今日は、回忌法要に参列してきました。
このふた月で法要は4回目。
お経の合間に鐘をたたく、f/1のゆらぎが最高によく、毎回癒されます。
いつも思うことは、なんでこんなにお経は長いのかと、マスク越しに何度もあくびをしてました。
また来年も、寒すぎる本堂で居眠りしないように、お経中は本堂見物でもしようと思います。
故人の供養は、経文(修行論)より、子孫たちが天国銀行に徳を積み上げるしかなく、すべては子孫の生き方にかかっています。
身内を心眼すると、その殆どが「浄土の行きかたがわからない」「見当もつかない」と伝わります。
あの世の世界は「こころ」しか持って還れなく、認識以外、頭で理解した知識は、もって還れないといわれています。
逆に、「だれでも浄土に還れる」と信じるなら、それもアリだと思います。
どちらにしても、自分の選択は100%の自己責任ですから、私たちは、今までのさまざまな体験をとおし霊性を磨いています。
このふた月で法要は4回目。
お経の合間に鐘をたたく、f/1のゆらぎが最高によく、毎回癒されます。
いつも思うことは、なんでこんなにお経は長いのかと、マスク越しに何度もあくびをしてました。
また来年も、寒すぎる本堂で居眠りしないように、お経中は本堂見物でもしようと思います。
故人の供養は、経文(修行論)より、子孫たちが天国銀行に徳を積み上げるしかなく、すべては子孫の生き方にかかっています。
身内を心眼すると、その殆どが「浄土の行きかたがわからない」「見当もつかない」と伝わります。
あの世の世界は「こころ」しか持って還れなく、認識以外、頭で理解した知識は、もって還れないといわれています。
逆に、「だれでも浄土に還れる」と信じるなら、それもアリだと思います。
どちらにしても、自分の選択は100%の自己責任ですから、私たちは、今までのさまざまな体験をとおし霊性を磨いています。