎科目から、徐々に応用問題に発展し、意識レベルが高まるにつれ小テストが行われています。


この世界に生を受け、幼少期、少年期、青年期、中年、壮年と、この世を去るまで問題集は続きます。

幼少から、家族以外の他の人との交流がなされ、少年、青年で恋が芽生え、社会に出てより多くの人と接し、家庭を持つ。

何度も何度も、意識レベルを発展させる機会が与えられているわけです。

この世界で、裕福な家庭に生まれた人の中には、自分の思い通りの願望が容易く手に入り、社会に出れば自分との相性が合いづらい人の中から、心惹かれる人との遭遇を契機に、問題集の中間テストとして織り込まれていることなども良くあります。

自分にない思考に憧れるとか、考え方は広くありますが、一緒にいたいと思うところから薬は効き始めます。

何の薬かといいますと、空から降って来た「惚れ薬」です。

一緒に暮らし始めると、恋愛時代の燃えるような想いも少し落ち着き、子供ができる頃には相手を思いやる気持ちも、上がるかもしれないですが、一般的には殆ど下がってしまいます。

その頃には、有効期限の「惚れ薬」の効力が切れるわけですが、そこからが更に応用問題集が立て続けに出題される時です。

人は、自分と他の人を比較する傾向性があります。

裕福な家庭に生まれ、家族愛の中で育ち、少なからず葛藤はある中でも生活が出来て来たのに、自分の思い通りに成らなくなって来るような・・・。

あんなに好きだった人が、いつの日からか話しが噛み合わず、話すことが少なくなり同じ空間にいるだけでも違和感が出てくる。

そんな時、あの優しかった両親とご主人を天秤にかけ始める。

親の後ろ姿を観て育ったお子さんも、自分の思い通りに育たないどころか、違和感を感じているご主人に似てきて更に違和感を感じてしまう。


愛情を貰えない事への欲求が溜まって来るわけです。

逆に考えれば、どれだけ他の人に対して思いやりが出来ていなかったかを悟るわけです、愛情科目の問題集で。


人は、楽しかった頃のことは想い出として記憶にありますが、楽しい想い出は「与えられて来た」という認識がなく、与えられて来たことが当たり前になって来ます。

逆に、与えられて来たこと以上に、記憶に残ってしまうのが自分が傷ついたこと。

例えば、親が嫌で自分で自立して生きて来た方は、自分で何もかも出来てきていたのでしょうか?

この世に誕生して、翌日からバイトに行って食費をかせぎ、自分で料理して食べたのでしょうか。

親か、誰かからかの援助がないと、自立するまでの何年間、まったく食べてないと生きてはいられないです。


家族だから、当たり前のところに感謝がないわけです。
住む家があり、寝る布団もある。

両親からの反面教師、正面教師を体験しながら、人への思いやりと感謝の発見を育ませる。

本物の思いやり、感謝の実力がつくまで、苦手な人(親類、知人、家族)が送り込まれ、愛情意識レベルの応用問題の小テストが一生出題されます。
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久々のお墓参り

2015年06月06日 | 日記
先日、3年ぶりに墓参りと供養に行って来ました。

2年間も、墓参りに行っていのかと驚かれるかもしれませんが、既に本家の菩提寺がありますので、私たちは別な霊園に位牌だけを祀っています。

本家の墓参りも、ここ数年間行っておりませんで、毎年嫁さんに頼んで行ってもらってます。

以前、父親と祖父の回忌法要を一度に行おうとした時、住職さんに「生きている人間の都合で一度に供養してはいけない」と言われ別々に法要をしてことがあります。

ハッキリ言って、「回忌法要は、生きている人間の都合でやるのが一般です」。

まあ、こんなことを書くのは私だけかもしれませんが、お坊さん側も人間の都合で婚姻できるようにした訳ですから~


33回忌の法要の時、住職さんの前方で、着物を着た子が毬をついて遊んでましたが、住職さんは、その子(故人)に気づかないようでお経をあげてました(苦笑)

それを観て、私たちは別にお墓を買ったわけです。

法要が終わり、先祖の生前の話しをまじえ、私が「祖父は今どこに居るのでしょうか?」の問いに、住職さんは「皆さん還るべき処に帰ってます」と言ってました。

その言葉を聞いて、笑いを必死に堪えてましたが、実は祖父が住職さんの先代さん(故人)から書籍を借りて、自宅で読んでる日々が、30年以上続いているのに、まったく解ってないのかと・・・。

徳なんです、その方に徳力がないと成仏できないのです、知恵と智慧がお判りにならないと厳しいですね。

故人は皆、黄泉の国に行ったとか、浄土とか、そんなものは都市伝説ですね。

生前の行が逝く所を決めるわけです。

あの世の何処に還っているか、判らないようでは専門職ではないと思うのですね。

まさか、お坊さんがあの世は無いなどと・・・、それは幾らなんでも~



祖父も大変でした。

ちょっと、薄暗い厳しい世界に居りましたが、先祖が皆で説得しに行ってくれても、生前も頑固だったので、反省して明るいところに行かせようとしても、まったく懺悔もしないで我を張りっ放しで・・・、私も疲れ果てました・・・。

今は、やっとの事で反省が進み、上にあがり童になってます。

多分、今までの人生の中で、子供の時が一番幸せで、童に戻ったのかと思います。


お寺も、お坊さんの一言で救われる人も沢山いらっしゃいます。
それはそれで、人々への貢献も素晴らしいことです。
お寺を維持するのも大変なお仕事ですね~


高額なお布施や立派な戒名、お高いお墓ぐらいで成仏したら、ほんと楽チンです。

本家の誰もが、そんな世界のことを全く信じませんでしたが、信じる事案に遭遇したので信じるように成ったようですが、生前に解って良かったと思ってます。

信じないだけでも、厳しい世界に還る可能性大ですので、また説得するのに疲れ果ててしまいます。
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