はざまの庵

分類し難い存在を愛でる覚え書き by aiwendil お気軽にコメントをどうぞ。

意味と笑い---ピタゴラ装置を見る者に何が起こっているのか。あるいは小林賢太郎氏のつくる笑いの特徴と

2007-09-21 00:18:09 | アートなど
NHK教育で放映中のテレビ番組「ピタゴラスイッチ」には、ボールなどの転がりが連鎖して面白い動きを見せる装置が登場します。
この装置は佐藤雅彦研究室が製作しており、番組のシンボル的存在として『ピタゴラ装置』と呼ばれています。
(↓参考)
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装置はいずれも様々な日用品を組み合わせたもので、その映像は番組の合間に挿入されています。
この装置の特筆すべきところはその精度とメカニズムです。動きのきっかけとなる冒頭に人の手が加わる他は、重力にしたがってひたすら転がってゆくボールや、それを支える樋、動きを伝える磁石など、物体の持つ物理現象のみをよりどころにしており、動力や人力を一切使わずに装置の動きが成立しています。
綿密な物理法則を駆使した結果、驚異の映像表現が生まれ、老若男女問わず多くの人々が映像に魅了されているようです。

さて、このピタゴラ装置には50種類以上あるのですが、そのうちのいくつかは必ずと言っていいほど見る者に笑いを引き起こします。
顕著なのは「音階」「乾電池」「バンジー」「走る路」など。
とりわけ「音階」では、私が個人的に観察した知人17名のうち16名が映像の最後で笑い声を上げました。
その場面の概要は次のようなものです。

『木のバチがロープウェイのようにぶら下がりながら傾いたアルミ棒を伝って滑り落ちてゆく。その勢いでバチが水の張ったコップに当たってピタゴラスイッチサウンドロゴのメロディを奏でるのだが、最後の音の手前で動きの勢いが弱まり、その一音が鳴らないかに思えた瞬間、少し遅れて最後の一音が鳴る。』
ここで大抵の人間が笑いを浮かべます。

2005年夏の「佐藤雅彦研究室展」においても、この場面では必ず見物人の間から老若男女問わずどっと笑い声が上がっていました。
ところが、よくよく考えると、これはとても不思議なことです。
この映像には、じつは明確な『意味』が無いのです。
『バチとコップという物体が物理法則に従って動いている』、客観的に形容するならただそれだけの映像にすぎません。
意味はもちろんのこと、ストーリーも無い
しかし、それなのに笑いが起きてしまいます。


ピタゴラ装置の映像によって生じる笑いが意味によらない笑いだと気付いたときからずっと、私はこの現象のことが気になってしかたありませんでした。
日常を振り返ると、ふつう、人間の笑いは意味に対する反応として発露しています。
可笑しいと感じるとき、言葉にせよ音にせよ身振りにせよ、我々はその意味に反応して笑っていることが多いのです。
私にとっても、意味と笑いは不可分のように思えていました。
しかし、無生物の物理法則という事象に対して笑いが生じる事例を目の当たりにし、その認識は根本から覆ってしまいました。
ピタゴラ装置では現に意味の無いところに笑いが生じています。
これはいったいなぜでしょう?


考えるうち、私はふと、脳科学のシンポジウム(覚え書き→こちら)で『脳のショートカット』を紹介した坂井克之氏のプレゼンテーションのことを思い出しました。
プレゼンテーションの中で、坂井氏は脳のショートカットの一例としてHeider & Simmel(1944) の研究を紹介していたのです。
紹介されたのは簡単なアニメーション。
大小2つの三角形が動いている映像なのですが、見る者にはそれがどうしても「三角形の親子」のように見えてしまうのです。
(元文献はこちら→Heider, F. and Simmel, M. (1944) An experimental study of apparent behavior. American Journal of Psychology, 57, 243?249.)
同じ映像ではありませんが、Heider & Simmel の研究映像一例を以下に例示してみます。

http://anthropomorphism.org/img/Heider_Flash.swf

この映像例では、大小2つの三角形と小さな円が動いているだけなのですが、見る者はまず間違いなくドラマチックなストーリーを感じ取ってしまうでしょう。
このように、本来意味が無いはずの図形の動きに対してまで人間の脳は勝手に反応し、意味づけと共感を引き起こしているのです。
いわば、意味が無いのに人間の脳が勝手に意味づけをしているということのようです。


さて、ここからが推論。
この図形たちのように、ピタゴラ装置においても同じ現象が起こっているのではないでしょうか。
見る側が、連動する動きを伝える物体たちに人格と共感を投影して、意味の無いところに意味を与えているのではないか。
そう考えると、コップの音階に対する笑いにも納得がゆきます。
表現そのものに意味はないけれど、見る側が意味を付与する、という意味において、この佐藤雅彦研究室の作るピタゴラ装置の表現は非常に希有な特徴を持っているものと思われます。


ところで、佐藤雅彦研究室の仕事を意識した表現として私がまず思い出すのが小林賢太郎氏の「ポツネン」シリーズ。
氏のソロコントライブ「ポツネン」では、佐藤氏の言う『見立て』や『人間にとって抗いがたい表現』を利用したコントパフォーマンスが目立ちました。
しかし、両者を決定的に異ならしめているのが「意味」との関係性であると私は考えています。
小林氏の表現はすべて意味から脱却できていません。
無言のコントも見立てのコントもすべて『意味』に依拠した表現となっています。
表現自体が意味を担っているので、見る側が意味を付与する余地はありません。
佐藤雅彦研究室の表現と表面上は似ていながら、意味に頼っているという点でこの2者の表現は本質的に異なったものとなっています。
以前私は、ラーメンズ小林賢太郎氏のコント作品が日本語という言語に深く依拠していると指摘しました。(参照→こちら )
それは小林賢太郎氏の表現の特徴であり、強みであり、同時に限界であるともとらえることができるかと思えます。
言語における意味の破壊と再構築に依存していた表現から、言語を使わずに意味を構築する表現へとスライドしたのが「ポツネン」という作品であったととらえることもでき、そういう意味では小林氏の表現手法は進化途上にあるとみなすこともできそうです。
もしもすべての人間に相通じる根源的な表現を目指すのであれば、小林氏の「ポツネン」における表現手法は到達点としてはまだ片手落ちと言えるのではないか、と思えます。
もっとも、小林氏がどのような表現を目指しているのかはわかりません。「TEXT」において意味と日本語という言語表現へ徹底的に依存した表現手法へ立ち返っているところをみると、小林氏自身は意味からの脱却にはさほど興味を抱いていないのかもしれません。
しかしながら、あらゆる笑いの可能性を探る姿勢を見せる小林氏が、『意味に依存しない笑い』という難題に取り組んだとしたら相当に面白い表現が生まれ得るものと期待され、佐藤雅彦研究室と小林賢太郎氏との表現上の接点に非常に興味深いものを感じます。

今後も観察してゆきたいテーマです。

*なお、このエントリはJSRブログへも投稿しています。