南北朝期の茶会は今の茶会と随分異なっていた。だからといって当時の代表的書物「太平記」にすべてが書かれているわけでは勿論ない。それを知るための資料の一つとして、例えば「喫茶往来(きっさおうらい)」がある。短い書面のやりとりだが、その前半は掃部助(かもんのすけ)氏清が弾正少弼(だんじょうしょうひつ)国能に宛てた書状とその返信のみ。さらに国能の返信はごく僅かであり主となるのは氏清による或る日の茶会の様子の報告書。
そこに描き出されているのは、鎌倉初期に栄西が医薬(カフェイン・散鬱作用・消化促進)として紹介した茶が、酒宴を交えた嗜好品へがらりと姿形を置き換えているシーンである。とはいえ、茶事は茶事としてしっかり整えられており、一方、酒席は酒席として絢爛豪華で風雅な趣きを充満させる。しかしそれら全編に渡って漲るのは圧倒的な唐物趣味と闘茶(茶の銘柄を当てる賭博)である。
茶寄合に招待された会衆が揃うと始めに出されるのは「水繊・酒三献、次いで索麵(さくめん=そうめん)、茶一返」。「酒・索麵(さくめん=そうめん)・茶一返」は誰にでもわかるが「水繊(すいせん)」は今でいう「葛切(くずきり)」。夏の菓子である。続いて「山海珍物」が盛られた懐石料理が出る。デザートには甘い果物。その後、一旦席を立って庭の散策に出かける。築山をぶらぶらしつつ木陰で避暑を取り、池に臨んで水面を渡る涼風を感じる。
「好士漸(ようや)く来り、会衆既に集まるの後、初め水繊・酒三献、次いで索麵(さくめん=そうめん)、茶一返。然(しか)る後に、山海珍物を以て飯を勧(すす)め、林園の美菓を以て哺(ほ)を甘す(甘味をあじわう)。其の後坐を起(た)ち、席を退き、或いは北窓の築山に対し、松柏の陰に避暑し、或いは南軒の飛泉に臨んで、水風の涼に披襟(ひきん)す」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122』東洋文庫 一九七一年)
茶会そのものは二階建ての喫茶亭で行われる。次のように唐物趣味が満載されており、むせぶような馥郁たる薫香は亭の外へ洩れ出してくるほど。どのような意匠だったか。「牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)の面餝(めんぼう=おもてかざり)、青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々、卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)、机には錦繍、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮、竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)、七賢、竜は水、虎は山、白鷺は蓼(たで)花の下、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上、。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)、衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱、栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋、種々の珍菓、ーーー」といった具合。「四皓(しこう)」は「東園公・綺里李・夏黄公・角里」の四老人。「七賢」は竹林七賢人のことで「阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・王戎・阮咸」のこと。
「爰(ここ)に奇殿有り。桟敷(さじき)二階に崎(そばだ)って、眺望は四方に排(ひら)く。是れ則ち喫茶の亭、対月の砌(みぎり=場所)なり。左は、思恭の彩色の釈迦(しゃか)、霊山説化の粧(よそおい)巍々(ぎぎ)たり。右は、牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)の観音、普陀(ふだ)示現(じげん)の姿蕩々(とうとう)たり。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)脇絵を為し、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)面餝(めんぼう=おもてかざり)を為す。前は重陽(陰暦九月九日の節句、この場合は菊の異称)、後は対月(明月に向かう)。言わざるは丹果の脣(くちびる=仏の顔かたちの一つをいう)吻々たり。瞬(またたき)無し青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々たり。卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)を置く。机には錦繍を敷き、鍮石(ちゅうじゃく=しんちゅう)の香匙(こうし=香道具の一つ、こうさじ)・火箸(こじ)を立て、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、呉山の千葉(沢山の木の葉)の粧(よそおい)を凝(こら)す。芬郁(ふんいく=香りのよい)たる炉中の香は、海岸の三銖(さんしゅ=かすかな)の煙と誤つ。客位の胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮を敷き、主位の竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)は世を商山の月に遁(のが)れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山に靠(よ)って眠る。白鷺は蓼(たで)花の下に戯(たわむ)れ、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上に遊ぶ。皆日域(日本)の後素(絵画)に非ず。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)。香台は、並(なら)びに(ならんで)衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱。茶壺は各(おのおの)栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋。西廂(せいしょう=西側の座敷)の前には一対の餝棚(かざりだな)を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物(かけもの)を構(かま)う。中に鑵子(かんす=ちゃがま)を立てて湯を練り、廻りに飲物を並べて巾(ふきん)を覆(おお)う」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122〜123』東洋文庫 一九七一年)
ようやく茶席。「四種十服の勝負」とある。闘茶のこと。数種類の茶を用意し、品種・産地を言い当てる競技だが、実質は賭博。盛大に盛り上がる。「四種十服」場合、四種類の茶を十回飲んでそれらの種別を言い当てる。さらに各々手前勝手に批評を交えて社交し合う。
「会衆列座の後、亭主(客を接待した主人)の息男、茶菓を献じ、梅桃(紅顔)の若(弱)冠、建盞(けんさん=ちゃわん。天目茶碗の一種)を通(とりつ)ぐ。左に湯瓶を提げ、右に茶筅(ちゃせん)を曳き、上位従(よ)り末座に到り、茶を献じ次第雑乱せず。茶は重請無しと雖(いえど)も、数辺の礼を敬し、酒は順点を用う(つぎつぎとそそぎ入れる)と雖も、未だ一滴の飲に及ばず。或いは四種十服の勝負、或いは都鄙善悪の批判(評価、判断のこと)、啻(ただ)に当座の興を催すに非ず。将(まさ)に又生前(人生)の活計(すばらしいこと)、何事か之に如(し)かん。盧同云う、『茶少なく湯多ければ、則ち雲脚(茶の泡)散ず。茶多く湯少なければ、則ち粥面(しゅくめん=濃い茶の泡のこと)聚(あつ)まる云云』。誠に以て、興有り感有り。誰か之を翫(もてあそ)ばざらんや」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.124』東洋文庫 一九七一年)
茶会・闘茶・賭博などがそろそろ終わる頃、日は西に傾いているだろう。夕暮時。茶道具は片付けられ、趣向を凝らした肴がずらりと並べられた酒宴が始まる。歌舞音曲の大騒ぎは周囲一帯に轟いた。それが夜更けまで続く。周囲が暗くなってくると紅の灯火が掲げられ、特等の麝香の匂いが辺り一面に漂い流れた。
「而して日景(日かげ)漸く傾き、茶礼将(まさ)に終わらんとす。則ち茶具を退け、美肴を調(ととの)え、酒を勧め、盃を飛ばす。三遅(さんち=酒宴)に先だって戸(こ=酒量)を論じ、十分に引きて飲を励ます。酔顔は霜葉(そうよう)の紅(くれない)の如く、狂粧は風樹の動くに似たり。式(もっ)て歌い式(もっ)て舞い、一座の興を増す。又絃し又管し、四方の聴を驚かす。夕陽峯に没し、夜陰窓に移る。堂上には紅蠟の燈を挑(かか)げ、簾外に紫麝(むらさきのじゃこう)の薫(くん)を飛ばす」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.125』東洋文庫 一九七一年)
同じ頃、京(みやこ)の四条河原で大掛かりな田楽が催された。「太平記」にこうある。「新座(しんざ)」は奈良の田楽、「本座(ほんざ)」は京・白川の田楽。見物人は大量かつ騒然たるもの。巨大な桟敷が新築され、我先にと詰め掛け押し寄せた結果、とうとう桟敷が一挙に倒壊した。注目したい記述は「勢粧(せいそう)に紅粉(こうふん)を尽(つ)くせる容儀美麗(びれい)」なのは女性でも男性でもなく「童(わらわ)八人」とある箇所。さらに「白く清らかなる・金黒(かねぐろ=お歯黒)」の意匠は「法師八人」であり「白金(しろかね)の乱紋(らんもん)打つたる下濃(すそご)の袴(はかま)」というのは銀を散りばめた模様の袴で下に行くに従って濃く染め上げられたもの。「白打手(しろうちで)の笠」は「白打出綾藺笠(しろうちでのあやいがさ)」だが、それを「傾(かたぶ)け」つつ小鼓のリズムに乗って登場してくる。「歌舞伎」まではまだ遠いけれども「能楽」への道筋は既に付いていると思われる。
「祇園(ぎおん)の執行(しゅぎょう)行恵(ぎょうえ)、四条(しじょう)の橋を勧進(かんじん)して渡さんために、新座(しんざ)本座(ほんざ)の田楽ども、老若(ろうにゃく)ともに楽屋(がくや)を構へて、能くらべの猿楽(さるがく)をぞせさせける。洛中洛外(らくちゅうらくがい)の貴賎男女(きせんなんにょ)、これ希代(きたい)の見物なるべしとて、われ劣らじと桟敷(さじき)を打ちけるに、五六、八九寸の安郡(あんのこおり)と云ふ材木にて重々(じゅうじゅう)に構へ上げて、廻(まわ)り八十三間(げん)に三重(さんじゅう)に組(く)み挙(あ)げたり。
すでにその日になりければ、馬、車、輿(こし)、河原に充満(じゅうまん)して、見物の貴賤雲霞(うんか)の如し。幔幕(まんまく)風に飛揚(ひよう)して、薫香(くんきょう)天に散満(さんまん)す。律雅(りつが)の調べ清くして、颯声(さっせい)耳を冷(ひや)やかならしむる時、勢粧(せいそう)に紅粉(こうふん)を尽(つ)くせる容儀美麗(びれい)の童(わらわ)八人、一様に金襴(きんらん)の水干(すいかん)着(ちゃく)して、東の楽屋より出でたれば、白く清らかなる法師八人、金黒(かねぐろ)にて、白金(しろかね)の乱紋(らんもん)打つたる下濃(すそご)の袴(はかま)に、白打手(しろうちで)の笠を傾(かたぶ)け、西の楽屋より出で会うたり。一(いち)の簓(ささら)には、本座の阿古(あこ)、乱拍子(らんびょうし)は、新座の彦夜叉(ひこやしゃ)、立ち会ひ畢(おわ)つて、日吉山王(ひよしさんのう)の示現利生(じげんりしょう)の新たなる事をしけるに、見物の貴賤上下、喚(おめ)き叫(さけ)んで感じける程に、いかがして崩(くず)れ初(そ)めけん、三重に構へたる将軍の御桟敷、下桁(したげた)微塵(みじん)に打(う)ち砕(くだ)けて、鳴りはためく。『あれや』と、云ふ程こそありけれ、作り続けたる物どもなれども、何としても拘(とど)むる所はあるべきに、上下二百四十間の桟敷ども、将棋倒(しょうぎだお)しをする如く、一度にどつとぞまろびける」(「太平記4・第二十七巻・九・P.284~285」岩波文庫 二〇一五年)
さらに同じ頃。盛んに流行した言葉に「下克上(げこくじょう)」がある。流行したというばかりでなく、実際に全国各地で頻発する兆候は目前に迫っていた。
「臣君を殺し、子父を殺し、力を以て争ふべき時至るゆゑに、下克上(げこくじょう)の一端により、高貴清花(こうきせいが)も君主一人(いちじん)も、ともに力を得ずして、下輩下賤(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.316」岩波文庫 二〇一五年)
次の箇所は、出羽国(でわのくに=今の山形県)羽黒山(はぐろやま)の山伏で熊野三山(くまのさんざん)の牛王札(ごおうふだ)に未来記(みらいき)を記したと言われる「雲景(うんけい)」が、京の愛宕山(あたごやま)に住む大天狗・太郎坊(たろうぼう)と交わした会話。ここでもまた「下克上(げこくじょう)の時分」とある。
「『今度は、地口天心(ちこうてんしん)を呑むと云ふ事あれば、いかにも下克上(げこくじょう)の時分にて、下(しも)勝ちぬべし』と申しければ、雲景(うんけい)、重ねて申すやう、『さては、下(しも)の道理にて、僻事(ひがごと)上(かみ)に逆(さか)うて、天下をわがままに治むべきか』と問へば、『いや、さはまたあるまじ。末世乱悪の儀にて、先(ま)づ下勝ちて、上を犯すべし。されども、上を犯す科(とが)も遁(のが)れ難(がた)ければ、重ねて下科(とが)に伏(ふく)すべし。これより当代、公家武家忽(たちま)ちに変化して、大逆(たいぎゃく)あるべし』と申せば、『さては、武家の代尽(つ)き、君、天下を治めさせ給ふべきか』と問へば、『それは、いさ知らず。今日明日(きょうあす)、武運も尽くべき時分ならねば、南朝の御治世は何(なに)とかあらんずらん。天変(てんぺん)はいかにもこの中(うち)にあるべし』」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.322~323」岩波文庫 二〇一五年)
さらに仁木右京大夫義長(にきうきょうのだいぶよしなが)と将軍足利義詮(あしかがよしあきら)との会話の中で義詮が「下克上(げこくじょう)の者ども」と言っているのが見える。
「さる事やあるべき。云ふ者の錯(あやま)りにてぞあるらん。千万(せんまん)もしさる事あらば、ただ義詮(よしあきら)を亡ぼさんとする企てなるべし。われと御辺(ごへん)と、一所(いっしょ)になつて戦はば、誰(たれ)か下克上(げこくじょう)の者どもに与(くみ)する人あるべき」(「太平記5・第三十五・三・P.345」岩波文庫 二〇一六年)
第三十六巻「畠山道誓没落(はたけやまどうせいぼつらく)の事」にも「下克上(げこくじょう)の至り」とある。
「下(しも)として上(かみ)を退くる嗷訴(ごうそ)、下克上(げこくじょう)の至りかなと、心中に憤(いきどお)り思(おも)はれけれども、この者どもに背(そむ)かれなば、東国(とうごく)一日も無為(ぶい)なるまじ」(「太平記5・第三十六・十四・P.457」岩波文庫 二〇一六年)
この時期の下剋上はなるほど下が上を打ち負かすとはいってもなお、まだ訴訟が主である。戦国時代に入って軍事一色に染まるのはさらに二百年も先のことだ。しかしその間、武士団の台頭と戦闘の激しさが増せば増すほど国内は当然疲弊する。だが南北朝期の不思議さは、一方で文化・社会・経済といった面が大きく飛躍した点だろう。
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そこに描き出されているのは、鎌倉初期に栄西が医薬(カフェイン・散鬱作用・消化促進)として紹介した茶が、酒宴を交えた嗜好品へがらりと姿形を置き換えているシーンである。とはいえ、茶事は茶事としてしっかり整えられており、一方、酒席は酒席として絢爛豪華で風雅な趣きを充満させる。しかしそれら全編に渡って漲るのは圧倒的な唐物趣味と闘茶(茶の銘柄を当てる賭博)である。
茶寄合に招待された会衆が揃うと始めに出されるのは「水繊・酒三献、次いで索麵(さくめん=そうめん)、茶一返」。「酒・索麵(さくめん=そうめん)・茶一返」は誰にでもわかるが「水繊(すいせん)」は今でいう「葛切(くずきり)」。夏の菓子である。続いて「山海珍物」が盛られた懐石料理が出る。デザートには甘い果物。その後、一旦席を立って庭の散策に出かける。築山をぶらぶらしつつ木陰で避暑を取り、池に臨んで水面を渡る涼風を感じる。
「好士漸(ようや)く来り、会衆既に集まるの後、初め水繊・酒三献、次いで索麵(さくめん=そうめん)、茶一返。然(しか)る後に、山海珍物を以て飯を勧(すす)め、林園の美菓を以て哺(ほ)を甘す(甘味をあじわう)。其の後坐を起(た)ち、席を退き、或いは北窓の築山に対し、松柏の陰に避暑し、或いは南軒の飛泉に臨んで、水風の涼に披襟(ひきん)す」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122』東洋文庫 一九七一年)
茶会そのものは二階建ての喫茶亭で行われる。次のように唐物趣味が満載されており、むせぶような馥郁たる薫香は亭の外へ洩れ出してくるほど。どのような意匠だったか。「牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)の面餝(めんぼう=おもてかざり)、青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々、卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)、机には錦繍、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮、竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)、七賢、竜は水、虎は山、白鷺は蓼(たで)花の下、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上、。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)、衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱、栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋、種々の珍菓、ーーー」といった具合。「四皓(しこう)」は「東園公・綺里李・夏黄公・角里」の四老人。「七賢」は竹林七賢人のことで「阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・王戎・阮咸」のこと。
「爰(ここ)に奇殿有り。桟敷(さじき)二階に崎(そばだ)って、眺望は四方に排(ひら)く。是れ則ち喫茶の亭、対月の砌(みぎり=場所)なり。左は、思恭の彩色の釈迦(しゃか)、霊山説化の粧(よそおい)巍々(ぎぎ)たり。右は、牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)の観音、普陀(ふだ)示現(じげん)の姿蕩々(とうとう)たり。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)脇絵を為し、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)面餝(めんぼう=おもてかざり)を為す。前は重陽(陰暦九月九日の節句、この場合は菊の異称)、後は対月(明月に向かう)。言わざるは丹果の脣(くちびる=仏の顔かたちの一つをいう)吻々たり。瞬(またたき)無し青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々たり。卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)を置く。机には錦繍を敷き、鍮石(ちゅうじゃく=しんちゅう)の香匙(こうし=香道具の一つ、こうさじ)・火箸(こじ)を立て、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、呉山の千葉(沢山の木の葉)の粧(よそおい)を凝(こら)す。芬郁(ふんいく=香りのよい)たる炉中の香は、海岸の三銖(さんしゅ=かすかな)の煙と誤つ。客位の胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮を敷き、主位の竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)は世を商山の月に遁(のが)れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山に靠(よ)って眠る。白鷺は蓼(たで)花の下に戯(たわむ)れ、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上に遊ぶ。皆日域(日本)の後素(絵画)に非ず。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)。香台は、並(なら)びに(ならんで)衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱。茶壺は各(おのおの)栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋。西廂(せいしょう=西側の座敷)の前には一対の餝棚(かざりだな)を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物(かけもの)を構(かま)う。中に鑵子(かんす=ちゃがま)を立てて湯を練り、廻りに飲物を並べて巾(ふきん)を覆(おお)う」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122〜123』東洋文庫 一九七一年)
ようやく茶席。「四種十服の勝負」とある。闘茶のこと。数種類の茶を用意し、品種・産地を言い当てる競技だが、実質は賭博。盛大に盛り上がる。「四種十服」場合、四種類の茶を十回飲んでそれらの種別を言い当てる。さらに各々手前勝手に批評を交えて社交し合う。
「会衆列座の後、亭主(客を接待した主人)の息男、茶菓を献じ、梅桃(紅顔)の若(弱)冠、建盞(けんさん=ちゃわん。天目茶碗の一種)を通(とりつ)ぐ。左に湯瓶を提げ、右に茶筅(ちゃせん)を曳き、上位従(よ)り末座に到り、茶を献じ次第雑乱せず。茶は重請無しと雖(いえど)も、数辺の礼を敬し、酒は順点を用う(つぎつぎとそそぎ入れる)と雖も、未だ一滴の飲に及ばず。或いは四種十服の勝負、或いは都鄙善悪の批判(評価、判断のこと)、啻(ただ)に当座の興を催すに非ず。将(まさ)に又生前(人生)の活計(すばらしいこと)、何事か之に如(し)かん。盧同云う、『茶少なく湯多ければ、則ち雲脚(茶の泡)散ず。茶多く湯少なければ、則ち粥面(しゅくめん=濃い茶の泡のこと)聚(あつ)まる云云』。誠に以て、興有り感有り。誰か之を翫(もてあそ)ばざらんや」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.124』東洋文庫 一九七一年)
茶会・闘茶・賭博などがそろそろ終わる頃、日は西に傾いているだろう。夕暮時。茶道具は片付けられ、趣向を凝らした肴がずらりと並べられた酒宴が始まる。歌舞音曲の大騒ぎは周囲一帯に轟いた。それが夜更けまで続く。周囲が暗くなってくると紅の灯火が掲げられ、特等の麝香の匂いが辺り一面に漂い流れた。
「而して日景(日かげ)漸く傾き、茶礼将(まさ)に終わらんとす。則ち茶具を退け、美肴を調(ととの)え、酒を勧め、盃を飛ばす。三遅(さんち=酒宴)に先だって戸(こ=酒量)を論じ、十分に引きて飲を励ます。酔顔は霜葉(そうよう)の紅(くれない)の如く、狂粧は風樹の動くに似たり。式(もっ)て歌い式(もっ)て舞い、一座の興を増す。又絃し又管し、四方の聴を驚かす。夕陽峯に没し、夜陰窓に移る。堂上には紅蠟の燈を挑(かか)げ、簾外に紫麝(むらさきのじゃこう)の薫(くん)を飛ばす」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.125』東洋文庫 一九七一年)
同じ頃、京(みやこ)の四条河原で大掛かりな田楽が催された。「太平記」にこうある。「新座(しんざ)」は奈良の田楽、「本座(ほんざ)」は京・白川の田楽。見物人は大量かつ騒然たるもの。巨大な桟敷が新築され、我先にと詰め掛け押し寄せた結果、とうとう桟敷が一挙に倒壊した。注目したい記述は「勢粧(せいそう)に紅粉(こうふん)を尽(つ)くせる容儀美麗(びれい)」なのは女性でも男性でもなく「童(わらわ)八人」とある箇所。さらに「白く清らかなる・金黒(かねぐろ=お歯黒)」の意匠は「法師八人」であり「白金(しろかね)の乱紋(らんもん)打つたる下濃(すそご)の袴(はかま)」というのは銀を散りばめた模様の袴で下に行くに従って濃く染め上げられたもの。「白打手(しろうちで)の笠」は「白打出綾藺笠(しろうちでのあやいがさ)」だが、それを「傾(かたぶ)け」つつ小鼓のリズムに乗って登場してくる。「歌舞伎」まではまだ遠いけれども「能楽」への道筋は既に付いていると思われる。
「祇園(ぎおん)の執行(しゅぎょう)行恵(ぎょうえ)、四条(しじょう)の橋を勧進(かんじん)して渡さんために、新座(しんざ)本座(ほんざ)の田楽ども、老若(ろうにゃく)ともに楽屋(がくや)を構へて、能くらべの猿楽(さるがく)をぞせさせける。洛中洛外(らくちゅうらくがい)の貴賎男女(きせんなんにょ)、これ希代(きたい)の見物なるべしとて、われ劣らじと桟敷(さじき)を打ちけるに、五六、八九寸の安郡(あんのこおり)と云ふ材木にて重々(じゅうじゅう)に構へ上げて、廻(まわ)り八十三間(げん)に三重(さんじゅう)に組(く)み挙(あ)げたり。
すでにその日になりければ、馬、車、輿(こし)、河原に充満(じゅうまん)して、見物の貴賤雲霞(うんか)の如し。幔幕(まんまく)風に飛揚(ひよう)して、薫香(くんきょう)天に散満(さんまん)す。律雅(りつが)の調べ清くして、颯声(さっせい)耳を冷(ひや)やかならしむる時、勢粧(せいそう)に紅粉(こうふん)を尽(つ)くせる容儀美麗(びれい)の童(わらわ)八人、一様に金襴(きんらん)の水干(すいかん)着(ちゃく)して、東の楽屋より出でたれば、白く清らかなる法師八人、金黒(かねぐろ)にて、白金(しろかね)の乱紋(らんもん)打つたる下濃(すそご)の袴(はかま)に、白打手(しろうちで)の笠を傾(かたぶ)け、西の楽屋より出で会うたり。一(いち)の簓(ささら)には、本座の阿古(あこ)、乱拍子(らんびょうし)は、新座の彦夜叉(ひこやしゃ)、立ち会ひ畢(おわ)つて、日吉山王(ひよしさんのう)の示現利生(じげんりしょう)の新たなる事をしけるに、見物の貴賤上下、喚(おめ)き叫(さけ)んで感じける程に、いかがして崩(くず)れ初(そ)めけん、三重に構へたる将軍の御桟敷、下桁(したげた)微塵(みじん)に打(う)ち砕(くだ)けて、鳴りはためく。『あれや』と、云ふ程こそありけれ、作り続けたる物どもなれども、何としても拘(とど)むる所はあるべきに、上下二百四十間の桟敷ども、将棋倒(しょうぎだお)しをする如く、一度にどつとぞまろびける」(「太平記4・第二十七巻・九・P.284~285」岩波文庫 二〇一五年)
さらに同じ頃。盛んに流行した言葉に「下克上(げこくじょう)」がある。流行したというばかりでなく、実際に全国各地で頻発する兆候は目前に迫っていた。
「臣君を殺し、子父を殺し、力を以て争ふべき時至るゆゑに、下克上(げこくじょう)の一端により、高貴清花(こうきせいが)も君主一人(いちじん)も、ともに力を得ずして、下輩下賤(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.316」岩波文庫 二〇一五年)
次の箇所は、出羽国(でわのくに=今の山形県)羽黒山(はぐろやま)の山伏で熊野三山(くまのさんざん)の牛王札(ごおうふだ)に未来記(みらいき)を記したと言われる「雲景(うんけい)」が、京の愛宕山(あたごやま)に住む大天狗・太郎坊(たろうぼう)と交わした会話。ここでもまた「下克上(げこくじょう)の時分」とある。
「『今度は、地口天心(ちこうてんしん)を呑むと云ふ事あれば、いかにも下克上(げこくじょう)の時分にて、下(しも)勝ちぬべし』と申しければ、雲景(うんけい)、重ねて申すやう、『さては、下(しも)の道理にて、僻事(ひがごと)上(かみ)に逆(さか)うて、天下をわがままに治むべきか』と問へば、『いや、さはまたあるまじ。末世乱悪の儀にて、先(ま)づ下勝ちて、上を犯すべし。されども、上を犯す科(とが)も遁(のが)れ難(がた)ければ、重ねて下科(とが)に伏(ふく)すべし。これより当代、公家武家忽(たちま)ちに変化して、大逆(たいぎゃく)あるべし』と申せば、『さては、武家の代尽(つ)き、君、天下を治めさせ給ふべきか』と問へば、『それは、いさ知らず。今日明日(きょうあす)、武運も尽くべき時分ならねば、南朝の御治世は何(なに)とかあらんずらん。天変(てんぺん)はいかにもこの中(うち)にあるべし』」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.322~323」岩波文庫 二〇一五年)
さらに仁木右京大夫義長(にきうきょうのだいぶよしなが)と将軍足利義詮(あしかがよしあきら)との会話の中で義詮が「下克上(げこくじょう)の者ども」と言っているのが見える。
「さる事やあるべき。云ふ者の錯(あやま)りにてぞあるらん。千万(せんまん)もしさる事あらば、ただ義詮(よしあきら)を亡ぼさんとする企てなるべし。われと御辺(ごへん)と、一所(いっしょ)になつて戦はば、誰(たれ)か下克上(げこくじょう)の者どもに与(くみ)する人あるべき」(「太平記5・第三十五・三・P.345」岩波文庫 二〇一六年)
第三十六巻「畠山道誓没落(はたけやまどうせいぼつらく)の事」にも「下克上(げこくじょう)の至り」とある。
「下(しも)として上(かみ)を退くる嗷訴(ごうそ)、下克上(げこくじょう)の至りかなと、心中に憤(いきどお)り思(おも)はれけれども、この者どもに背(そむ)かれなば、東国(とうごく)一日も無為(ぶい)なるまじ」(「太平記5・第三十六・十四・P.457」岩波文庫 二〇一六年)
この時期の下剋上はなるほど下が上を打ち負かすとはいってもなお、まだ訴訟が主である。戦国時代に入って軍事一色に染まるのはさらに二百年も先のことだ。しかしその間、武士団の台頭と戦闘の激しさが増せば増すほど国内は当然疲弊する。だが南北朝期の不思議さは、一方で文化・社会・経済といった面が大きく飛躍した点だろう。
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