会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

瀬戸内寂聴師の遷化の報に接し   柴田聖寛

2021-12-10 20:26:06 | 天台宗

 

 

 瀬戸内寂聴師が去る11月9日に遷化されました。数えで99歳でした。私にとって忘れられないのは、事務局を仰せつかったこともあり、一隅を照らす運動40周年東日本大会が平成21年10月6日、磐梯熱海温泉の「郡山ユラックス熱海」で3000人の参加者を集めて開催され、瀬戸内師の「一隅を照らす心」と題した記念法話が行われたことです。瀬戸内師は「命とは自分以外のものを幸せにするために授かるもの、どうしたら相手が幸せになるか思いやり、相手の痛みを感じわかちあう」ことの大切さを説いておられました。ユーモアを交えての講演に聴衆も身を乗り出して聴き言っていたのが今も忘れられません。
 第一部で同運動総裁である半田孝淳天台座主猊下大導師による法華懺法が厳修され、同運動会長小堀光詮三千院門跡門主らが挨拶を述べたのに続いての第二部でお話をされたのでした。
 天台ジャーナル令和三年12月1日号によると、瀬戸内師は徳島市出身。東京女子大卒。昭和32年に『女子大生曲愛怜(チュイアイリン)』で文壇にデビュー、昭和48年11月、51歳で出家。行院後、京都嵯峨野に「寂庵」を結び、昭和62年には陸奥教区天台寺就任。京都と岩手を往復する生活を長く続けてこられました。小説などの著作は400冊を超えるといわれます。そして、一般社会に対して、著しく天台宗の宗旨を宣揚した僧侶に贈られる天台特別功労賞を受賞されました。そのときの講演では、湾岸戦争の終了後にイラクに薬を届けに向かったエピソードも語られ、平和の大切さを訴えられました。
 私は瀬戸内師の本がほとんど目を通していますが、2年前に出された『寂聴九十七歳の遺言』を読み直してみて、「死についても楽しく考えたほうがいいわね」という帯の文章に救われるとともに、正直に生きたことで天台の僧侶になったわけで、伝教大師様のお導きがあったからではないかと思います。
 とくに私の胸が詰まったのは「愛することは許すこと」の小見出しで述べられている文章です。死刑囚になった我が子を愛し続けた母親の愛を取り上げていたからです。「死刑囚のわが子を見舞ったところで何もかえってこない。それこそ世間の非難しか返ってこないかもしれません。でも、見舞わずにはいられない。これがほんとうの愛情なのです。こうした母の愛は、すべての人間を許す仏さまや神様の愛、『慈悲』や『アガペー』に近いものでしょう」と書いていられます。
 瀬戸内師ほどではありませんが、私の人生も波瀾万丈でありました。それでも今天台宗の一僧侶として信仰を踏み固めるべく精進しているのは、伝教大師様の教えがあったからこそで、瀬戸内師の遷化の報に接し、なおさらその思いを強くした次第であります。

 

  合掌

 


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