擬態もしくは隠蔽。今回「蝶」に関する擬態はたっぷり盛り込まれている。そんなわけになっているのでその他の部分を見ようとおもう。
「片づけたところへ、二台のローイングマシンをおいた。競技者が夜間や冬季のトレーニングにつかうものだが、中高年のエクササイズマシンにもなる」(長野まゆみ「C&L」『群像・4・P.177』講談社 二〇二五年)
冒頭でさっそく出現する変容のための器具。読者としては家にも一個似たようなものが置いてある。ひどい鬱状態に陥っていないとき短時間に限って筋力を維持するための道具が。しかし「一実さん」がローイングマシンを活用する理由は別にある。
「一実さんは日常的にメンズスーツを着るひとだ。擬態もしくは隠蔽なのだが、本人は加工のつもりのようだ。アンダーウエアを活用している。もうひとつ、その服装がごく自然にみえる理由のひとつは、肩の厚みと体の動かしかたにある。マシンによってあるていど鍛えた腕力や脚力をささえに、男ものの服を着こなしているのだ」(長野まゆみ「C&L」『群像・4・P.180』講談社 二〇二五年)
「擬態」と「加工」とは折り重なるひとつの動作だ。どちらなのかという問いはあまり意味がない。ただ「本人は加工のつもり」であり単なる「見た目」の動きに限っていえば反復が目立って仕方がなく、そのあまりに「擬態もしくは隠蔽」にほかならないということがともすれば「本人には」隠蔽されてしまう。
さらに「一実さん」は男性かそれとも女性か。これはひとつの問いになり得る場合がある。けれどもローイングマシンとともに反復運動する「一実さん」の日常的なルーティーンそのものが「男性かそれとも女性か」という問いを限りなく無効化し去っていく。
どちらとも決定できないもの、溶けて見えるもの、人間のシルエットはしばしばそのようなものとして運動してもいる。こんなふうに。
「長身で短い黒髪のそのひとの体の動かしかたは女のひとのようだったが、濃紺のコートと同色のストレートパンツといういでたちは、見かけの印象をあいまいにする。男のひとの集団のなかにいれば、男のひとに見えるだろう」(長野まゆみ「C&L」『群像・4・P.193』講談社 二〇二五年)
シルエットは邪魔になるだろうか。シルエットだけの世界から太陽の真下へひきずりだしてみたとして、しかし身体と、身体を包み込む衣装とを分離したとしてみたとして、何か「腑に落ちる」ようなことがあるだろうか。あるとすれば、ドゥルーズ&ガタリの言葉を借りれば、こういうしかないようにおもわれる。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・14・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)
性別未決定性。これまでのところ、そのほかに何がいえるだろうか。読者にとって言える権利はある。その権利を行使したとして、では作者の意図とてんで違っているような場合を想像してみると、読者は思いのほかナイーヴにもせっかくの権利を行使しようとせず逆にすごすごと後退りし始めることさえ十分あり得る。あるいはバルトのいうように作者を消去してみたとしよう。しかし思うにいわゆる「作者の死」がどうだというのだろう。
作品は作者の「擬態もしくは隠蔽」なのだろうか。連作に目を通しているとそうかもしれないと言うことはできてもなお、作品はそんな安易な批評を許さないに違いない。むしろ作品自体が変容しようとしつつある兆候が散りばめられていないだろうか。「蝶」に関する長々しい説明はそんな兆候のひとつでしかないかもしれないという気配を打刻していはしないだろうか。いやそうではないと誰に断言できるだろうか。未決定なのは性別だけではない。作品じたいが連作という形式を借りつつ変容途上あるは変容過程として出現しているのでは、と感じさせるのはなぜなのか。
チーズケーキのエピソード。
「自分でレンジのところへ行き、低温で三十秒ほど、加熱する。チーズケーキの断面に、さきほどはなかった曲線があらわれている。溶けやすい部分が、ほかの層を侵食したのだ」(長野まゆみ「C&L」『群像・4・P.188』講談社 二〇二五年)
電子レンジで加熱しなくても食べられるものだが「ノエ」は「溶かして」食べるほうを選ぶ。レンジで「溶かし」、その「断面に、さきほどはなかった曲線があらわれ」つつあるチーズケーキは「溶かす」前のチーズケーキと同じ名前で呼ぶことができるのか。できるとしてもそれを「溶かす」前とまったく「同じ」チーズケーキであるとは言えないだろう。チーズケーキはチーズケーキでもレンジの加熱で「溶けた」状態へ変容しつつあるものを同じ名前で呼んでしまうのは許されると同時に許されないある種の暴力、短絡的な串刺し、取り返しのつきそうにない決定的なミスを犯す一歩手前まで行ってしまいそうな怖さがある。
ありふれた瞬間で満たされた日常でありながら実はそこでいったん分かたれ廃棄されるべき廃墟を見送ることと、分かたれることで現われ出てきた「溶けた」チーズケーキへの命名=名称変更が要求されているのではと思えはしてこないだろうか。「ほかの層を侵食した」のはほかでもない「溶けやすい部分」だということ。たとえば頑として動かなかった強固な断層をやすやすと掘り崩し溶かしてしまいその地帯一円の名称さえ瓦解させる液状化のごとき運動。その「溶けやすさ」のないところに柔軟流麗な生成変化など起こりうるはずはないのである。
なお、ちょっとしたエピソードとして「苔テラリウム」の話が出てくる。洒落たインテリアでほんのわずかずつ変容していくその変容ばかりが延々引き続いていくわけだがただ単なるインテリア商品の枠組みを超えた世界へ読者の想像を引っぱりこむ。それを見る人は苔テラリウムの変容を見ているだけでは決してなく変容していく苔テラリウムを見ている自身の変容(身体的かつ精神的)の揺らぎを感覚していることを忘れるわけにはいかない。
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