白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・あなたが重すぎる

2025年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

一度口にしてしまうと消去できなくなる言葉がある。その言葉は何も特別なものではなく逆に日常的に用いる平凡な単語ひとつでしかない場合のほうが断然多いかもしれない。しかし置かれるべき場所が間違われると取り返しのつかない事態へ転化する。転化したまま何十年も訂正を許さず風化して忘れ去られることもない。もしどうしても消去したければその消去によって消去と同時に与えられ否応なく刻印された相手の輪郭を消去し去ってしまわなければならない。だが時間の経過は二度目の消去のきっかけを延々引き延ばしていき、再転化の機会を容易に与えられぬまま失われていくことのほうがほぼ間違いなく多いだろう。

 

小学校三年生のときに美央は芳香剤=消臭剤をトイレに投げ込まれた。美央はクラスの中で有名な「嘘つき」でもあった。「嘘つき」がトイレの清掃をしている最中、「嘘つき」に向けて芳香剤は命中する。芳香剤の臭いはかなりきつい。「嘘」という見えすいた「芳香」に対する最初の消去はクラスメートの我慢の限界によって暴発した。

 

「『行きたくないと、お母さん、困るよ』

と、絞り出すような声で言った。泣いていることが一瞬で美央に伝わったのが分かった。ああ、違う。そう咄嗟に思う。美央がどんな顔をしているか、どうしてかわかるような気がした。美央は目を開いたまま、その黒目をうんと濃くして母親であるわたしに絶望しているような気がして、不思議とそれがわたしの憶測ではなく、今まさに美央のこころにあるのだとわかる。何を違えたのかわからないけれど、間違った。美央に対して何かもっとかけなければいけない言葉があるはずなのに、そう思って唇が、わ、う、わ、と言葉を掴もうとして歪んだ瞬間、電話が切れた」(くどうれいん「A701」『群像・4・P.166』講談社 二〇二五年)

 

「わたし」はそこそこ年期を経た清掃員だ。ホテルを清掃し自身の体を銭湯で洗い流す。どんな臭いも消去するのが仕事だ。ある日、クラスメートとのいざこざがあった際、娘にかける言葉を間違った。この間違いによって娘の何かを消去してしまうと同時に娘にある種の意図しない輪郭を刻印してしまった。しかしこの刻印は輪郭の鮮明化という意味では娘の独立ではある。けれども母「わたし」からの切断でもある。自立といえば聞こえはいい。しかし娘は、読者にとって、記号にしか見えないほどそっけない輪郭ばかりになって映る。計量薄型を売りにするノート・パソコンのようにスリムだ。

 

かつて娘に芳香剤を投げつけたクラスメートの女子はそれから二十年を経て新聞記者になっている。言動ひとつ取ってみても隙のない明瞭な輪郭を手にいれている。人と人との関わりのわずらわしさを全身で現わしたりも簡単にやってのける。だぶだぶの肉体が大勢うごめく泥海の中で溺れ死んでしまうことを何よりも怖れているかのようだ。

 

娘も同じく二十年を経たが、芳香剤を投げつけられた側なりに明瞭な輪郭を帯びてときどき「わたし」の前に現われる。現われてはくれるが成人式出席は断固として拒否した。子どものままでいたいという意味ではなく、むしろ精算されるべきものがとうとう精算できなくなってしまった、満期を過ぎてしまったという絶望的深淵のふちに立っているかのようなのだ。だがその筆致は淡々としていて激昂ひとつ飛びかわない。

 

そういえば、幼い日の美央がほしいなどとまるで思ってもいないお菓子を「わたし」は「ほしがっているだろう」と思い込んで一方的に延々供給していた。母からの絶え間ない供給にもかかわらず娘はいつも手を出さなかった。遠慮しているわけではなくただ単にほしくなかっただけだというのに。

 

娘はお菓子に手を出さない。なのになぜ「わたし」は何一つ考えず無駄にお菓子を供給し続けていたのだろう。余計なもの。子どものわがままがわからないのに「わたし」は頑としてわがままでなおかつ重すぎる。「わたし」から「わたし自身」の重々しさを消去することはなかなかできないだろう、おそらく永遠にできないだろうと、幾つかの徴がぽつりぽつりと描き込まれている。


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