白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年六月二〇日(1)

2017年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年六月二十日作。

(1)測りを取り出す隅の暗さを拭き取る

(2)醒めた目がまた右後ろに黙って見て居る

(3)夏日を病んでゆく一人

(4)悔やめばますます深淵の深さ

(5)貼り付いた無表情が歳を重ねる

☞何日も同じシーンばかり繰り返されているような気がする。特にテレビ報道。しかしなぜそういうことになるのか?「ご意向」にせよ「忖度」にせよ。それが可能なのはなぜか?人々はどのような仕組みに従うことで「ご意向」なり「忖度」なりを実現するのか。あるいは実現しないのか。レーヴィットから。

「ひとは《他者》についてはひどく適切な性格づけを与える一方、じぶんがそのことで自身にかんしてどのように言いあて、じぶんを共に=性格づけているかは、そのさい注意しない。経験的によく知られているこの事実は、まったく一般的に、他者についての知識がじぶん自身への非明示的な顧慮から得られることにもどづいている。じぶん自身について他者から、他者にかんしてはじぶん自身をもとに知り、評価することを、たいていの場合ひとは気づかない。だからこそ、第三者からみれば、他者をめぐる評価のうちには、評価する者自身が映しだされているのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.187」岩波文庫)

「他者の評価にかかわるこうした諸刃のありかたは、とはいえ、他者との関係における各人固有のふるまいが有する《原則的な両義性》の、ひとつの特殊例にすぎない。その両義性は、もっとも日常的で非拘束的な関係にはじまり、排他的な関係の崇高な弁証法から帰結する、多少なりとも喜劇的な悲劇にいたるまで共同相互存在を支配して、突然、<私のもの>と<きみのもの>との、解きがたい取りちがえと取りかえまで昂進する。自己中心主義から他者中心主義的な装いという仮面を剥がすこころみは、しばしばくわだてられる。その試行は、けれども、自己中心主義の慎ましく偽装された装いのうちに、ひどく極端な無私性を発見するという、くわだてらることの稀なこころみ以上に原理的にいって見こみのあるものではない」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.188」岩波文庫)

「いくつかの慣用句が、<私>と<きみ>のあいだのこの原則的な弁証法を暗示していよう──その詳細なテクストは、日常的な生の関係によって各人に与えられる。『私はこれ以上《きみを》引き留めらくありません』とはすなわち、事情によれば同時にあるいは主要にはまた、《私は》これ以上きみに引き留められたくない、である。『《私は》これからもう一度じぶんの仕事にとりかからなければならない』とはすなわち、事情により同時にもしくは主としてまた、《きみが》もうひとりでいたいと思っているのは分かっている、である。『《きみには》だいたい明日なにかやることがあるのか』とはすなわち、事情によって同時にあるいはおもにまた、《私は》もともと~をやるつもりだった、であり、『《私は》もともと~をやるつもりだった』は、事情によればさらにあるいはまた主要には、《きみが私といっしょに》~をやると私はもともと思っていた、を意味する。『私は近々Xに二週間旅行するだろう』は、事情によれば同時にあるいは主要にはまた、《きみは》ちょうど二週間ひとりでいることができる、であり、意味されているのは、事情によってさらにあるいはまた主要には、だから《きみは》しばらく《Yと》ふたりでいることができる、である。後者は、だが事情によればさらに、だから《私はYとは》いっしょにいなくてもよい、を意味するのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.188~189」岩波文庫)

「他者を励ますことでひとはじぶん自身を元気づけ、他者に忠告することでじぶん自身に訓戒を与える。じぶん自身に責めを負うことで他者を許し、他者に自由を与えて、自身が他者から自由になる。他者からじぶん自身を解放することで、他者にその自由を返還する。じぶんが妻にとってふさわしい夫ではないと妻に宣言し、そのことで妻に、妻がじぶんにふさわしい妻ではないと宣言する。他者を批判してじぶん自身を正当化し、他者を正当化することでじぶん自身を批判する。他者を攻撃して、そのことでじぶん自身を防御する。第三者に反対して第二の者を護り、じぶん自身を顧慮してこの第二の者を護る等々である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.189~190」岩波文庫)

「この両義性は、《相互のさまざまな関係》にもかかわっている。《関係が関係にそくしていること》は、人間的生のあらゆる叙述における非明示的な動機なのである。AとBが一時的に互いに遠ざかることで、遠ざかった両者のそれぞれがふたたび近づく。第三者に対する両者共通の反感によって、両者相互の共感が強化される。Xに対する両者の関係が悪化するとともに、Yに対するかれらの関係が──偶然ではなく──改善される。第三者を『犠牲にして』たいていは二者間の了解がなりたち、かれらはいわば『その点で』互いに出会う。二者の一方が第三者と知りあうことで、第一の者に対するその者の根源的な関係が変化する。子どものひとりを偏愛すれば、他の子どもへの愛は減少し、一方の者を賞賛することが他方を非難することを意味する。『第三者』がたんにくわわることで、どのような場合でもすでに、一者の他者への関係はあらかじめ変容することになる等々である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.190」岩波文庫)

「決定的な《アクセント》がそのつど──一方の者自身か、あるいは他方の者か──どちかに置かれているかは、多くの場合あとからはじめて示される。それまで通用していた関係規定が破綻して、はじめて示されるのだ。ひとつの関係がある変化をこうむるとき、一方の者のふるまいがその関係にそくしたものでなくなるのは、まさに一方の者のふるまいがつねにすでに、関係に-そくして他方の者に対して同調しているからである。ふるまいは、いまやその根源的な意味を喪失する。ふるまいは他方の者の期待されるふるまいに向けられていたのであるから、正当でないもの、調子の合わないものとなるのである。いっさいの具体的な関係にとって決定的なこうしたアクセントの問題については、とはいえこれ以上、形式的なかたちでは解明されない。だから範例によって直観的な理解を与えることが必要である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.190~191」岩波文庫)

「Aが、Bの出かけるコンサートのチケットの世話をした──ただしそれはもともと、コンサートのあとでBをXへと連れてゆくためである、とする。コンサートのまえに、同伴できないことがあきらかになる。そこでAは、コンサートへは出かけないことにする。出かけない動機についてBから尋ねられたとき、Aにとって、つぎのように答える可能性が開かれている。つまり(1)Bが同伴を必要とする場合だけAは出かけた、と答えるか、(2)《かれが》(Aが)Bを同伴することができれば出かけた、と答えるかである。このふたつの答えのちがいに、関係について問われるべきことが両義的なしかたで表現されている。しかも、アクセントが(1)においてはBにあり、(2)にあってはAにあることによってである。両者は『正しい』答えである。とはいえ第二の答えのほうが、方向を-与えるアクセントという意味で率直な答えである。そのかぎりで見てとられうるのは、(1)のばあい同伴者(A)が(Bを)同伴することが不明確となり、さらにはBの側を強調することでじぶんは陰に隠れうることである──本来のアクセントは、Bをだれかが同伴することにではなく、《じぶんが》同伴することにあるにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、である。関係に-そくして問題なのは、Aにとっておもに関心があったのが、《じぶんが》Bを同伴することができることであったか、あるいはBが同伴されることであったか、である。(1)の答えはまちがいではない。むしろことばどおりには正しいけれども率直ではなく、その意味において真実ではない。Aはその答えによって、あたかもじぶんが『Bのために』だけ、コンサートに出かけたり、出かけなかったりしたかのような見かけをつくり出すことができるからである。じっさいAはたしかに、『Bのために』も出かけたり、Bのために出かけなかったりもしただろう。だが関係に-そくして(両義的に)、すなわち同時に《じぶん自身のために》、Bのありうべき同伴者として、そうしたのだ。こうした関係にそくしたありかたが強調されるのは、Bにはおよそ同伴する者が、あるいはじぶんという同伴者が欠けていることへの配慮においてではない。《じぶんには》Bを同伴することが-できない、という配慮においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.191~192」岩波文庫)

「関係の原理的な構造は、かくてつねに、《一者》のふるまいが《他者》によってともに規定されていることにある。ふるまいは相互再帰的なありかたにおいて再帰的なのである。他者に対する一者の関係を度外視すれば、一者がなすことのすべては理解できない。一者は閉ざされた《個人》としてすべてをなすのではなく、《ペルソナ》として、すなわち或る『役割』を有した者としていっさいをなすからである。一者が『私たち』という意味では明示的に語ったり、行為したりしない場合であっても、一者の役割は、他者への関係によってすでにそれ自体として、一者に割りあてられているものなのである。両義性は、第二の者である他者への関係から、一者のふるまいもともに規定されることから生じる。この両義性はさらに、それ自身によっても変容してゆくことになる」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.193」岩波文庫)

「両義性が回帰するのは、ひとがかかわる者がそれ自身またその者自身にかかわるからである。一者のふるまいにもとづいて、他者はその者に立ちかえる。こうした往還、ふるまいにおけるこの《交替》は、とはいえその意義からして、両者のふるまいが《代わる代わる》一方から他方へ移されてゆくことには還元されず、それぞれのふるまいを、それ自身においてあらかじめ変容させている。一者のふるまいが他者のふるまいを目ざしている場合、他者のありうべき応答的なふるまいをあらかじめ見こして、一者は他者にふるまっている。他者が一者自身へと立ちかえることが、一者の意図的な立ちかえりにはじめから先んずる傾向を動機づけているのだ。じぶんのふるまいは、したがってたんに、他者《に》向けられているばかりではない。同時に他者に《したがって》いる。ふるまいは、あらかじめ他者にあわせて裁断されているのである。他者に対するじぶんのふるまいにふくまれる、原初的な両義性が回帰するのは、したがって、一者が(他者に対して)みずからふるまうさいに《関係に対して関係する》からである。ふるまいにおいて関係に対して関係するとは、私に対する他者のありうべきふるまいを、私があらかじめ考慮に入れて、或る他者に対してふるまっていることを意味する。この構造は、理論的にはかくも技巧的にきわだったものとも見えようが──事実的なさまざまな関係がそのことで必然的には明瞭なものとはならないとしても──、その構造は日常的に自明なかたちで習熟され、遂行される。一者が他者をすでに知っていると信じている場合にはいつでも、期待される他者の反応へと先だって回帰しながら、一者は他者に対してそれとは知らずにふるまっているのだ」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.193~194」岩波文庫)

「『互いに対して焦点を合わせている』ふたりが交わす討論ではすべて、他方が可能な一定の答えをじぶんに与えることをまえもって推測しながら、一方はあらかじめ他方に対して語りかける。語りかけるときには、他者のありうべき反駁に対してじぶんの側ですでに反論している。だから、討論する者たちが互いに対してより焦点を合わせるほど、状況によってはそれだけただちに、論拠がいわば戦線を交替するという独特な現象が展開する。この交替は、討議の相互的なありかたが、一方と他方の立場の交替と混同へまで高まったことのあかしである。そのばあい討議の終わりには、各自が最初はその論拠で相手を打ち負かそうとしていたまさにその論拠によって、各自は撃ちぬかれることになるだろう」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.194~195」岩波文庫)

「各自が最初はその論拠で相手を打ち負かそうとしていたまさにその論拠によって、各自は撃ちぬかれることになる」、というわけだ。しかし審議過程の終わりはいつも同じだ。「撃ちぬかれることになる」のは常に既に野党である。というのも議案はその内容がどのようなものであるにせよ形式民主主義の原則に則って多数決で決められるより他に手段がないからだ。その意味では野党もまた与党の太鼓持ちの役割りしか果たすことができていないと言うほかない。


自由律俳句──二〇一七年六月十七日(1)

2017年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年六月十七日作。

(1)無重力に遊べば夏空の青み

(2)水辺の開かれ蝉のしぐれる

(3)融けそうなまかせる

(4)襟のボタンが静けさの宿り

(5)風が絹の花を仕上げる

☞ここ数日間日本の政治はまるで素人の寸劇でも見せつけられているようで、非常に重い気分に支配されていたが。ともかく幾らかの教訓を得ることくらいはできただろう。しかしそれを今後十分に活かすことができるかどうかはまた別問題だ。コジェーヴによる「主人と奴隷の弁証法」。人間的《公民》への「進化」。

「これはつまり、(承認を求める闘争において)主人として《死ぬ》ことだけはできるが、《生きて》主人たることはできないということだ。さらに言えば、主人が歴史のなかに現れるのは、消滅するためにのみである。奴隷が存在するためにのみ主人は現存在する」(コジェーヴ「法の現象学・P.280」法政大学出版局)

「なぜなら、奴隷は、潜在的にしか人間的でなく、変化しうるし、変化したいと思うからであり、またこの変化のなかでかつそれによって自らを人間的に現実存在させ続けることができるからである。奴隷が人間的であるのは、彼が主人の人間的現実と尊厳(価値)を承認する限りでのことである。奴隷のなかには、人間的なものの《理念》があるのだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.280」法政大学出版局)

「しかし奴隷は、人間的なものとして《承認され》ていない以上、顕在的に人間的《である》のではない。だから奴隷は、自分を承認させようとし、自分が今あるのとは別物になろうとする。主人が奴隷になりたいと思うことはありえないが、奴隷は、主人になりたいと思うことができるし、主人が承認されるように承認されたいと思うことができる」(コジェーヴ「法の現象学・P.280~281」法政大学出版局)

「しかし、実際には、奴隷が(もう一度闘争を行うことで、つまり生命を賭けることを受け入れることで)それに成功するとしても、奴隷は主人になるのではない。なぜなら、主人は、自分を承認する者を承認しないが、これに対し奴隷は、他者の承認からスタートするからである。だから奴隷は、自分を承認せよと彼が(闘争によって)迫る者を承認しているだろう。だから、奴隷は、主人ではなく、いわば公民(Citoyen)になり、公民としてあるだろう」(コジェーヴ「法の現象学・P.281」法政大学出版局)

「十全かつ決定的に満足を得る(befriedigt)のはこの公民であり、公民だけである。なぜなら公民だけが、彼自身が承認する者によって承認され、彼を承認する者を承認するからである。だから、人間存在として真に顕在的に実現されるのは公民だけである。したがって、主人は、奴隷が存在するためにのみ現存在すると言ってよい。なぜなら奴隷は、人間的現実の顕在態たる公民の潜在態にほかならないからだ。したがって、人間が主人と奴隷とのアンチテーゼのなかでのみ生まれるとすると、人間が十全かつ顕在的に自らを実現するのは、公民のジンテーゼのなかでのみである。公民は、他者によって承認される限りで主人であるが、彼自身がこれらの他者を承認する限りで奴隷である。これはつまり、公民は主人でも奴隷でもないということだ。つまり公民は、潜在態なき顕在態でも、顕在態なき潜在態でもなく、顕在化された潜在態であるのだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.281」法政大学出版局)

「だから人間は、公民である限りでのみ《現実的》である。主人と奴隷は、実際に純粋な状態で現実存在することのない論理的『原理』であるにすぎない。しかし公民は、主人たることと奴隷たることとのジンテーゼであり、このジンテーゼは、潜在態から顕在態への移行、すなわち進化である。この進化は、人類の歴史にほかならず、主人たることと奴隷たることとの完全な中和、決定的均衡に達し、それに達するまでにいくつかの中間段階を経る。これらの段階においては、この二つの構成要素のどちらかが優位する。そして、どちらが優位するかに従って、(相対的な)貴族的主人性や(相対的な)ブルジョワ的奴隷性について語ることができる」(コジェーヴ「法の現象学・P.281~282」法政大学出版局)

「ところで、世界史のこのような弁証法は──とりわけ──法と正義の理念の弁証法でもある。主人たることと奴隷たることとが公民たることのなかで融合するのと同じように、(多かれ少なかれ)貴族的な正義と(多かれ少なかれ)ブルジョワ的な正義とは、いつの日か、厳密な意味での公民、つまり普遍等質国家の公民のジンテーゼ的正義のなかで融合するだろう」(コジェーヴ「法の現象学・P.282」法政大学出版局)


自由律俳句──二〇一七年六月十一日(1)

2017年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年六月十一日作。

(1)隠したはずの椅子がきしむ

(2)無意味が無価値が折れないで居る

(3)くまなく霧がかる制圧

(4)余白に病む

(5)甘い首が落ちる

☞「『君、こう云う空を見てどんな感じを起す』与次郎に似合わぬ事を云った。無限とか永久とかいう持ち合せの答えはいくらでもあるが、そんな事を云うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。『つまらんなあ我々は。あしたからこんな運動をするのはもう已(や)めにしようか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちそうにもない』『何故急にそんな事を云い出したのか』『この空を見ると、そう云う考えになる。──君、女に惚(ほ)れた事があるか』三四郎は即答が出来なかった。『女は恐ろしいものだよ』と与次郎が云った。『恐ろしいものだ、僕も知っている』と三四郎も云った。すると与次郎が大きな声で笑い出した。静かな夜の中で大変高く聞える。『知りもしない癖に。知りもしない癖に』三四郎は憮然(ぶぜん)としていた」(夏目漱石「三四郎・P.140~141」新潮文庫)

三四郎の頭の中がよく見通せる箇所。思春期の少年のように注意深く文学的表現を避けて通ろうと試みるシーン。だが与次郎に笑われまいと迂回するポーズが既にまともに思春期であることを暴露する結果になってしまうことには一向に気付いていない。

「三四郎は上から、二人を見下していた。二人は枝の隙から明かな日向(ひなた)へ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声を掛けようかと考えた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好(い)い具合に女の一人が此方(こっち)を向いてくれた。三四郎はそれで留った。実は此方(こちら)からあまり御機嫌を取りたくない」(夏目漱石「三四郎・P.150」新潮文庫)

両者の位置は「上下」にすっぱり分かたれる。三四郎は「此方(こちら)からあまり御機嫌を取りたくない」と精一杯粋がろうとするが、その思考回路がさらに幼稚に映って仕方がない。少なくとも美穪子には気の毒がられるだろう。

「美穪子も留った。三四郎を見た。然しその眼はこの時に限って何物をも訴えていなかった。まるで高い木を眺める様な眼であった。三四郎は心の裡(うち)で、火の消えた洋燈(ランプ)を見る心持がした。元の所に立ちすくんでいる。美穪子も動かない」(夏目漱石「三四郎・P.150」新潮文庫)

美穪子が時間を稼ぐシーン。三四郎は美穪子が何らかの動きをほのめかすことで美穪子の側から動因を得ている「大人子供」でしかないことがわかってくる。わかってくるといっても三四郎に、ではなく、読者に、である。

「『何故競技を御覧にならないの』とよし子が下から聞いた。『今まで見ていたんですが、つまらないから已(や)めて来たのです』よし子は美穪子を顧みた。美穪子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、『それより、あなた方こそ何故出て来たんです。大変熱心に見ていたじゃありませんか』と当てた様な当てない様な事を大きな声で云った。美穪子はこの時始めて、少し笑った。三四郎にはその笑いの意味が能(よ)く分らない。二歩ばかり女の方に近付いた」(夏目漱石「三四郎・P.150~151」新潮文庫)

高い位置から低い位置への移動。近付けば近付くほど美穪子の心情がよく理解できるかのように振る舞う三四郎。しかし物理的な移動で理解が深まるような事情はどこにもない。また美穪子の心情は社会的な意味で将来の結婚あるいは離婚まで含んでおり、個人的な意味では美穪子の愛は三四郎に対して時間的猶予を与える。二人は個人的でもあり同時に社会的でもある二重の条件の下に拘束され合っている。

次に「三四郎はとうとう女の前まで下りて来」るほかなくなる。三四郎はあたかも美穪子に操られるマリオネットのようだ。

「『もう宅(うち)へ帰るんですか』女は二人とも答えなかった。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた。『何処(どこ)かへ行(ゆ)くんですか』『ええ、一寸』と美穪子が小さな声で云う。よく聞えない。三四郎はとうとう女の前まで下りて来た。しかし何処へ行くとも追窮しないで立っている。会場の方で喝采の声が聞える。『高飛よ』とよし子が云う。『今度は何メートルになったでしょう』美穪子は軽く笑ったばかりである。三四郎も黙っている。三四郎は高飛に口を出すのを屑(いさぎよ)しとしない積りである」(夏目漱石「三四郎・P.151」新潮文庫)

「すると美穪子が聞いた。『この上には何か面白いものが有って?』この上には石があって、崖があるばかりである。面白いものがあり様筈がない。『何にもないです』『そう』と疑を残した様に云った」(夏目漱石「三四郎・P.151」新潮文庫)

「崖」に注目しておきたい。上下の位置関係はどこか垂直のイメージを漂わせている。そして上から下への急速な移動がある。別のところで描かれた次の文章を見てみよう。

「『昨夜(ゆうべ)枕元で大きな音がしたのはやっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖の上から宅(うち)の庭へ飛び下りた音だ』」(夏目漱石「門・P.81」新潮文庫)

「外を覗くと何にも見えない。ただ暗い中から寒い空気が俄(にわ)かに肌に逼(せま)って来た」(夏目漱石「門・P.78」新潮文庫)

急速な位置変動はこのように暗黒に見えるばかりでなく「肌に逼(せま)って来」る。実質上、極めて近代的な社会的事情が考慮されている。だからといって漱石は明治近代の資本主義社会についていわゆる「社会派小説」を書こうとした形跡はまるで見られない。しかし漱石自身を含めて、漱石自身もまたその構成要素として、漱石を取り巻く諸事情は、既に「肌」で感じられるような次元にまで浸透していたと考えておくべきだろう。


自由律俳句──二〇一七年六月六日(3)

2017年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

BGMに関する問い合わせには言及しないことを基本としている。当り前といえば当り前。しかしここで「太陽の神(ヘリオス)」について言及しないのは妥当でないと考える。

「テイアは ヒュペリオンの愛をうけて 大いなる太陽(ヘリオス) 輝く月(セレネ) 曙(エオス)を 生まれた」(ヘシオドス「神統記・P.49」岩波文庫)

「大洋(オケアノス)の名にし負う娘 ペルセイスは 疲れ知らぬ太陽(ヘリオス)に キルケと 王アイエテスを生まれた」(ヘシオドス「神統記・P.119」岩波文庫)

だからといって書き出し始めると余りにも膨大な資料を山積みしてしまうばかりなのでこの辺りで止める。本論は以下。

「三角形に築かれたエジプトのピラミッド群は白い光への呼びかけであるが、エメサの神殿の地下の中心では、一種の三角形の濾過器を、人間の血のための濾過器を想像してみなければならない」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.64」河出文庫)

「上からの生贄の血は普通の下水溝に流し去ることはできない。その血は、尿や汗や精液や唾や糞便といった人間の通常の排泄物と混ぜて、海の原初の水と再会させてはならない。それにエメサの神殿の下には特殊な下水溝のシステムがあって、人間の血はいくつかの動物の血漿と合流する」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.64」河出文庫)

「燃えるような螺旋の形をしたこれらの下水溝は、地下深く進むにつれてその円が狭まっているが、定められた儀式によって生贄に捧げられたこの諸存在の血は、大地の聖なる一隅を再び見出そうとしていて、それは地質学でいう原初の鉱脈に、カオスの凝固した身震いに近づくのだ。この純粋な血、祭儀によって軽くされ精妙化され、下の神にとって心地よいものとなったこの血は、エレボスの轟く神々を潤し、その息吹が血を浄化し終えるのである」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.64~65」河出文庫)

「ところで、その男根の頂点から大陽の下水溝の最終回路にいたるまで、神殿は、壁龕(へきがん)、水汲み場、浅浮き彫り、釘のように壁を埋め込まれた振動する石といった突起物ともども、いわば巨大な円のなかにすっかり含まれていて、その円は天空の痙攣性の円に呼応している」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.65」河出文庫)

「まさにそこ、この人を欺く円の中心に、ちょうど蜘蛛がつかまっている瞬間の蜘蛛の巣の生きた地点のような中心に、逆三角形にそっくりの濾過器の部屋がある。そして濾過器のくぼんだ先端は上の男根の先端と反対方向に呼応する」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.65」河出文庫)

「この閉ざされた部屋に、ひとり大祭司だけが井戸の深みの釣瓶(つるべ)のように綱の先につかまって降ろされる。年に一度、真夜中に、彼をそこに降ろすとき、男の性器が並はずれた重要性をもつ奇妙な儀式が執り行われる」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.65」河出文庫)

「この三角形の縁には太い手すりによって塞がれた巡回路があった。そしてこの巡回路に面して、外光のほうには出口のない他の部屋がいくつかあるのだが、そこでは、ギリシアあるいはローマのサトゥルヌナリア祭にあたる時期には、むごたらしい殺戮が行われたのだった」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.66」河出文庫)

ここで言及されている「サトゥルヌナリア祭」だが、訳注にこうある。

「古代ローマの盛大な祭り。この期間だけ奴隷と主人が入れ替わる。生贄を捧げる古くからの慣わしがある」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.220」河出文庫)

「奴隷と主人が入れ替わる」、とある。厳粛な祭儀であればあるほどこのような形態が保存されている。というのも、この「置き換え」が「置き換え」であると相対的にはっきりしないケースでは、ただ単なる慣例に過ぎないものとなる。慣例に過ぎないとされてしまえばもうそれだけで、階層秩序に基づいて形成されている国家なり共同体なりは、その存在根拠をどこまでも喪失していくばかりなのであり、従って、この祭儀を失うわけにはいかないし失わせるわけにもいかないとされる。

「こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである」(マルクス「資本論・第一巻・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

アルトーに戻ろう。ドゥルーズは言う。

「アルトーが、思考の侵食について同時に本質的で偶然的な何ごとかとして話すとき、また、根底的な無力でありながら高度の力であることとして話すとき、既に分裂病のどん底から話しているのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273」河出文庫)

にもかかわらず、それゆえに「どん底」に一定の最底辺が層を成していない世界では、当り前のことだが、最上級も存在し得ないばかりか、存在しているのか存在していないのかすらさっぱりわからなくなってくるのだ。


自由律俳句──二〇一七年六月六日(2)

2017年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

たいして意味のあることを語ろうとしているのではさらさらないつもりだ。むしろ、ありふれた状況のようであって、その実そうでない歴史について、幾つかの箇所を引用しておきたいと思っているに過ぎない。

「エメサで行われていたような太陽信仰を決定づけるこれらの観念は、ひとつの原理の宇宙的悪意にかかわるものであり、民衆が周期的に犯した過ちとは、その原理がもつ暗黒の部分を崇めることによって、事物のなかにある忌まわしい出口をその原理に与えたことであった」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.63」河出文庫)

「腹が二つの腿のまんなかに楔(くさび)のように入り込むとき、腿が形づくる逆三角形は、暗いエレボスの円錐を再現しているが、その不吉な空間のなかに、月の月経をむさぼる者たちにその点で手を貸す太陽の陽物像の崇拝者たちは、自分たちの興奮を導き入れるのだ」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.63」河出文庫)

「それはしたがって交接ではなく、死であり、どうしようもない光のなかに、神の一部分の失墜のなかにある死であって、これらすべての秘儀伝授の宗教はその無能な姿を、無能であると同時に悪意ある姿を明らかにしているが、ちょうど卑俗な実現の領域において己れの至上権を示すために、自分自身の一部分が鉛の重さをもって離反していくのを見ている黄金のようなものである。そしてこのことすべては、それでも一神教的である宗教のおぞましい性格をあらわにしていて、神自身、人がそれをつくるものにしかならないことを証明しているのだ」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.63~64」河出文庫)

「ヘリオガバルスには早くから統一の感覚があったが、それはあらゆる神話とあらゆる名前の基礎となる。エラガバルスと名乗ろうという決意、それに自分の家族と自分の名を忘れさせ、それらを覆い隠す神と同化しようとする執念は、彼の魔術的一神教の最初の証しであり、それは言葉のみならず行動に属している」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.68」河出文庫)

「続いて彼はこの一神教を事業のなかに導入する。そしてこの一神教、諸事物の気まぐれと多様性の邪魔をするすべてのもののこの統一を、私はアナーキーと呼ぶのである」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.68」河出文庫)

「諸事物の深い統一の感覚をもつこと、それはアナーキーの感覚をもつことである──そして諸事物を統一へと連れ戻すことによってそれらを還元するためになされる努力の感覚をもつことである。統一の感覚をもつ者は、諸事物の多様性の感覚を、諸事物を還元しそれらを破壊するために通らねばならない諸様相のあの塵の感覚をもっている」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.69」河出文庫)

「そしてヘリオガバルスは、王として、人間の多様性を還元し、しかも統一の感情へといたるまで、血や、残酷さや、戦争によってその多様性を取り戻すために、あり得べき最良の位置にいるのだ」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.69」河出文庫)

「何ものも機能としてしか実在しないし、すべての機能はただひとつの機能に帰着する──皮膚を黄色くする肝臓、梅毒になる脳、糞便を押し出す腸、火花を散らし、火花の位置を変える視線は、もし私が息を引きとるなら、私にとって、生きていることへの悔恨と、それにけりをつけてしまいたいという私の欲望に帰着するのだ」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.95」河出文庫)

「ヘリオガバルスの残酷さには奇妙なリズムが介在している。秘儀を授けられたこの人物はすべてをノウハウをもって、すべてを二重に行う。つまりすべてを二つの面で行うのである。彼の身振りのひとつひとつが両刃の剣である。《秩序/無秩序》。《統一/アナーキー》。《詩/不協和》。《リズム/不調和》。《偉大/幼児性》。《寛大/残酷》」(アルトー「ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト・P.193~194」河出文庫)

ちなみに、そして、いつもの調子で、ドゥルーズ&ガタリはこう言っている。

「アナーキーと統一性とは同じことなのだ。それは一からなる統一性ではなく、多についてのみ言える奇妙な統一性である。これこそが、二つの書物でアルトーが明らかにしたことだ。融合的多様体、無限ゼロとしての融合性、存立平面、神々を内部に存在させることのない物質。力、本質、実体、要素、減衰、生産としての原理。産み出された強度、振動、呼吸、<数>としての存在のあり方。または様相。われわれが器官に、つまり『皮膚を黄色くする肝臓、梅毒を病む脳、汚物を排出する腸』にしがみついているなら、われわれが有機体の中に、あるいは、さまざまな流れをせきとめ、この世界にわれわれを縛りつける地層の中に閉じこもったままでいるなら、<戴冠せるアナーキー>の世界にたどりつくことは難しい」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.324~325」河出文庫)