青木繁:《海の幸》と日露戦争の夏
ブリジストン美術館の土曜教室「再考・青木繁」を聴講してきました。
講師は首都大学東京の長田謙一教授でした。
青木繁
青木繁は東京美術学校(現在の東京藝術大学)を卒業した明治37年の夏に、
友人の坂本繁二郎、恋人の福田たね等と千葉の房総の布良に逗留している。
その時に《海の幸》も画かれている。
その後《海の幸》は第9回白馬会展に出品され大きな反響を呼んだとされている。
しかし、その「反響」については「好評」を博したとは、
どこにも見当たらないのが不思議でならなかった。
一般に《海の幸》は、若い青木繁の青春のエネルギーが爆発した作品であり、
当時主流だった黒田清輝の画風とは相容れないものであった、と解されていた。
ただ、わん太夫は以前に《海の幸》を見たとき、
図版で見るよりもはるかに哀調を含んだ作品の印象を持っていた。
そして今回ブリジストン美術館で、じっくり鑑賞する機会を得た。
それでも、若者の力強い作品と言うイメージは持てなかった。
悪く言えば「葬送の行進」にしか思えないのである。
まして、中央で一人だけこちらを向いた「白い顔」は死者そのものではないか。
この「白い顔」は青木繁本人だとする説もあるが・・・
見れば見るほど、そのような疑問をさらに強く抱いてしまった次第である。
その疑問は、今回の長田謙一先生の講義を拝聴して解決したような気がします。
以下は長田先生のお話を基にした私見です。
青木繁が美校を卒業する年の2月に日露戦争の開戦がありました。
日本海軍は、ロシアの艦船に対抗するため、布良の漁師たちを甲板員として、採用しました。
しかし、この漁師たちが乗り組んでいた「貨物船」(軍用船ではありません)が、
ロシア海軍により撃沈され、数百人もの多数の犠牲者が出たのです。
その葬儀は、当時の青山練兵場で執り行われましたが、
その葬列は延々と続いていたようで、当時の新聞にも載っていました。
布良の漁師も多数犠牲になったことを考えると、
《海の幸》で描かれた列を成す人々は、犠牲となった布良の漁師たちへの
「鎮魂」の意味が込められていると言えるのではないでしょうか。
そして、当時の世相から、日露戦争に国を挙げて国民を「鼓舞」するという方向とは違う
青木繁の《海の幸》が大反響を呼んだ一因かもしれませんね。
皆さんはどのようにお考えですか・・・
ブリジストンの土曜講座、次回9月22日は
「布良という聖地ー《海の幸》が生まれた場所」と言うテーマで
ブリジストン美術館主任学芸員の貝塚 健先生が担当なさいます。
あと30席ほどお席に余裕があるとのことでした。
お時間のある方は、是非わん太夫の顔を見に来てください ヽ(^o^)丿
ブリジストン美術館のURL
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/
NHKのアートシーンでの放映後は、一日の平均入場者が
300人から600人に倍増したとのことでした。
少し ピントが合ってないような?
やっぱり 難しいのですか?
画像はブリジストン美術館のホームページから、
お借りしたものです。
元画像の画素数がやや小さいので、拡大すると多少無理があるのかも・・・
興味深く読ませて頂きました。
なるほど~、こういう流れがあってだったのですね。
鎮魂の意味として見るとまた自分の中で印象が変わってくるかもしれません。
長田先生の学説は青木繁に関する今までの一般的な学説とは、一線を画すものですね。
傾聴に値するものだと思いますが、
つくづくと《海の幸》を眺めていると、いろんな解釈ができるものだなあ~と感心してしまいます。
それがこの絵の凄さなんでしょうね
《海の幸》とはいろいろな場面で出合います。
聴きに行きたかったけど行かずじまいでした。
内容の一部を興味深く拝見しました。
この記事の続きを書こうと思いつつ、時間ばかりが過ぎ去っていきます(笑)
布良にお住まいとのことですが、
1900年の明治の頃の布良は画家たちが挙って、
画活動したとこのようです。
また海水浴浴場でもあったようで、東京から沢山の人々が押しかけていたらしいです。
かなりの社交の場だったようです。
関東大震災の影響で、当時とは少し地形が変わってしまったみたいですね。
最近、エコウォークの関連で平砂浦から布良の歴史をの中で、前田夕暮の短歌に詠まれた《海の幸》についてちょっと探したりしていました。歌集『生くる日に』の中にあります。坂本繁治郎が挿画を描いています。
ブリジストン美術館では、青木繁ツアーを行い、
布良のあちこちを見学したそうですよ。
見かけませんでしたか♪ d(⌒o⌒)b♪
このとき、青木が滞在した漁家・小谷邸は100年を超えた今、明治の漁村を代表する住宅として市の指定文化財の審議がすすめられています。
青木没後50年に建立された《海の幸》記念碑は、平成10年に地元住民の強い熱意により撤去の危機を免れました。設計者は、近代建築を翻訳紹介した東大教授の生田勉です。隣接していた同氏設計の館山ユースホステルが解体されてしまったことは悔やまれてなりません。
私たちは2つの文化遺産の保存・活用を通じて、教育と地域づくりをすすめています。ぜひ一度、ご来訪ください。お待ちしています。
2年ほど前になりますが、
ブリヂストン美術館主催で布良見学ツアーがありました。残念ながら、その時は仕事の都合で参加できませんでした。
また何か機会を見つけて布良を訪ねたいと思っている次第です。