※
西へ傾きかけた太陽は、ほどなく血に染まった大地を暗く隠していった。
視界が悪くなろうと、曹操軍の前進と殺戮が止む気配はない。
趙雲はここに孔明がいなくて良かったと、頭の隅で思っていた。
もし同行していたら、また虐殺の場に居合わせることになっていただろう。
友のこころにあらたな傷がつかずにすんでよかったと、心から思っていた。
やがて、難民の行列の後方から、おおぜいの傷ついた人々が押し寄せてきた。
それを追うようにして、曹操軍の軽騎兵が迫ってくる。
視界が悪すぎた。
月の細い光か、あるいは馬車に随行する兵の持つ松明だけが頼りである。
どれほど曹操軍に近づかれているのか、音と気配を頼りにする以外にない。
距離感がつかめないのだ。
甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》を乗せた馬車を警護していた趙雲に、後方を守っていた将が叫んだ。
「曹操軍ですっ、曹操軍が追い付いて来ましたたぞっ」
趙雲は舌打ちした。
さすが曹操の自慢の軽騎兵だけあり、凄まじい勢いで追いついてきた。
何万もの民衆の命を蹴散らし、大挙して押し寄せてきたのだ。
曹操軍に追い立てられるようにして、民がけんめいに走って、これまた趙雲たちのところへ波のように押し寄せてくる。
親からはぐれた子が泣き叫びながら逃げ惑い、子を求める母は逃げ遅れて刃の餌食となり、かと思えば、人馬の足に踏みつぶる老人もおり、まさに悲惨としかいいようのない状況になった。
家財道具を棄てて、みな逃げようとするが、暗闇の中で、ますます恐慌状態がひろがる。
命乞いもむなしく、さっそく曹操軍の餌食となってしまった、あわれな民の悲鳴があちらこちらから、つぎつぎと聞こえてきた。
闇に隔たれて、悲鳴が遠くに聞こえるのか、それとも近くに聞こえるのか、よくわからない。
趙雲を見つけると、民衆はとたんに縋ってきて、
「お助けください!」
と、必死に匿《かくま》ってもらおうとするものだから、趙雲は人の波に呑まれるかたちで、馬車から離れざるを得なくなってしまった。
趙雲は民を落ち着かせようとするが、恐慌状態のかれらが、命令を聞きはしなかった。
だれもが必死だった。
助かりたいというその一心で、闇雲に行動をはじめてしまったのだ。
しかも、曹操軍の先鋒の兵が、しだいに民衆に交じって、趙雲とその部下たちに攻撃をはじめていた。
趙雲は、曹操軍が襲ってくるたびに、槍をふるってけんめいにかれらを撃退した。
だが、多勢に無勢である。
時間が経つにつれ、敵の数がどんどん増えてきた。
どうやら、ここに手柄を立てられそうな相手がいると、曹操軍のあいだに伝わってしまったのだろう。
容赦なく、敵兵が北からやってくる。
群衆に取り囲まれたせいで、馬車からは距離を取らねばならなかったが、それでも、部下が彼女らを守ってくれることを信じ、趙雲は敵兵をつぎつぎと屠っていった。
殺到してくる蟻をつぎつぎ払い落しているような、そんな錯覚さえおぼえる。
いったい、曹操のやつは、どれほどの人員を寄越したのだろうと、趙雲は苛立ちとともに思う。
倒しても、倒しても、キリがなかった。
夢中になっているうちに、夜が明けてきて、闇が薄くなってきた。
それに合わせるかのように、曹操軍が手薄になってきたので、趙雲は腰につけていた瓢箪《ひょうたん》の中の水で、のどを潤した。
ほっと力を抜き、あたりを見回して、甘夫人たちの馬車のほうを見る。
そして、ぎょっとした。
馬車を幾重にも取り囲んでいたはずの部下たちのほとんどが、いなくなっていたのだ。
趙雲のように、馬車に群がろうとする敵兵を払うため、持ち場から離れざるを得なくなった者、討ち死にした者、さまざまのようだった。
「奥方様っ」
ご無事で、と祈りつつ、馬車を見れば、なんと馬だけを残して、かんじんの夫人たちの姿がなくなっている。
馬だけが戦場の真ん中で、つくねんとしている状態だったのだ。
なんということか!
まさに、足元から一気に全身の血が抜けた。
大失態だ。
薄闇の戦場を見回しても、甘夫人や、麋夫人、阿斗らしき姿はない。
まさか、攫《さら》われたのか?
愕然としていると、馬車のすぐそばで、倒れ伏している部下のひとりが、顔をあげようとしているのが目に入った。
趙雲はあわてて部下を助け起こす。
部下は、趙雲に、ぜいぜいと息も絶え絶えに言った。
「も、申し訳ございません、奥方様方は、阿斗さまをお守りするため、馬車を棄て、徒歩でお逃げになりました」
「ばかな、だれかついていかなかったのか!」
「はっきりとはわかりませぬが、同行している者がいるはずです」
「だれだ」
「面目次第もございませぬ、だれとは……」
言いつつ、部下は、げほん、げほんと激しく咳き込んだ。
これ以上の情報は引き出せないと思った趙雲は、部下を馬に乗せ、南へ向かわせた。
たとえ同行している者がいるとはいえ、女の脚だ、そう遠くには行っていないだろう。
趙雲はそう推理し、馬で戦場となった当陽の地をかけまわった。
「奥方様っ、奥方様っ、何処《いずこ》におわす!」
叫んでも、返事はない。
しばらく行くと、曹操軍が手薄になっているあいだに南へ向かおうとする民衆の中から、ひとりが趙雲に向かって、叫んだ。
「奥方様なら、あちらの方角へ逃げていかれました、助けて差し上げてくださいっ」
かれが指さす方向は、南とは真逆の北であった。
「北か」
趙雲はまたもや暗澹たる気持ちに襲われた。
どうやら、夫人たちはこの殺戮の繰り返される修羅場のなかで方向感覚を狂わされ、逃げるべき方向とは逆に逃げてしまったようだった。
早く保護しなければ、曹操軍に見つかってしまう。
北へ戻る。
ためらいなく馬の腹を蹴ったそのとき、背後からよく聞き覚えのある男の声がした。
「子龍よ、どこへ行く! まさか、わが君を裏切るつもりではあるまいなっ」
振り返れば、いったいいままでどこにいたのやら、麋芳《びほう》である。
ふだんから、趙雲と麋芳は仲が悪かった。
趙雲は不快ながらも、かれを無視することで対処してきたが、今日ばかりは叩き斬ってやろうかという気分になった。
だが、夫人たちのことを思うと、そんなことはしていられない。
剣呑な顔をして自分をにらみつけている麋芳に、こまかく事情を説明している暇もなかった。
麋芳は麋夫人の兄のひとりだから、事情を話せば力になってくれる可能性もあったが、その可能性を掴むまでの時間が惜しい。
「下衆の勘繰りをしている暇があるなら、おまえはわが君を守れ!」
そう言い残すと、趙雲は馬腹を蹴って、ためらいもなく北へ向けて走り出した。
つづく
西へ傾きかけた太陽は、ほどなく血に染まった大地を暗く隠していった。
視界が悪くなろうと、曹操軍の前進と殺戮が止む気配はない。
趙雲はここに孔明がいなくて良かったと、頭の隅で思っていた。
もし同行していたら、また虐殺の場に居合わせることになっていただろう。
友のこころにあらたな傷がつかずにすんでよかったと、心から思っていた。
やがて、難民の行列の後方から、おおぜいの傷ついた人々が押し寄せてきた。
それを追うようにして、曹操軍の軽騎兵が迫ってくる。
視界が悪すぎた。
月の細い光か、あるいは馬車に随行する兵の持つ松明だけが頼りである。
どれほど曹操軍に近づかれているのか、音と気配を頼りにする以外にない。
距離感がつかめないのだ。
甘夫人《かんふじん》と麋夫人《びふじん》を乗せた馬車を警護していた趙雲に、後方を守っていた将が叫んだ。
「曹操軍ですっ、曹操軍が追い付いて来ましたたぞっ」
趙雲は舌打ちした。
さすが曹操の自慢の軽騎兵だけあり、凄まじい勢いで追いついてきた。
何万もの民衆の命を蹴散らし、大挙して押し寄せてきたのだ。
曹操軍に追い立てられるようにして、民がけんめいに走って、これまた趙雲たちのところへ波のように押し寄せてくる。
親からはぐれた子が泣き叫びながら逃げ惑い、子を求める母は逃げ遅れて刃の餌食となり、かと思えば、人馬の足に踏みつぶる老人もおり、まさに悲惨としかいいようのない状況になった。
家財道具を棄てて、みな逃げようとするが、暗闇の中で、ますます恐慌状態がひろがる。
命乞いもむなしく、さっそく曹操軍の餌食となってしまった、あわれな民の悲鳴があちらこちらから、つぎつぎと聞こえてきた。
闇に隔たれて、悲鳴が遠くに聞こえるのか、それとも近くに聞こえるのか、よくわからない。
趙雲を見つけると、民衆はとたんに縋ってきて、
「お助けください!」
と、必死に匿《かくま》ってもらおうとするものだから、趙雲は人の波に呑まれるかたちで、馬車から離れざるを得なくなってしまった。
趙雲は民を落ち着かせようとするが、恐慌状態のかれらが、命令を聞きはしなかった。
だれもが必死だった。
助かりたいというその一心で、闇雲に行動をはじめてしまったのだ。
しかも、曹操軍の先鋒の兵が、しだいに民衆に交じって、趙雲とその部下たちに攻撃をはじめていた。
趙雲は、曹操軍が襲ってくるたびに、槍をふるってけんめいにかれらを撃退した。
だが、多勢に無勢である。
時間が経つにつれ、敵の数がどんどん増えてきた。
どうやら、ここに手柄を立てられそうな相手がいると、曹操軍のあいだに伝わってしまったのだろう。
容赦なく、敵兵が北からやってくる。
群衆に取り囲まれたせいで、馬車からは距離を取らねばならなかったが、それでも、部下が彼女らを守ってくれることを信じ、趙雲は敵兵をつぎつぎと屠っていった。
殺到してくる蟻をつぎつぎ払い落しているような、そんな錯覚さえおぼえる。
いったい、曹操のやつは、どれほどの人員を寄越したのだろうと、趙雲は苛立ちとともに思う。
倒しても、倒しても、キリがなかった。
夢中になっているうちに、夜が明けてきて、闇が薄くなってきた。
それに合わせるかのように、曹操軍が手薄になってきたので、趙雲は腰につけていた瓢箪《ひょうたん》の中の水で、のどを潤した。
ほっと力を抜き、あたりを見回して、甘夫人たちの馬車のほうを見る。
そして、ぎょっとした。
馬車を幾重にも取り囲んでいたはずの部下たちのほとんどが、いなくなっていたのだ。
趙雲のように、馬車に群がろうとする敵兵を払うため、持ち場から離れざるを得なくなった者、討ち死にした者、さまざまのようだった。
「奥方様っ」
ご無事で、と祈りつつ、馬車を見れば、なんと馬だけを残して、かんじんの夫人たちの姿がなくなっている。
馬だけが戦場の真ん中で、つくねんとしている状態だったのだ。
なんということか!
まさに、足元から一気に全身の血が抜けた。
大失態だ。
薄闇の戦場を見回しても、甘夫人や、麋夫人、阿斗らしき姿はない。
まさか、攫《さら》われたのか?
愕然としていると、馬車のすぐそばで、倒れ伏している部下のひとりが、顔をあげようとしているのが目に入った。
趙雲はあわてて部下を助け起こす。
部下は、趙雲に、ぜいぜいと息も絶え絶えに言った。
「も、申し訳ございません、奥方様方は、阿斗さまをお守りするため、馬車を棄て、徒歩でお逃げになりました」
「ばかな、だれかついていかなかったのか!」
「はっきりとはわかりませぬが、同行している者がいるはずです」
「だれだ」
「面目次第もございませぬ、だれとは……」
言いつつ、部下は、げほん、げほんと激しく咳き込んだ。
これ以上の情報は引き出せないと思った趙雲は、部下を馬に乗せ、南へ向かわせた。
たとえ同行している者がいるとはいえ、女の脚だ、そう遠くには行っていないだろう。
趙雲はそう推理し、馬で戦場となった当陽の地をかけまわった。
「奥方様っ、奥方様っ、何処《いずこ》におわす!」
叫んでも、返事はない。
しばらく行くと、曹操軍が手薄になっているあいだに南へ向かおうとする民衆の中から、ひとりが趙雲に向かって、叫んだ。
「奥方様なら、あちらの方角へ逃げていかれました、助けて差し上げてくださいっ」
かれが指さす方向は、南とは真逆の北であった。
「北か」
趙雲はまたもや暗澹たる気持ちに襲われた。
どうやら、夫人たちはこの殺戮の繰り返される修羅場のなかで方向感覚を狂わされ、逃げるべき方向とは逆に逃げてしまったようだった。
早く保護しなければ、曹操軍に見つかってしまう。
北へ戻る。
ためらいなく馬の腹を蹴ったそのとき、背後からよく聞き覚えのある男の声がした。
「子龍よ、どこへ行く! まさか、わが君を裏切るつもりではあるまいなっ」
振り返れば、いったいいままでどこにいたのやら、麋芳《びほう》である。
ふだんから、趙雲と麋芳は仲が悪かった。
趙雲は不快ながらも、かれを無視することで対処してきたが、今日ばかりは叩き斬ってやろうかという気分になった。
だが、夫人たちのことを思うと、そんなことはしていられない。
剣呑な顔をして自分をにらみつけている麋芳に、こまかく事情を説明している暇もなかった。
麋芳は麋夫人の兄のひとりだから、事情を話せば力になってくれる可能性もあったが、その可能性を掴むまでの時間が惜しい。
「下衆の勘繰りをしている暇があるなら、おまえはわが君を守れ!」
そう言い残すと、趙雲は馬腹を蹴って、ためらいもなく北へ向けて走り出した。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!
だんだん物語は大変なことに……
夫人たちはどこへ? 次回をおたのしみに!
そして、本日の1時ごろサイトのウェブ拍手を押してくださった方、どうもありがとうございました!(^^)!
とーってもうれしいです、励みになります! これからも精進致しますー♪
今日もいちにち、がんばるエネルギーをいただけました、感謝です!
「地這う龍」もいよいよクライマックスが近づいております。
どうぞ最後までお付き合いいただけたらと思います。
ではでは、またお会いしましょう('ω')ノ