白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・日本中世芸能の胎動

2021年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
康安一年(一三六一年)、将軍足利義詮は七夕(たなばた)の日に細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)の館で七十番歌合の会に参加する約束だった。清氏はそれに相応しい宴遊の準備を整えていた。諸々の珍膳を用意し、歌詠みに秀でた風流人らも呼び集め、各所に案内も出していた。ところがその同じ七夕の日、佐々木道誉が足利義詮を自分の宿所に招いて「七所の粧(かざ)り」で盛大な祝祭を催した。「七所(しちしょ)」は七夕の「七」に掛けたもの。会所や書院などそれぞれ七箇所の建物を飾り立てた。将軍足利義詮は道誉の誘いに乗ってしまい、以前から細川清氏と約束していた歌合の会への出席は、またの機会にでも出来ると考えて反故にしてしまう。準備万端整えて待っていた清氏は無視された格好になり、ますます道誉に憎悪を抱く。

「今年七夕(たなばた)の夜は、新将軍、相模守が館(たち)へおはして、七十番の歌合(うたあわせ)をして遊ぶべき由(よし)、かねて仰せられければ、相模守、誠(まこと)に興(きょう)じ思(おも)ひて、様々(さまざま)の珍膳(ちんぜん)をこしらへ、歌読みども数十人誘引(ゆういん)して、すでに案内を申しける処(ところ)、道誉また、この日、わが宿所を七所(しちしょ)飾りて、七番菜(しちばんさい)を調(ととの)へ、七百種の課物(かけもの)を積んで、七十服の本非(ほんぴ)の茶を飲むべき由申して、将軍を招請(しょうしょう)し奉りける間、歌の会は、よしや後日(ごじつ)にもありなん、七所の粧(かざ)りは珍しき遊びなるべしとて、兼日(けんじつ)の約束を引き違へ、道誉が方(かた)へおはしければ、相模守(さがみのかみ)が用意調子それて、数寄(すき)の人も空(むな)しく帰りにけり」(「太平記5・第三十六・九・P.437~438」岩波文庫 二〇一六年)

ここでもメインは茶会。「七番菜(しちばんさい)」は闘茶で七番に渡って出される御菜(おかず)の膳。「課物(かけもの)」は「賭物」で、闘茶の際の賭博の景品。それが「七百種」積まれたとある。「本非(ほんぴ)」は栂尾(とがのお)・宇治(うじ)を「本場の茶」、それ以外の産地のものを「非茶」として、両者を言い当てる賭け。それに用意された茶が七十回分。飾り付けは次のように「喫茶往来」で紹介されているタイプのものに七夕ならではの趣向を織り込んだものだったと思われる。

「爰(ここ)に奇殿有り。桟敷(さじき)二階に崎(そばだ)って、眺望は四方に排(ひら)く。是れ則ち喫茶の亭、対月の砌(みぎり=場所)なり。左は、思恭の彩色の釈迦(しゃか)、霊山説化の粧(よそおい)巍々(ぎぎ)たり。右は、牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)の観音、普陀(ふだ)示現(じげん)の姿蕩々(とうとう)たり。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)脇絵を為し、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)面餝(めんぼう=おもてかざり)を為す。前は重陽(陰暦九月九日の節句、この場合は菊の異称)、後は対月(明月に向かう)。言わざるは丹果の脣(くちびる=仏の顔かたちの一つをいう)吻々たり。瞬(またたき)無し青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々たり。卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)を置く。机には錦繍を敷き、鍮石(ちゅうじゃく=しんちゅう)の香匙(こうし=香道具の一つ、こうさじ)・火箸(こじ)を立て、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、呉山の千葉(沢山の木の葉)の粧(よそおい)を凝(こら)す。芬郁(ふんいく=香りのよい)たる炉中の香は、海岸の三銖(さんしゅ=かすかな)の煙と誤つ。客位の胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮を敷き、主位の竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)は世を商山の月に遁(のが)れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山に靠(よ)って眠る。白鷺は蓼(たで)花の下に戯(たわむ)れ、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上に遊ぶ。皆日域(日本)の後素(絵画)に非ず。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)。香台は、並(なら)びに(ならんで)衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱。茶壺は各(おのおの)栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋。西廂(せいしょう=西側の座敷)の前には一対の餝棚(かざりだな)を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物(かけもの)を構(かま)う。中に鑵子(かんす=ちゃがま)を立てて湯を練り、廻りに飲物を並べて巾(ふきん)を覆(おお)う」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122~123』東洋文庫 一九七一年)

義詮に裏切られた清氏はさらに、これまで道誉との間で所領を巡る争いがこじれて解消できていないために鬱積した怨念もあった。そしてまた清氏はもともと傲慢な性格だったようで、二人の子の名付け親になったのだが、兄に八幡六郎(はちまんろくろう)、弟に八幡八郎(はちまんはちろう)と名付けた。ところがそれは将軍義詮からすれば、かつて源頼義が八幡神・賀茂明神・新羅明神にあやかって三人の子に八幡太郎(はちまんたろう)、賀茂次郎(かもじろう)、新羅三郎(しんらさぶろう)と名付けて天下取りを狙った歴史を思い起こさせないではおれない。義詮は清氏を警戒して清氏の言動を不愉快に思うようになった。清氏がそんな名付けを本当にやるとは思ってもいなかった道誉から見ればこれは面白いことになったと心の中で独り笑っていた。清氏は抑えきれない怒りを抱えてこれまた南朝方へ寝返ってしまう。しかしそんな道誉の婆娑羅(ばさら)ぶりを見聞きしていた幼い世阿弥は、後々の芸能発展の祖として道誉の名を記録に残すことになる。

「一忠(いつちゆう)<でんがく>・清次(きよつぐ=観阿)・犬王(いぬわう=道阿)・亀阿(きあ)、是(これ)、当道(たうだう)の先祖といふべし。彼(かの)一忠を、観阿は、わが風體(ふうてい)の師也と申されける也。道阿(だうあ)又一忠が弟子(でし)也。一忠をば世子(ぜし)は見ず。京極(きやうごく)の道與(だうよ)、海老名(ゑびな)の南阿彌陀佛(なあみだぶつ)など物語(ものがたり)せられしにて推量(すいりやう)す」(「申楽談儀」『日本古典文学大系・歌論集/能楽論集・P.486」岩波書店 一九六一年)

中世芸能は戦乱の中から戦乱とともに出現したわけだが、その形成過程で思想的支柱として禅の哲学からも浄土信仰からも取り入れる価値のあるものはたっぷり吸収している。道元「正法眼蔵」に次の箇所がある。

「しるべし、この『東山水上行』は仏祖の骨髄なり。諸水は東山の脚下(きやくか)を現成(げんじやう)せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂寧(ちんにん)は諸山なり、向上(かうじやう)直下(ちよくか)の行歩(ぎやうぶ)、ともに水上なり。諸山(しょせん)の脚尖(きやくせん)よく諸水を行歩し、諸水を趯出(ちつしゆつ)せしむるゆゑに、運歩七縦(じゆう)八横(わう)なり、修証即不無(しゆしようそくふむ)なり」(「正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.191」岩波文庫 一九九〇年)

世阿弥はどこまで行っても芸能者であり決して僧侶になろうとしたわけではない。それでもなお禅でいう「山水一如」の思想は能を通して世阿弥によって出現したといえるのである。石井恭二による現代語訳は次のとおり。

「知るべきである、この『東山水上行』は、覚者の覚りの真髄を語るものである。諸々の水は東山の足元に現成していると云うのだ。そうであるから、諸々の山は雲に乗り、天を歩むのだ。諸々の水の真骨頂を現わすのは諸々の山である。山水とは山と水ではない、山水一如である。上に向いて歩むのも直下に向いて歩むのも、ともに水上を歩むのだ。諸々の山の脚先は諸々の水を歩み、そこから諸々の水を踊出せしめることによって、その運歩は自由自在となり、礙(さまた)げるものはない」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.226」河出文庫 二〇〇四年)

また、詩人・蘇軾(そしょく)が渓流の音を聴いて悟りを得たエピソードも興味深い。蘇軾は僧ではないし、悟りを得た後も僧ではなく詩人だった。

「この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、総禅師と無情説法話を参問せしなり。禅師の言下(ごんか)に翻身(ほんしん)の儀いまだしといへども、渓声のきこゆるところは、逆水(ぎやくすい)の波浪(はらう)たかく天をうつものなり。しかあれば、いま渓声の居士をおどろかす、渓声なりとやせん、照覚の流瀉(りうしや)なりとやせん。うたがふらくは照覚の無情説法話、ひびきいまだやまず、ひそかに渓流のよるの声にみだれいる。たれかこれ一升なりと辦肯(はんけん)せん、一海なりと朝宗(てうそう)せん。畢竟(ひつきやう)じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼(みやうがん)あらんか、長舌相(ちやうぜつそう)、清浄身を急著眼(きふぢやげん)せざらん」(「正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.110」岩波文庫 一九九〇年)

重要なのは「たれかこれ一升なりと辦肯(はんけん)せん、一海なりと朝宗(てうそう)せん」であって、現代語訳で「誰がこの谷水の量が一升であるなどと考えるだろうか、一つ海が彼に流れ入ったと考えようか」とあるところ。「渓声山色」において自然とは何かを知るとはどういうことか。今の言葉に変換すれば、近現代資本主義が常に行わずにはいられないあらゆるものの「数値化」の欲望と、自然生態系の全運動とはそもそも相容れないということを知るということになろう。自然生態系の中に溶け込んで生きている限り、必ず生じてくるありとあらゆる「剰余=数値化不可能なもの」として森羅万象は理解されるのである。

「蘇軾が、悟りを得た夜は、そのさきの日に、彼は総禅師に無情ということの法話を聞いていたのである。禅師の言下に直ちに悟り得たのではなかったのだが、渓流の音を聞いて、禅師の言葉は、逆巻く波浪が高く天をうつように彼に理解されたのである。そうであるから、渓流の音は蘇軾をはっとさせた、渓流の音、それとともに禅師の言葉が流れそそいだのであろう。総禅師の無情ということの法話の響きは、いまだ鳴り止まず、渓流の音にまぎれて彼に乱れ入ったのだ。誰がこの谷水の量が一升であるなどと考えるだろうか、一つ海が彼に流れ入ったと考えようか。窮まるところ『渓声山色』の無情は無情の透脱である、有情の透脱である。情そのものである。蘇軾が情の透脱を得たか、蘇軾のうちなる山水が情を透脱したか。誰か明眼の人があれば、この偈の長舌相、清浄身の語句を直下に了解しないことがあろう」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.154~155」河出文庫 二〇〇四年)

道元の思想は森羅万象に溶け込んでいながら同時に自然を対象化するという離れ業を演じている。透徹した目を持っている。見るための目ではなく観ずるという意味で視るのである。それはほとんど死に直面しつつなお眼前の事態に向き合うことができる目である。例えば、一休が大徳寺にいた時、修行僧の一人が自殺した。冤罪に問われそうになった一休は山中に逃れて自殺した。未遂に終わったが。

「文安丁卯(ぶんあんていぼう)の秋、大徳精舎に一僧有り、故(ゆえ)無(な)うして自殺す。事を好むの徒、遂に之(これ)を官に譖(しん)して、其の余殃(よおう)に繋(かか)って囚禁(しゅうきん)に居する者、七、五輩。吾が門の大乱と為(す)るに足る。時の人、喧(かまびすし)く伝う。予、之を聞いて、即日、迹(あと)を山中に晦(くら)ます。其の意、蓋(けだ)し忍びざるに出ざる耳(のみ)。

(現代語訳)文安丁卯(一四四七年)の秋、大徳寺の伽藍で、ある僧が理由なしに自殺した。ものずきの連中が、すぐに役所に密告した。まきぞえをくって、五、六人の仲間が牢に入れられた。宗門の乱れだとばかりに、世間がさわぎたてた。ボクはそれをきくと、すぐに山中に身をかくした。そうするよりほか、なかったのである」(一休「狂雲集・九四」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.57』中央公論社 一九八七年)

そういう人は或る種独特の透徹した目を獲得するに至ることがある。芥川龍之介は死んでしまったが、死の直前までそのような目を持っていた。有名な言葉として取り上げられてから、何か気の利いたキャッチ・コピーのようになってしまったため、もはや使われなくなっているが、次に見えるように「末期(まつご)の目」と呼ばれる。

「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂(いはゆる)生活力と云ふものは実は動物力の異名(いみやう)に過ぎない。僕も亦(また)人間獣の一匹である。しかし食色(しよくしよく)にも倦(あ)いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きる為に生きてゐる』我々人間の哀れさを感じた。若(も)しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾(むじゆん)を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである」(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」『ザ.龍之介・P.263』第三書館 一九八五年)

「太平記」を見ていると夢窓疎石が天竜寺の庭を作庭したエピソードが出てくる。

「この開山和尚(かいざんおしょう)、天性泉水(せんずい)に好(す)かれたりしかば、水に傍(そ)ひ山に倚(よ)つて、十境(じっきょう)の山川(さんせん)を作られたり。大士応化(だいしおうげ)の普明閣(ふみょうかく)、天心(てんしん)秋を浸(ひた)す曹源池(そうげんち)、金鱗(こんりん)尾を焦がす三級巌(さんきゅうがん)、これに対する龍門亭(りゅうもんてい)、三壺(さんこ)を擎(ささ)ぐる亀頂塔(きちょうとう)、雲半間(くもはんかん)の万松洞(ばんしょうとう)、言(ものいわ)ずして咲(え)みを開ける拈花嶺(ねんげれい)、無声(むしょう)に声を聴く絶唱渓(ぜっしょうけい)、銀漢(ぎんかん)に登る渡月橋(とげつきょう)、塵々和光(じんじんわこう)の霊庇廟(れいひびょう)。石を集めては煙嶂(えんしょう)の色を仮り、樹を栽(う)ゑては風濤(ふうとう)の声を移す」(「太平記4・第二十四巻・二・P.121~122」岩波文庫)

天竜寺の庭は夢窓疎石が何から何まで始めて作ったのではなく、もともと亀山殿のあったところに疎石が手を加えたと考えられる。広々とした平安時代の庭園の跡地に孤独な禅僧が石を持ち込んだ。この時の疎石は極めて微妙な政治的立場の間で板挟みになって苦悩していたため、天竜寺の作庭は疎石にとってまたとない「癒し」となったに違いない。政治的苦悩は次のようなどちらとも取れる言葉になって洩らされている。

「山水を好むは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水に得失なし。得失は人の心にあり」(夢窓国師「夢中問答集・中・P.164」講談社学術文庫 二〇〇〇年)

夢窓疎石の場合、透徹した「末期(まつご)の目」は、ただ単に広々と明るい平安時代初期の庭園ではなく、ごつごつした厳(いか)つい石ばかりで仕立てた上げた枯山水でもなく、社会的に厳しい立場に立たされた禅僧が自分に課せられた苦痛をなぐさめるに十分な価値を持つ作庭に向かっていったのだった。

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