日本国内の言論事情について。ここ数年の間で急速に言論の自由が脅かされる事態となってきた。実感している人々は少なくないに違いない。そのあおりで心身ともにさらなる疲労を感じ始めていることは事実だ。とはいえ、だからといっていきなりブログを閉鎖したりすれば、一体いつどこからどのような圧力がかかったのかと疑われるのは必至だ。ともかく、差し当たりブログはスペースだけでも残しておこうと思う。差し迫った事情としては長引く不況を基盤とした経済的問題を上げることができる。日本政府による経済政策の構造的失敗。もはやどのマスコミも本当のことを論じなくなったといっていい。第二に個人的な心身の不調の問題。遷延性(慢性)鬱病は難治性だ。この先いつまで治療が続くのかわからないが、言うまでもなく続けていくほかない。そのための交通費や不意の症状悪化など諸負担は日に日に重くのしかかってくる。日本の厚生労働省に期待できない状態が引き続いていきそうな気配が濃厚なためもあり、気持ちの準備だけでもしておかないわけにはいかないだろう。それにしても頼りない政府だ。頼りないにもかかわらず一般大衆に対する重圧だけは一人前。情けないと思うばかりだ。しかし、ほんの十年ほど前までの文学には、今よりもっとずっと怜悧な翳りや妖艶さやユーモアがあったわけだが。
「なぜ露出した腸が凄惨(せいさん)なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然(しょうぜん)として、目を覆ったりしなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内蔵が醜いのだろう。──それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか」(三島由紀夫「金閣寺・P.62~63」新潮文庫)
「『踏め。踏むんだ』抵抗しがたく、私はゴム長靴の足をあげた。米兵が私の肩を叩(たた)いた。私の足は落ちて、春泥(しゅんでい)のように柔らかいものを踏んだ。それは女の腹だった。女は目をつぶって呻(うめ)いていた。『もっと踏むんだ。もっとだ』私は踏んだ。最初に踏んだときの異和感は、二度目には迸(ほとばし)る喜びに変わっていた」(三島由紀夫「金閣寺・P.83」新潮文庫)
「もし私が女を踏まなかったら、外人兵は拳銃(けんじゅう)をとり出して、私の生命をおびやかしたかもしれない。占領軍に反抗することはできない。私はすべてを強いられてやったのである。しかし私のゴム長の靴裏に感じられた女の腹、その媚(こ)びるような弾力、その呻(うめ)き、その押しつぶされた肉の花ひらく感じ、或る感覚のよろめき、そのとき女の中から私の中へ貫ぬいて来た陰微な稲妻(いなずま)のようなもの、──そういうものまで、私が強いられて味わったということはできない。私は今も、その甘美な一瞬を忘れていない」(三島由紀夫「金閣寺・P.91」新潮文庫)
「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
「わたしは警察を尊敬していた。それは殺すという行為をなしうるのだ。距離をへだてて、代理人を使ってではなく、自らの手をもって、その殺人は、たとえ命令されたものであるにしろ、あくまで独自の、個人の意志にかかわるものであり、その決意と共に殺人者としての責任を含んでいるのである。警察官は人を殺す行為を習わされる。わたしはそれら、殺人という最も至難な行為をするための、不吉な、しかし微笑する機械を愛するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.285」新潮文庫)
「わたしの恋男(こいびと)の一人一人は一編の暗黒小説を現出させるのだ。したがって、わたしが仄(ほの)暗い主人公たちによって引入れられる、危険に満ちた夜陰的冒険は、時によって非常に長い共棲(きょうせい)の、性愛的儀典の丹精をこめた創造であるのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.289」新潮文庫)
「わたしはベルナールに訊(き)いてみた、『もしおれを逮捕しろという命令を受けたら、あんたおれを捕(つか)まえる?』彼は六秒より長くは困った様子を見せなかった。片方の眉(まゆ)をしかめながら彼はこう答えた。『そうしたらおれは自分で直接手を下さないですむようにするよ。誰か仲間に頼んでやってもらうよ』このひどい卑劣さは、わたしを激昂(げっこう)させるよりはむしろわたしの愛をいっそう深くするものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.290」新潮文庫)
「母売りてかへりみちなる少年が溜息橋(ためいきばし)で月を吐きをり」(寺山修司「テーブルの上の荒野」・「寺山修司青春歌集・P.107」角川文庫)
「死児埋めしままの田地を買ひて行く土地買人に子無し」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.124」角川文庫)
「ちか頃、縊りの病といふあり。細紐と見たれば縊りたきこころ、おさへがたきものなり。水仙の花あれば木にそを縊り、花嫁人形あれば、そを縊る。その患者ゆくところ、縊られざるものはなし。みな、患者のふかきふかき情のあらはれゆゑ、ひとかれを詩人と呼ぶこともあり。詩人、ことごとく縊りては時の試練をまぬがれむとするらしも、その縊られし木は異形のさまにて黒く立つなり。ときに縊り花の木、ときに縛り人形の木なるはよけれど、またときには首吊りの木となることもあり。木、人間の生(な)る木のごとく、縊られ実りたるひとを風にそよがすさますさまじ。ここに『時』なしと思へるはただ、独断なり。患者、これをもつて表現といふ。げに、表現といふは、おそろしきものなり」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.147~148」角川文庫)
「暗い新宿どこまで行けば 春が来るやら晴れるやら 青い血を吐くほととぎす 姉は地獄へ嫁にゆく」(寺山修司「ロング・グッドバイ・P.105」講談社文芸文庫)
「女は立ちあがって、電灯をつけた。女は、前のパチンコ屋の寮にいた時、使っていたという鏡台に、体をうつした。乳房を手でおおっていた。そこが男の一番みたいところだと言うようにその手を離し、そして両耳の毛をかきあげる。『どうや、順ちゃん、昔のわたしから想像できんでしょ』彼はしぶしぶあいづちをうった。乳房など見ていなかった。ふっくら肉のついた腰と陰毛と太ももをみていた」(中上健次「蛇淫」・「蛇淫・P.18~19」講談社文芸文庫)
「大阪まで面会に来た肉親の者やその使いの者から、秋幸は三年間のうちに、秋幸の生れた土地の近辺が大きく変ってしまっている事を耳にしていた。新地で『モン』という店を出していたモンは用意周到に地図と写真まで用意して、原子力発電所がその土地を間にはさんだ五十キロ以内の地点に三ヶ所つくられる事が決定したし、それに紀伊半島を一周する高速道路の建設がはじまり、その土地の近辺は地理が一変したと説明した。路地も新地も消えた。市の中央にあった山も土地と隣の土地の間にあった峠もごっそりと取り払った。土地は空前の土建ブーム、土地ブームで、三年前手押し車ひとつ持って他所の組のおこぼれにあずかっていた者がキャデラックを乗り廻し、札ビラを切っている」(中上健次「地の果て至上の時・P.13~14」講談社文芸文庫)
「佐倉が町の人の中に踊り出て来るのは天皇暗殺計画が発覚してこの土地から何人もの人間が検挙され、その指導者とされたのが養子に行った佐倉の弟だったという事が明るみに出て以降だった。その弟は毒取(どくとる)と呼ばれる、町では数少ない医者の一人で、路地の者らは当時銭がないなら窓を三つ叩けと合図をきめて無料で診察を受けていたし、さらに検挙された者のうちに路地を檀家にした住職がいたので、警察は路地をも監視した。路地の者が材木を商う佐倉に理由のない好意を抱いたのは、その天皇暗殺計画で処刑された毒取のせいだった。その事件は様々な歴史的な背景があり、何よりも徳川時代に御三家と呼ばれた紀州藩で末期には江戸の家老として国を動かしていた水野氏の城下新宮で起った事だった。明治には徳川時代に日の目をみなかった新勢力が台頭したが、紀州はこの事件で一挙にたたき落されて闇の中に沈んだ。天皇暗殺計画はデッチ上げだと町の人々は口々に言ったが、天皇を警護する近衛兵を紀州出身からはこれ以降、取らなくなった。他で紀州と言うと非国民あつかいされたと人は言った」(中上健次「地の果て至上の時・P.41」講談社文芸文庫)
「呂方が密かに心を寄せていた女に手を出してしまった馬鹿がいた。そいつは顔をボコボコに腫らし、手足の筋を切られて大久保公園に転がっているところを発見された。おれが見つけたのだ。おれはすぐに、そいつのズボンの股間がドス黒く濡れていることに気づいた。はじめは小便を洩らしたのかと思ったが、血だった。呂方はそいつのペニスを茸(きのこ)のように縦に切り裂いていたのだ」(馳星周「不夜城・P.74」角川文庫)
「問題になった女も、一度だけ見たことがある。髪の毛と眉毛をすっかり剃られた顔を歪(ゆが)めながら、呂方の手下に見張られてたちんぼうをさせられていた。屈んだだけでケツが見えてしまいそうな短いスカートをはかされ、客が交渉をはじめるたびにスカートをめくられ、頭と同じように奇麗に剃りあげられた股間をさらけだしていた。その女は、しばらくして連れこみホテルで殺された。ネイヴィのアメ公の変態にやられたという話だった」(馳星周「不夜城・P.75」角川文庫)
「『ただじゃ殺さないぜ。手足の腱を切って、おまえのおカマを掘ってやる。歯を引き抜いてしゃぶらせてやる。目玉を抉(えぐ)って、そこにおれのをぶちこんでやる』」(馳星周「不夜城・P.80」角川文庫)
言葉に生気があった頃の文章を幾つか上げた。他にも思い出深い文章は色々ある。思い出すことがもしあれば、その都度上げて行きたいと思っている。しかし読者にそのような意味が届くだろうか。このような思いは届くだろうか。日本語で堂々と誤りを犯しておいて何ら恥というものを知らない日本政府のもとで。加えておこう。日本では古来言葉の主催者は天皇であるとされてきた。従って言葉の仕組みを政治的に踏みにじりながら使用していてもさっぱり理解できていない日本政府は、その脳天から爪先まで天皇の主催による言葉の世界を貶め恥ずかしめていることは明白だろうに。いずれにしてもしばらく休養を取りたいと思う。
「なぜ露出した腸が凄惨(せいさん)なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然(しょうぜん)として、目を覆ったりしなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内蔵が醜いのだろう。──それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか」(三島由紀夫「金閣寺・P.62~63」新潮文庫)
「『踏め。踏むんだ』抵抗しがたく、私はゴム長靴の足をあげた。米兵が私の肩を叩(たた)いた。私の足は落ちて、春泥(しゅんでい)のように柔らかいものを踏んだ。それは女の腹だった。女は目をつぶって呻(うめ)いていた。『もっと踏むんだ。もっとだ』私は踏んだ。最初に踏んだときの異和感は、二度目には迸(ほとばし)る喜びに変わっていた」(三島由紀夫「金閣寺・P.83」新潮文庫)
「もし私が女を踏まなかったら、外人兵は拳銃(けんじゅう)をとり出して、私の生命をおびやかしたかもしれない。占領軍に反抗することはできない。私はすべてを強いられてやったのである。しかし私のゴム長の靴裏に感じられた女の腹、その媚(こ)びるような弾力、その呻(うめ)き、その押しつぶされた肉の花ひらく感じ、或る感覚のよろめき、そのとき女の中から私の中へ貫ぬいて来た陰微な稲妻(いなずま)のようなもの、──そういうものまで、私が強いられて味わったということはできない。私は今も、その甘美な一瞬を忘れていない」(三島由紀夫「金閣寺・P.91」新潮文庫)
「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
「わたしは警察を尊敬していた。それは殺すという行為をなしうるのだ。距離をへだてて、代理人を使ってではなく、自らの手をもって、その殺人は、たとえ命令されたものであるにしろ、あくまで独自の、個人の意志にかかわるものであり、その決意と共に殺人者としての責任を含んでいるのである。警察官は人を殺す行為を習わされる。わたしはそれら、殺人という最も至難な行為をするための、不吉な、しかし微笑する機械を愛するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.285」新潮文庫)
「わたしの恋男(こいびと)の一人一人は一編の暗黒小説を現出させるのだ。したがって、わたしが仄(ほの)暗い主人公たちによって引入れられる、危険に満ちた夜陰的冒険は、時によって非常に長い共棲(きょうせい)の、性愛的儀典の丹精をこめた創造であるのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.289」新潮文庫)
「わたしはベルナールに訊(き)いてみた、『もしおれを逮捕しろという命令を受けたら、あんたおれを捕(つか)まえる?』彼は六秒より長くは困った様子を見せなかった。片方の眉(まゆ)をしかめながら彼はこう答えた。『そうしたらおれは自分で直接手を下さないですむようにするよ。誰か仲間に頼んでやってもらうよ』このひどい卑劣さは、わたしを激昂(げっこう)させるよりはむしろわたしの愛をいっそう深くするものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.290」新潮文庫)
「母売りてかへりみちなる少年が溜息橋(ためいきばし)で月を吐きをり」(寺山修司「テーブルの上の荒野」・「寺山修司青春歌集・P.107」角川文庫)
「死児埋めしままの田地を買ひて行く土地買人に子無し」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.124」角川文庫)
「ちか頃、縊りの病といふあり。細紐と見たれば縊りたきこころ、おさへがたきものなり。水仙の花あれば木にそを縊り、花嫁人形あれば、そを縊る。その患者ゆくところ、縊られざるものはなし。みな、患者のふかきふかき情のあらはれゆゑ、ひとかれを詩人と呼ぶこともあり。詩人、ことごとく縊りては時の試練をまぬがれむとするらしも、その縊られし木は異形のさまにて黒く立つなり。ときに縊り花の木、ときに縛り人形の木なるはよけれど、またときには首吊りの木となることもあり。木、人間の生(な)る木のごとく、縊られ実りたるひとを風にそよがすさますさまじ。ここに『時』なしと思へるはただ、独断なり。患者、これをもつて表現といふ。げに、表現といふは、おそろしきものなり」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.147~148」角川文庫)
「暗い新宿どこまで行けば 春が来るやら晴れるやら 青い血を吐くほととぎす 姉は地獄へ嫁にゆく」(寺山修司「ロング・グッドバイ・P.105」講談社文芸文庫)
「女は立ちあがって、電灯をつけた。女は、前のパチンコ屋の寮にいた時、使っていたという鏡台に、体をうつした。乳房を手でおおっていた。そこが男の一番みたいところだと言うようにその手を離し、そして両耳の毛をかきあげる。『どうや、順ちゃん、昔のわたしから想像できんでしょ』彼はしぶしぶあいづちをうった。乳房など見ていなかった。ふっくら肉のついた腰と陰毛と太ももをみていた」(中上健次「蛇淫」・「蛇淫・P.18~19」講談社文芸文庫)
「大阪まで面会に来た肉親の者やその使いの者から、秋幸は三年間のうちに、秋幸の生れた土地の近辺が大きく変ってしまっている事を耳にしていた。新地で『モン』という店を出していたモンは用意周到に地図と写真まで用意して、原子力発電所がその土地を間にはさんだ五十キロ以内の地点に三ヶ所つくられる事が決定したし、それに紀伊半島を一周する高速道路の建設がはじまり、その土地の近辺は地理が一変したと説明した。路地も新地も消えた。市の中央にあった山も土地と隣の土地の間にあった峠もごっそりと取り払った。土地は空前の土建ブーム、土地ブームで、三年前手押し車ひとつ持って他所の組のおこぼれにあずかっていた者がキャデラックを乗り廻し、札ビラを切っている」(中上健次「地の果て至上の時・P.13~14」講談社文芸文庫)
「佐倉が町の人の中に踊り出て来るのは天皇暗殺計画が発覚してこの土地から何人もの人間が検挙され、その指導者とされたのが養子に行った佐倉の弟だったという事が明るみに出て以降だった。その弟は毒取(どくとる)と呼ばれる、町では数少ない医者の一人で、路地の者らは当時銭がないなら窓を三つ叩けと合図をきめて無料で診察を受けていたし、さらに検挙された者のうちに路地を檀家にした住職がいたので、警察は路地をも監視した。路地の者が材木を商う佐倉に理由のない好意を抱いたのは、その天皇暗殺計画で処刑された毒取のせいだった。その事件は様々な歴史的な背景があり、何よりも徳川時代に御三家と呼ばれた紀州藩で末期には江戸の家老として国を動かしていた水野氏の城下新宮で起った事だった。明治には徳川時代に日の目をみなかった新勢力が台頭したが、紀州はこの事件で一挙にたたき落されて闇の中に沈んだ。天皇暗殺計画はデッチ上げだと町の人々は口々に言ったが、天皇を警護する近衛兵を紀州出身からはこれ以降、取らなくなった。他で紀州と言うと非国民あつかいされたと人は言った」(中上健次「地の果て至上の時・P.41」講談社文芸文庫)
「呂方が密かに心を寄せていた女に手を出してしまった馬鹿がいた。そいつは顔をボコボコに腫らし、手足の筋を切られて大久保公園に転がっているところを発見された。おれが見つけたのだ。おれはすぐに、そいつのズボンの股間がドス黒く濡れていることに気づいた。はじめは小便を洩らしたのかと思ったが、血だった。呂方はそいつのペニスを茸(きのこ)のように縦に切り裂いていたのだ」(馳星周「不夜城・P.74」角川文庫)
「問題になった女も、一度だけ見たことがある。髪の毛と眉毛をすっかり剃られた顔を歪(ゆが)めながら、呂方の手下に見張られてたちんぼうをさせられていた。屈んだだけでケツが見えてしまいそうな短いスカートをはかされ、客が交渉をはじめるたびにスカートをめくられ、頭と同じように奇麗に剃りあげられた股間をさらけだしていた。その女は、しばらくして連れこみホテルで殺された。ネイヴィのアメ公の変態にやられたという話だった」(馳星周「不夜城・P.75」角川文庫)
「『ただじゃ殺さないぜ。手足の腱を切って、おまえのおカマを掘ってやる。歯を引き抜いてしゃぶらせてやる。目玉を抉(えぐ)って、そこにおれのをぶちこんでやる』」(馳星周「不夜城・P.80」角川文庫)
言葉に生気があった頃の文章を幾つか上げた。他にも思い出深い文章は色々ある。思い出すことがもしあれば、その都度上げて行きたいと思っている。しかし読者にそのような意味が届くだろうか。このような思いは届くだろうか。日本語で堂々と誤りを犯しておいて何ら恥というものを知らない日本政府のもとで。加えておこう。日本では古来言葉の主催者は天皇であるとされてきた。従って言葉の仕組みを政治的に踏みにじりながら使用していてもさっぱり理解できていない日本政府は、その脳天から爪先まで天皇の主催による言葉の世界を貶め恥ずかしめていることは明白だろうに。いずれにしてもしばらく休養を取りたいと思う。