いまのいままで、狗屠《くと》は自分が倒すと決めていた。
それなのに、趙雲に先に越された。
悔しさよりも先に、これからどうしたらよいのかがわからないので、呆然としてしまう。
なぜ子龍が狗屠と戦ったのだろうか?
おれを助けるためではなかろうに。
疑問に思っていると、藍玉《らんぎょく》がさらに言った。
「撃退したといっても、手負いにしただけのようなの。
狗屠とその仲間は、いま樊城にある隠し村に向かっているそうよ」
「隠し村だと。つまりはやつを子龍は討ち取り損ねたというわけか」
つまり、狗屠は生きている。
かあっと全身の血が沸き立つのをおぼえた。
ようやく、狗屠が近づいてきた。
やつの猫背の背中を思い出す。
樊城にいけば、あいつを倒せるのだ。
すぐにでも旅立ちかねない夏侯蘭を落ち着くようにするためか、藍玉はその腕をからませたまま、軽くなでてくる。
事情を知らないものが見たら、ふたりは恋人同士のように見えたかもしれない。
「気持ちはわかるわ。でも、樊城の『壺中』を相手にするのは、あなた一人では無理よ」
「おれに、陳到らと共闘せよと?」
「できるものなら、そうしたほうがいいわね」
「できるわけがない。おれは曹公の部下だぞ」
藍玉は、そう、そうよね、と残念そうにくりかえし、それからまた、嫦娥を中心に騒いでいる女たちに背を向けるかたちで、つづけた。
「あなたには教えておくわ。狗屠の正体は、劉表の子、劉琮よ」
今度こそ、夏侯蘭は言葉を失くした。
劉表の子が狗屠だった。
まったく考え付かなかったことであった。
そも、劉表が目に入れてもいたくないほど可愛がっているという少年が、許都にあらわれるはずがないという思い込みがあった。
さらには、何不自由なく生きてきているなかで、か弱い女たちを闇討ちし、引き裂いてまわっているなど、だれが想像できるだろう。
だが、一方で腑に落ちることもあった。
新野で狗屠があらわれたとき、仲間がいた。
そいつは狗屠を監視しているのだと今まで思っていたが、そうではない。
守ろうとしていたのだ。
決して死なせてはならない人間だったから。
「わかるでしょう、『壺中』は、狗屠…劉琮を守りきろうとするはずよ。
あなたは『壺中』の残党を相手にしなくちゃいけなくなる。
だから、一人では無理なのよ。犬死になるわ」
「それでも、行かねばなるまい」
暗い決意とともに、夏侯蘭はきっぱりと宣言した。
「命なんぞ、惜しくない。そもおれは、妻の仇を討つためだけに生きてきた。
それなのに、いま命を惜しんで動くのをやめたら、死んだも同然の身になってしまう」
「もう一度いうわ。わたしたちと一緒に屯所へ行って、陳到どのと共闘するわけにはいかないの」
「無理だ」
「そう…」
背中では、女たちの話がまとまったようで、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だよね」
と勇ましいことを言って、みなで屯所へ出かけようとしている。
「わたしも行ったほうがよさそうね」
藍玉はそういって、ゆるゆると、夏侯蘭の腕にからませていた自身の腕をほどいた。
藍玉が離れていって、はじめて、その腕の温かさに夏侯蘭は気づいた。
思えば、ずいぶん世話になったものである。
藍玉には藍玉の思惑があったにしろ、彼女に助けられなかったら、いまごろはどうなっていたかわからない。
「礼を言わねばならんな。いままでのこと、感謝する」
「いいのよ、お互い様ですもの。
でも、これだけは言わせて。
命を惜しんで戦って。かんたんに死んではだめよ。
あなたは長生きしなくちゃいけないひとだわ」
「ありがとうよ」
そう言って夏侯蘭は口元を緩ませたが、そこで初めて、自分が久しぶりに笑ったことに気が付いた。
「では行く」
「待って」
藍玉はすぐにでも旅立とうとしている夏侯蘭を引き留めると、おのれの胸元から、一枚の紙を取り出した。
なんだろうと覗き込むと、そこには、見たことのない少年の顔が描かれていた。
夏侯蘭は、はっとして藍玉を見た。
藍玉は、強くうなずく。
これが、探し求めていた狗屠の顔なのだ。
賢そうな顔をした美少年である。
口が気難しそうに曲がっているのだが、それが年頃のむずかしさゆえなのか、それとも性質の悪さゆえなのか、すぐには夏侯蘭には判然としなかった。
まじまじと端麗なその顔を見つめる。
とても娼妓を殺して回っている狂気の殺人鬼には見えない。
まさに、なぜ、であった。
なぜこんなひどいことを繰り返してきたのか。
州牧の子という、世にも恵まれた立場でありながら、なぜ。
夏侯蘭はいつしか、泣きそうになっている自分に気づいた。
ようやく敵の顔を見ることが出来た喜びと、こんな子供に妻を殺された怒りが心の中で爆発して、ぐるぐると混ざり合っている。
喉がひりつく。
藍玉に礼を言わなくてはならないが、ことばにならなかった。
「帰ってきて、無事な顔を見せてとは言わないわ。
前にも言ったけれど、あなたは復讐なんてことに向かないひとよ。
あなたの優しさがあだにならないことを祈っているわ」
「こんなやつに、優しさなんぞ」
「ああいう、人を簡単に殺せる奴には、不思議な魅力があるのよ。それに捕まらないでね」
「もちろんだ」
「それと、崔玉蘭。わたしのほんとうの名前はそういうの。
おぼえておいて。また会えるといいわね」
「わかった」
短く答えて、それから、やっと落ち着いてきて、さいごに絞り出した。
ぎこちないながらも、笑みを添えることができたのは、自分にしては上出来だと、夏侯蘭は思う。
「いままで世話になった。ありがとう、藍玉」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村及びブログランキングに投票してくださっているみなさまも、大感謝でーす♪
おかげさまで、「なろう」で1万6千PVまでいきました。
太陽の章もそろそろ残り原稿が半分…続編の制作もがんばりますー!
ひきつづき、当ブログをごひいきに!
それなのに、趙雲に先に越された。
悔しさよりも先に、これからどうしたらよいのかがわからないので、呆然としてしまう。
なぜ子龍が狗屠と戦ったのだろうか?
おれを助けるためではなかろうに。
疑問に思っていると、藍玉《らんぎょく》がさらに言った。
「撃退したといっても、手負いにしただけのようなの。
狗屠とその仲間は、いま樊城にある隠し村に向かっているそうよ」
「隠し村だと。つまりはやつを子龍は討ち取り損ねたというわけか」
つまり、狗屠は生きている。
かあっと全身の血が沸き立つのをおぼえた。
ようやく、狗屠が近づいてきた。
やつの猫背の背中を思い出す。
樊城にいけば、あいつを倒せるのだ。
すぐにでも旅立ちかねない夏侯蘭を落ち着くようにするためか、藍玉はその腕をからませたまま、軽くなでてくる。
事情を知らないものが見たら、ふたりは恋人同士のように見えたかもしれない。
「気持ちはわかるわ。でも、樊城の『壺中』を相手にするのは、あなた一人では無理よ」
「おれに、陳到らと共闘せよと?」
「できるものなら、そうしたほうがいいわね」
「できるわけがない。おれは曹公の部下だぞ」
藍玉は、そう、そうよね、と残念そうにくりかえし、それからまた、嫦娥を中心に騒いでいる女たちに背を向けるかたちで、つづけた。
「あなたには教えておくわ。狗屠の正体は、劉表の子、劉琮よ」
今度こそ、夏侯蘭は言葉を失くした。
劉表の子が狗屠だった。
まったく考え付かなかったことであった。
そも、劉表が目に入れてもいたくないほど可愛がっているという少年が、許都にあらわれるはずがないという思い込みがあった。
さらには、何不自由なく生きてきているなかで、か弱い女たちを闇討ちし、引き裂いてまわっているなど、だれが想像できるだろう。
だが、一方で腑に落ちることもあった。
新野で狗屠があらわれたとき、仲間がいた。
そいつは狗屠を監視しているのだと今まで思っていたが、そうではない。
守ろうとしていたのだ。
決して死なせてはならない人間だったから。
「わかるでしょう、『壺中』は、狗屠…劉琮を守りきろうとするはずよ。
あなたは『壺中』の残党を相手にしなくちゃいけなくなる。
だから、一人では無理なのよ。犬死になるわ」
「それでも、行かねばなるまい」
暗い決意とともに、夏侯蘭はきっぱりと宣言した。
「命なんぞ、惜しくない。そもおれは、妻の仇を討つためだけに生きてきた。
それなのに、いま命を惜しんで動くのをやめたら、死んだも同然の身になってしまう」
「もう一度いうわ。わたしたちと一緒に屯所へ行って、陳到どのと共闘するわけにはいかないの」
「無理だ」
「そう…」
背中では、女たちの話がまとまったようで、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だよね」
と勇ましいことを言って、みなで屯所へ出かけようとしている。
「わたしも行ったほうがよさそうね」
藍玉はそういって、ゆるゆると、夏侯蘭の腕にからませていた自身の腕をほどいた。
藍玉が離れていって、はじめて、その腕の温かさに夏侯蘭は気づいた。
思えば、ずいぶん世話になったものである。
藍玉には藍玉の思惑があったにしろ、彼女に助けられなかったら、いまごろはどうなっていたかわからない。
「礼を言わねばならんな。いままでのこと、感謝する」
「いいのよ、お互い様ですもの。
でも、これだけは言わせて。
命を惜しんで戦って。かんたんに死んではだめよ。
あなたは長生きしなくちゃいけないひとだわ」
「ありがとうよ」
そう言って夏侯蘭は口元を緩ませたが、そこで初めて、自分が久しぶりに笑ったことに気が付いた。
「では行く」
「待って」
藍玉はすぐにでも旅立とうとしている夏侯蘭を引き留めると、おのれの胸元から、一枚の紙を取り出した。
なんだろうと覗き込むと、そこには、見たことのない少年の顔が描かれていた。
夏侯蘭は、はっとして藍玉を見た。
藍玉は、強くうなずく。
これが、探し求めていた狗屠の顔なのだ。
賢そうな顔をした美少年である。
口が気難しそうに曲がっているのだが、それが年頃のむずかしさゆえなのか、それとも性質の悪さゆえなのか、すぐには夏侯蘭には判然としなかった。
まじまじと端麗なその顔を見つめる。
とても娼妓を殺して回っている狂気の殺人鬼には見えない。
まさに、なぜ、であった。
なぜこんなひどいことを繰り返してきたのか。
州牧の子という、世にも恵まれた立場でありながら、なぜ。
夏侯蘭はいつしか、泣きそうになっている自分に気づいた。
ようやく敵の顔を見ることが出来た喜びと、こんな子供に妻を殺された怒りが心の中で爆発して、ぐるぐると混ざり合っている。
喉がひりつく。
藍玉に礼を言わなくてはならないが、ことばにならなかった。
「帰ってきて、無事な顔を見せてとは言わないわ。
前にも言ったけれど、あなたは復讐なんてことに向かないひとよ。
あなたの優しさがあだにならないことを祈っているわ」
「こんなやつに、優しさなんぞ」
「ああいう、人を簡単に殺せる奴には、不思議な魅力があるのよ。それに捕まらないでね」
「もちろんだ」
「それと、崔玉蘭。わたしのほんとうの名前はそういうの。
おぼえておいて。また会えるといいわね」
「わかった」
短く答えて、それから、やっと落ち着いてきて、さいごに絞り出した。
ぎこちないながらも、笑みを添えることができたのは、自分にしては上出来だと、夏侯蘭は思う。
「いままで世話になった。ありがとう、藍玉」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村及びブログランキングに投票してくださっているみなさまも、大感謝でーす♪
おかげさまで、「なろう」で1万6千PVまでいきました。
太陽の章もそろそろ残り原稿が半分…続編の制作もがんばりますー!
ひきつづき、当ブログをごひいきに!