今週は、教会の奉仕当番になっていた。掃除して礼拝仕様に各部屋を私は備えた。
今週は、聖餐式がある。罪を告白して聖餐式にふさわしい者となって聖餐式にあずかろうと、前日または当日の朝に、前もって祈って、私は備えるようにしている。
今週の説教は、マルコ1章2--8節。原語をいくつか辞書で調べて主日説教に私は備えた。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、 1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
3節の「用意しなさい」は、聖書の他の場所では、主語が神、主、イエスである個所があった。
御救いは、主が万民の前に備えられたものです(ルカ2:31)
イエス様は天に私達救われた者のために場所・都を備えてくださっています。(ヨハネ14:2)(へブル11:16)
私は、礼拝の前には、あれもこれもやっておかなくてはならないと、律法的で形式的であったこと悔い改めました。自己満足を求めていました。
主が天地の創造の時から、生まれる前から、救いの道を備えていてくださり、主が私達が最終的に入れていただく場所も備えて下さっている。
自分が何をするべきかということよりも、まず、神の救いの備えが恵みによって与えられていることを、喜び感謝します。
私自身が、考える順番を見失っていたことに気づきしました
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