康安一年(一三六一年)の七夕(たなばた)で佐々木道誉は足利義詮を自邸の茶会へ招き、前々から義詮と約束していた歌会を反故にされた細川清氏(きようじ)。道誉と清氏とは幾つかの所領を巡って以前から対立していたことと重なった上に将軍義詮からも疑惑の目を向けられて南朝方へ寝返った。第四次入京を果たした南朝方の武士団は清氏と楠正儀(くすのきまさのり)とが先頭に立った。この時の入京では一度も戦闘が行われていないので幕府方の道誉の宿舎も、道誉の代わりにそのまま別の武士と入れ換わるだけに過ぎない形式的なものだ。
道誉は思う。おそらくこの宿所にはそれなりの大将クラスが入れ換わりに入って来るに違いない。都落ちする側になったからといって乱暴狼藉の限りを尽くしたまま放置して逃げるのではなく、逆に立派に整え置いて見せるのが礼儀だろうと考えた。といっても道誉の場合、他の大名らが頭の中に思い描く「立派」とは、言葉が同じだというばかりであって、その内容はまるで違っている。間口六間の会所(かいしょ)はいつも茶会・連歌会が催される豪華な座敷。それが六部屋。そのすべての内装に「本尊(ほんぞん)=中央に掛ける絵画」とその「両脇に置く脇絵」を掲げ、「花瓶」、「香炉」、「鑵子(かんす=茶釜)」、「建盞(けんさん=天目茶碗)」という茶会仕様に加え、書院には「王羲之(おうぎし)」や「韓愈(かんゆ)」の書を描け、「宿直(とのい)」向けに沈丁花から取れる香料を詰めた枕や貴重な絹織物で仕立てた寝具を用意、離れた所に設置される武士らの詰所には「鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)」と「三棹(みさお=食用の鳥類を並べ架けた三本の棹)」を設え、「三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)」に満々の酒を湛えて準備した。屋敷には「遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)」を留め置いて「誰が来たとしても邸宅に入る者には酒一献を差し上げるように」と申し付けて邸宅を後にした。
「佐渡判官入道道誉(さどのほうがんにゅうどうどうよ)は、都を落ちける時、わが宿所(しゅくしょ)へは、定めてさもとあるある大将ぞ入り替はらんずらん、尋常(じんじょう)に取りしたためて見すべしとて、六間(むま)の会所(かいしょ)六所(ろくしょ)に、大文(だいもん)の畳を敷き並べ、本尊(ほんぞん)、脇絵(わきのえ)、花瓶(かびん)、香炉(こうろ)、鑵子(かんす)、建盞(けんさん)に至るまで、一様(いちよう)に皆置(お)き調(ととの)へて、書院には、羲之(ぎし)が草書(そうしょ)の碣(けつ)、韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしゅう)、眠蔵(めんぞう)には、沈(じん)の枕に緞子(どんす)の宿直物(とのいえもの)、十二間(けん)の遠侍(とおさぶらい)には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)、三棹(みさお)懸け並べ、三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)留(とど)め置(お)きて、『誰(たて)にても、この宿所へ入らんずる人に、一献(いっこん)勧めよ』と、申し置きたる」(「太平記5・第三十六・十六・P.466」岩波文庫 二〇一六年)
「三石(さんごく)」は一石が約百八〇リットルだから合計約五四〇リットル。一升瓶にして三百本ばかりになる。「大筒(おおづつ)」は太い竹筒。また「遁世者(とんせいしゃ)」は同朋衆(どうぼうしゅう)のこと。時宗の徒や能の道阿弥・世阿弥のように諸芸諸道を生業として生きる芸能民。天竜寺の作庭に当たったのは夢窓疎石だが、実際に石を運び草木を配置する作業に当たった山水もその道専門の芸能民。また「竹筒」=「竹細工」はそもそもそういった職業的芸能民が手がける代表的なもの。蓑・笠・魞(えり)などもそうだ。
「巫女(みこ)・傀儡(くぐつ)・白拍子(しらびょうし)」らも「公界(くがい)」が「苦界(くがい)」化するまでは堂々と殿上人の邸宅で歌舞音曲を披露している。「梁塵秘抄」から。
「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・二六・P.26」新潮社 一九七九年)
「嵯峨野(さがの)の饗宴(きょうえん)は 鵜舟(うぶね) 筏師(いかだし) 流れ紅葉(もみぢ) 山陰(やまかげ)ひびかす箏(しょう)の琴(こと) 浄土の遊びに異(こと)ならず」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇九・P.131」新潮社 一九七九年)
「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社 一九七九年)
また、書院に王羲之や韓愈の掛け物を掛けておくのは、利休の茶道が成立する遥かに以前に道誉が茶会に取り入れていた趣向。その精神は利休が仮託した茶書「南方録」に受け継がれた。こうある。
「掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主共に茶の湯三昧(ざんまい)の一心得道の物(心得をえるに大切な物)也」(「南方録」『日本の茶書1・P.389』東洋文庫 一九七一年)
とはいえ細川清氏にとって道誉は許し難い敵。だがその宿所に入った楠正儀(くすのきまさのり)は道誉がしつらえておいた風流なしつらえに痛く感銘を受ける。その後、南朝方が引き上げて再び足利方が入京してくることになった時、屋敷に戻ってくる道誉の心づかいを忘れず、正儀は以前にも増して「六所の飾り」に気を配り「秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)」を添えて交代した。
「道誉は、相模守(さがみのかみ)が当敵(とうてき)なれば、この宿所をば、こぼち焼くべしと憤(いきどお)りけれども、楠、この情けを感じて、その儀を止めしかば、泉水(せんずい)の木の一本をも損ぜず、畳の一帖(じょう)も取り散らさで、その後(のち)、幾程(いくほど)なくして楠また落ちし時も、六所の飾り、遠侍の酒肴(さけさかな)、先のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)置いて、郎等(ろうどう)二人留め置き、判官入道道誉に交替してぞ帰りける」(「太平記5・第三十六・十六・P.466~467」岩波文庫 二〇一六年)
京の街路では道誉の振る舞いについて「情け深く風情(ふぜい)あり」とする人々がいる一方、「古博奕打(ふるばくちう)ち〔道誉〕に出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られた」と正儀を嘲笑する人々もいた。
「道誉がこの振る舞ひ、情け深く風情(ふぜい)ありと、感ずる人もあり、例の古博奕打(ふるばくちう)ちに出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりける」(「太平記5・第三十六・十六・P.467」岩波文庫 二〇一六年)
風流と感じる人々もいるしただ単に道誉の老練な政治手腕にまんまとやられたと捉える人々もいる。どちらも幾らかの事実を物語ってはいるだろう。しかし風流とだけ言ってしまえば朦朧としてわかりにくくなるのだが、この時に楠正儀の心を打った感覚を「幽玄」という言葉へ置き換えるとまた違って思えてくるはず。正儀は後に足利義満の臣下に取り立てられるわけだが、同時に義満の庇護のもとで一世風靡した世阿弥は能楽論「花鏡」の中で「幽玄」という言葉こそ使っていない箇所ではあるものの、「無心の能」、「無文の能」、「さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也」と述べている。
「心(しん)より出来(いでく)る能とは、無上の上手の申楽(さるがく)に、物数(ものかず)の後、二曲も物まねも儀理(ぎり)もさしてなき能の、さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也。ーーー是は只(ただ)、無上の上手(じやうず)の得たる瑞風(ずゐふう)かと覚(おぼ)えたり。これを、心(しん)より出来(いでく)る能とも云(いひ)、無心の能とも、又は無文の能とも申(まうす)也」(日本古典文学大系「花鏡」『歌論集/能楽論集・P.431~432」岩波書店 一六六一年)
中世になると一方に「花の歌人」・西行が出てきた。しかし西行人気の影に「月の歌人・明恵」がいたことを忘れてはならない。元仁元年(一二二四年)の冬の歌。幼くして両親を亡くした明恵は孤独な夜の座禅の合間に月の光が自分に寄り添ってくれていると感じる。明恵は山中に響く狼の咆哮にすら怖さを感じなくなる。さらに冬の月に向かい、風が身にしみないか、雪は冷たくないかと思いやる。
「元仁元年十二月十二日ノヨル、天クモリ月クラキニ花宮殿ニ入(いり)テ坐禅ス。ヤウヤウ中夜ニイタリテ出観ノノチ、峰ノ房ヲイデテ下房ヘカヘル時、月雲(くも)マヨリイデテ光雪(ゆき)ニカカヤク。狼ノ谷ニホユルモ、月ヲトモトシテイトオソロシカラズ。下房ニ入(いり)テノチ又タチイデタレバ、月又クモリニケリ。カクシツツ後夜ノカネノオトキコユレバ、又峰ノ房ヘノボルニ、月モ又雲ヨリイデテ道(みち)ヲオクル。峰ニイタリテ禅堂ニ入ラムトスル時、月又雲ヲオヒキテ向(むかひ)ノ峰ニカクレナムトスルヨソオヒ、人シレズ月ノ我ニトモナフカト見(み)ユレバ、二首、
雲ヲイデテ我ニトモナフ冬ノ月風ヤ身(み)ニシム雪ヤツメタキ」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇〇」『中世和歌集・鎌倉編・P.246』岩波書店 一九九一年)
また、座禅の合間にそろそろ夜明けを迎えようとしていた時、明恵自身はもう峰の僧房に入るから月もまた山の端に入ってしまうがいい。こうした毎夜、わたしとそなた(月)とは友として生きていこうと月に親しむのである。
「山ノハニカタブクヲ見(み)オキテ、ミネノ禅堂ニイタル時、
山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友(とも)トセム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇一」『中世和歌集・鎌倉編・P.246~247』岩波書店 一九九一年)
さらに座禅の合間に外へ出てみると、暁方の月がみえる。その皓々たる光は既に月の光が明恵を照らし出しているのではなく逆に明恵が月の光となって月を照らし上げているのではないか、或いは明恵と月の光とはもう渾然一体となって溶け合っているに違いないという一点の曇りもない心境に没入して平穏を得ている。
「コノアカツキ禅堂ノ中ニイル。禅観ノヒマニマナコヲヒラケバ、アリアケノ月ノヒカリ、マドノマヘニサシタリ。ワガ身(み)ハクラキトコロニテ見(み)ヤリタレバ、スメルココロ月ノヒカリニマギルルココチスレバ、
クマモナクスメルココロノカカヤケバワガ光(ひかり)トヤ月オモフラム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇八」『中世和歌集・鎌倉編・P.249~250』岩波書店 一九九一年)
道誉と楠正儀とは金蘭の織りなす華麗な芸能の世界と数えきれない屍体で埋まっている洛中で、おそらく何か同じものを見たのである。
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道誉は思う。おそらくこの宿所にはそれなりの大将クラスが入れ換わりに入って来るに違いない。都落ちする側になったからといって乱暴狼藉の限りを尽くしたまま放置して逃げるのではなく、逆に立派に整え置いて見せるのが礼儀だろうと考えた。といっても道誉の場合、他の大名らが頭の中に思い描く「立派」とは、言葉が同じだというばかりであって、その内容はまるで違っている。間口六間の会所(かいしょ)はいつも茶会・連歌会が催される豪華な座敷。それが六部屋。そのすべての内装に「本尊(ほんぞん)=中央に掛ける絵画」とその「両脇に置く脇絵」を掲げ、「花瓶」、「香炉」、「鑵子(かんす=茶釜)」、「建盞(けんさん=天目茶碗)」という茶会仕様に加え、書院には「王羲之(おうぎし)」や「韓愈(かんゆ)」の書を描け、「宿直(とのい)」向けに沈丁花から取れる香料を詰めた枕や貴重な絹織物で仕立てた寝具を用意、離れた所に設置される武士らの詰所には「鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)」と「三棹(みさお=食用の鳥類を並べ架けた三本の棹)」を設え、「三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)」に満々の酒を湛えて準備した。屋敷には「遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)」を留め置いて「誰が来たとしても邸宅に入る者には酒一献を差し上げるように」と申し付けて邸宅を後にした。
「佐渡判官入道道誉(さどのほうがんにゅうどうどうよ)は、都を落ちける時、わが宿所(しゅくしょ)へは、定めてさもとあるある大将ぞ入り替はらんずらん、尋常(じんじょう)に取りしたためて見すべしとて、六間(むま)の会所(かいしょ)六所(ろくしょ)に、大文(だいもん)の畳を敷き並べ、本尊(ほんぞん)、脇絵(わきのえ)、花瓶(かびん)、香炉(こうろ)、鑵子(かんす)、建盞(けんさん)に至るまで、一様(いちよう)に皆置(お)き調(ととの)へて、書院には、羲之(ぎし)が草書(そうしょ)の碣(けつ)、韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしゅう)、眠蔵(めんぞう)には、沈(じん)の枕に緞子(どんす)の宿直物(とのいえもの)、十二間(けん)の遠侍(とおさぶらい)には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)、三棹(みさお)懸け並べ、三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)留(とど)め置(お)きて、『誰(たて)にても、この宿所へ入らんずる人に、一献(いっこん)勧めよ』と、申し置きたる」(「太平記5・第三十六・十六・P.466」岩波文庫 二〇一六年)
「三石(さんごく)」は一石が約百八〇リットルだから合計約五四〇リットル。一升瓶にして三百本ばかりになる。「大筒(おおづつ)」は太い竹筒。また「遁世者(とんせいしゃ)」は同朋衆(どうぼうしゅう)のこと。時宗の徒や能の道阿弥・世阿弥のように諸芸諸道を生業として生きる芸能民。天竜寺の作庭に当たったのは夢窓疎石だが、実際に石を運び草木を配置する作業に当たった山水もその道専門の芸能民。また「竹筒」=「竹細工」はそもそもそういった職業的芸能民が手がける代表的なもの。蓑・笠・魞(えり)などもそうだ。
「巫女(みこ)・傀儡(くぐつ)・白拍子(しらびょうし)」らも「公界(くがい)」が「苦界(くがい)」化するまでは堂々と殿上人の邸宅で歌舞音曲を披露している。「梁塵秘抄」から。
「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・二六・P.26」新潮社 一九七九年)
「嵯峨野(さがの)の饗宴(きょうえん)は 鵜舟(うぶね) 筏師(いかだし) 流れ紅葉(もみぢ) 山陰(やまかげ)ひびかす箏(しょう)の琴(こと) 浄土の遊びに異(こと)ならず」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇九・P.131」新潮社 一九七九年)
「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社 一九七九年)
また、書院に王羲之や韓愈の掛け物を掛けておくのは、利休の茶道が成立する遥かに以前に道誉が茶会に取り入れていた趣向。その精神は利休が仮託した茶書「南方録」に受け継がれた。こうある。
「掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主共に茶の湯三昧(ざんまい)の一心得道の物(心得をえるに大切な物)也」(「南方録」『日本の茶書1・P.389』東洋文庫 一九七一年)
とはいえ細川清氏にとって道誉は許し難い敵。だがその宿所に入った楠正儀(くすのきまさのり)は道誉がしつらえておいた風流なしつらえに痛く感銘を受ける。その後、南朝方が引き上げて再び足利方が入京してくることになった時、屋敷に戻ってくる道誉の心づかいを忘れず、正儀は以前にも増して「六所の飾り」に気を配り「秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)」を添えて交代した。
「道誉は、相模守(さがみのかみ)が当敵(とうてき)なれば、この宿所をば、こぼち焼くべしと憤(いきどお)りけれども、楠、この情けを感じて、その儀を止めしかば、泉水(せんずい)の木の一本をも損ぜず、畳の一帖(じょう)も取り散らさで、その後(のち)、幾程(いくほど)なくして楠また落ちし時も、六所の飾り、遠侍の酒肴(さけさかな)、先のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)置いて、郎等(ろうどう)二人留め置き、判官入道道誉に交替してぞ帰りける」(「太平記5・第三十六・十六・P.466~467」岩波文庫 二〇一六年)
京の街路では道誉の振る舞いについて「情け深く風情(ふぜい)あり」とする人々がいる一方、「古博奕打(ふるばくちう)ち〔道誉〕に出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られた」と正儀を嘲笑する人々もいた。
「道誉がこの振る舞ひ、情け深く風情(ふぜい)ありと、感ずる人もあり、例の古博奕打(ふるばくちう)ちに出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりける」(「太平記5・第三十六・十六・P.467」岩波文庫 二〇一六年)
風流と感じる人々もいるしただ単に道誉の老練な政治手腕にまんまとやられたと捉える人々もいる。どちらも幾らかの事実を物語ってはいるだろう。しかし風流とだけ言ってしまえば朦朧としてわかりにくくなるのだが、この時に楠正儀の心を打った感覚を「幽玄」という言葉へ置き換えるとまた違って思えてくるはず。正儀は後に足利義満の臣下に取り立てられるわけだが、同時に義満の庇護のもとで一世風靡した世阿弥は能楽論「花鏡」の中で「幽玄」という言葉こそ使っていない箇所ではあるものの、「無心の能」、「無文の能」、「さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也」と述べている。
「心(しん)より出来(いでく)る能とは、無上の上手の申楽(さるがく)に、物数(ものかず)の後、二曲も物まねも儀理(ぎり)もさしてなき能の、さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也。ーーー是は只(ただ)、無上の上手(じやうず)の得たる瑞風(ずゐふう)かと覚(おぼ)えたり。これを、心(しん)より出来(いでく)る能とも云(いひ)、無心の能とも、又は無文の能とも申(まうす)也」(日本古典文学大系「花鏡」『歌論集/能楽論集・P.431~432」岩波書店 一六六一年)
中世になると一方に「花の歌人」・西行が出てきた。しかし西行人気の影に「月の歌人・明恵」がいたことを忘れてはならない。元仁元年(一二二四年)の冬の歌。幼くして両親を亡くした明恵は孤独な夜の座禅の合間に月の光が自分に寄り添ってくれていると感じる。明恵は山中に響く狼の咆哮にすら怖さを感じなくなる。さらに冬の月に向かい、風が身にしみないか、雪は冷たくないかと思いやる。
「元仁元年十二月十二日ノヨル、天クモリ月クラキニ花宮殿ニ入(いり)テ坐禅ス。ヤウヤウ中夜ニイタリテ出観ノノチ、峰ノ房ヲイデテ下房ヘカヘル時、月雲(くも)マヨリイデテ光雪(ゆき)ニカカヤク。狼ノ谷ニホユルモ、月ヲトモトシテイトオソロシカラズ。下房ニ入(いり)テノチ又タチイデタレバ、月又クモリニケリ。カクシツツ後夜ノカネノオトキコユレバ、又峰ノ房ヘノボルニ、月モ又雲ヨリイデテ道(みち)ヲオクル。峰ニイタリテ禅堂ニ入ラムトスル時、月又雲ヲオヒキテ向(むかひ)ノ峰ニカクレナムトスルヨソオヒ、人シレズ月ノ我ニトモナフカト見(み)ユレバ、二首、
雲ヲイデテ我ニトモナフ冬ノ月風ヤ身(み)ニシム雪ヤツメタキ」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇〇」『中世和歌集・鎌倉編・P.246』岩波書店 一九九一年)
また、座禅の合間にそろそろ夜明けを迎えようとしていた時、明恵自身はもう峰の僧房に入るから月もまた山の端に入ってしまうがいい。こうした毎夜、わたしとそなた(月)とは友として生きていこうと月に親しむのである。
「山ノハニカタブクヲ見(み)オキテ、ミネノ禅堂ニイタル時、
山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友(とも)トセム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇一」『中世和歌集・鎌倉編・P.246~247』岩波書店 一九九一年)
さらに座禅の合間に外へ出てみると、暁方の月がみえる。その皓々たる光は既に月の光が明恵を照らし出しているのではなく逆に明恵が月の光となって月を照らし上げているのではないか、或いは明恵と月の光とはもう渾然一体となって溶け合っているに違いないという一点の曇りもない心境に没入して平穏を得ている。
「コノアカツキ禅堂ノ中ニイル。禅観ノヒマニマナコヲヒラケバ、アリアケノ月ノヒカリ、マドノマヘニサシタリ。ワガ身(み)ハクラキトコロニテ見(み)ヤリタレバ、スメルココロ月ノヒカリニマギルルココチスレバ、
クマモナクスメルココロノカカヤケバワガ光(ひかり)トヤ月オモフラム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇八」『中世和歌集・鎌倉編・P.249~250』岩波書店 一九九一年)
道誉と楠正儀とは金蘭の織りなす華麗な芸能の世界と数えきれない屍体で埋まっている洛中で、おそらく何か同じものを見たのである。
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