教会では、たくさんの人が礼拝をしている。讃美し、祈り、説教を聞き、献金し・・・・
祈祷会でも、祈り課題をあげて祈り合い、またメッセージを聞き、レポートを書いたりもする。
ところが、先週まで聴衆の前に立って、讃美をリードしていた人が、突然、姿を消すことが、そう多くはないのだが、残念なことにあります。
マタイ28章17節の「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。 」
私は、ここで、復活のイエス様にお会いした11人の弟子たちの中の何人かは、礼拝しながらも、それでも疑っていたのだ。人間とは、外に現わされる姿勢や態度、行ないと、内面の思い、感情との間に違いがあるものだと思っていた。人は誰もそんな二心のある存在である。それが現実なのだ~と思っていた。
「遠い山の上からイエスの栄光が見えて、それはイエスがどうかわからなかった。近づいてきたのでわかった」というメモが読めて、はっとしました。
彼らはイエスにお会いしたというのは、見た、目にとめた、見つけたという意味です。弟子たちは、イエスの足元にひれ伏すにはまだ距離があったけれども、ひざまづぃて、平伏していた。そこに、イエス様の方から近づいて来てくださったのです。
そして、最後の宣教命令、弟子づくり命令を語られました。
まだ疑ったり、ためらったりししながらも、礼拝には来てはいないが、神の前で恐れを感じてひれ伏す思いでいる子供たちや、信じ始めたけどご主人が戸惑っていて迷っているという若いママに、イエス様の方から近づいて来て、声をかけてくださることを期待します。
とさみずき
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