20年ぶりに、戸定が丘歴史公園内のマイセンコレクション展(期間限定)と戸定邸を一緒に散策してきました。
戸定邸は、「明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物です」(松戸市戸定歴史館パンフレットから一部抜粋)
お屋敷が広すぎるため、説明がイマイチでしたので2週に渡り訪れました。2回目は★マークを付けました。

園内マップ。

戸定が丘歴史公園入口。

門を入り左方向へ。

表玄関。

表玄関横から。

左側:徳川昭武
右側:徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)

★後日、散策に行った時は庭に降りられました。

邸内図。

案内マップを見ないと、迷ってしまいます。

徳川慶喜から徳川昭武に宛てた電報。

内蔵棟。
内蔵棟は、140年前にモルタル(セメント)でつくられたようです。

黒い葵紋付長持。
左側に、2階に上がる階段があります。

★葵紋付長持の解説。

・

中庭。
むかしのガラスは、厚みが不均等でなつかしく感じます。

表座敷棟。

★表座敷から外を見ると、木の間隔が左に数本分空いているところがあります。
その方向を見ると富士山がみえるようですが、今はビルで見えなくなっています。

・

★ガイドさんの説明。
徳川昭武は1867年、将軍名代として、パリ万博使節団の一員としておとずれた際、そのなかに渋沢栄一もいたそうです。
昭武はその後、通算7年間パリに留学していたようです。

離座敷棟。
昭武の生母・秋庭(しゅうてい)の座敷の欄間に、竹とスズメが彫られています。

★秋庭さんの実家は、京都の公家らしく、家紋に「竹にスズメ」の説明がありました。
万里小路家(までのこうじけ)の家紋。

使者の間棟。
コウモリの欄間。
当時、中国ではコウモリは福をよぶ縁起の動物だったようです。

使者の間棟の解説。

中庭。

湯殿。
浴槽は、昭和初期につくられ、当時の武士はお湯かけだけだったようです。

丸窓の座敷は2ヶ所あります。

離敷棟、案内。

・

戸定歴史館サイト
次回は、戸定邸の庭園をアップします。
戸定邸は、「明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物です」(松戸市戸定歴史館パンフレットから一部抜粋)
お屋敷が広すぎるため、説明がイマイチでしたので2週に渡り訪れました。2回目は★マークを付けました。

園内マップ。

戸定が丘歴史公園入口。

門を入り左方向へ。

表玄関。

表玄関横から。

左側:徳川昭武
右側:徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)

★後日、散策に行った時は庭に降りられました。

邸内図。

案内マップを見ないと、迷ってしまいます。

徳川慶喜から徳川昭武に宛てた電報。

内蔵棟。
内蔵棟は、140年前にモルタル(セメント)でつくられたようです。

黒い葵紋付長持。
左側に、2階に上がる階段があります。

★葵紋付長持の解説。

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中庭。
むかしのガラスは、厚みが不均等でなつかしく感じます。

表座敷棟。

★表座敷から外を見ると、木の間隔が左に数本分空いているところがあります。
その方向を見ると富士山がみえるようですが、今はビルで見えなくなっています。

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★ガイドさんの説明。
徳川昭武は1867年、将軍名代として、パリ万博使節団の一員としておとずれた際、そのなかに渋沢栄一もいたそうです。
昭武はその後、通算7年間パリに留学していたようです。

離座敷棟。
昭武の生母・秋庭(しゅうてい)の座敷の欄間に、竹とスズメが彫られています。

★秋庭さんの実家は、京都の公家らしく、家紋に「竹にスズメ」の説明がありました。
万里小路家(までのこうじけ)の家紋。

使者の間棟。
コウモリの欄間。
当時、中国ではコウモリは福をよぶ縁起の動物だったようです。

使者の間棟の解説。

中庭。

湯殿。
浴槽は、昭和初期につくられ、当時の武士はお湯かけだけだったようです。

丸窓の座敷は2ヶ所あります。

離敷棟、案内。

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戸定歴史館サイト
次回は、戸定邸の庭園をアップします。
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