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なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

原始囲碁推理

2010-06-08 02:37:04 | Weblog
 今日は事務所のデスクに
へばりりついて目いっぱいに仕事と格闘しました。
  額はともかく給料なるものを戴いているのですから、一生懸命に仕事をするのは当たり前ではあるけれど、私自身は内心では腹八分目ではないが、ゆとりとか・隙間があるくらいでないと本当に好い仕事は出来ないと思っている。
 緊張の連続では一見凄そうだけど、実は脆さ危うさと裏表の感じがするし、当然能力の半分以下と言うのもダメで、八分目の力で全体が好く見える感じで長続きさせるのが仕事の”芸”だろうと思っている。
 例えば曲芸師などが人前で芸を披露する時に「一か八かやってみなければわからない」と言う芸に挑戦するのは”素人的”なわけで、実は十分に成算があるのに”危なそうな顔”観客を引きつけている。
 そういう意味では仕事の仕方については私はプロの域に近いと自負している。
  そりゃそうですね年を考えれば・・・。

 ともかくみっちりと仕事に取り組んだ御蔭で4時ごろには一段落。
  (この一段落後の余裕を余裕と見るか、更に仕事をこなせると見るかは考え方による)。
 私は、自分で作りだした余裕だと考えますね。
  この時間を取り上げられるような職場では仕事をしたくないです。

 と言う事で、前振り・横道が長かったですが、今日の私的教養講座は「原始囲碁を推理する」
  たまたま囲碁の古代史的な記事を探していて見つけました。
 「推理」と言う事で史実と言うものでは無いらしいですが、ゲームと言う事で考えると、0から始まって今の囲碁の形になるには多分こういう過程が必要だった筈だと言う推理が面白い。
 マア、大天才とか神がかり的な人物がある日突然作ってしまったと言う事でなければ、きっとそういう道筋を辿る筈と言う推理・・・勿論、歴史的資料の断片はあるとは思う。
 中でも5路盤では第一手天元で勝敗が決まってしまい、6路盤でなら両方の石が共存し得る・・・
  成程、それで趙治勲さんに、初心者向けの6路盤の話が有った筈。
 それで、先手後手の有利不利があまりに大きくないような方向で徐々に碁盤のサイズが大きくなった筈・・・9路盤の次が突然17路になったとか。
 これは唐の時代に碁盤があるし、確か記憶では正倉院にもあったと思った。
  1本づつの罫線の増加ではなく、恐らく一気に碁盤を繋いで大きくすると(共通の端の罫線を重複させると17路になる。

 こういう話って好きです。
  これを知っていたからと言って別に何の利益も無いし、囲碁が強くなるわけでもない。
 しかし「ヘエ」に出会うと気持ちが豊かになるような(錯覚?)気がします。
  記事は平成15年だとか・・・7年も知らない期間が有った。

 ところでもう一つ「ヘエ」
  自分でもどこかで読んだようなかすかな記憶がある余うな気はしますが、今日改めて記事を読んで楽しくななりました。
 「囲碁神社」が有る。
  鳥居のところに「囲碁神社」という額がかかっているので確かに囲碁神社だ。
 尤もこういう場所に額を掲げて「囲碁神社」と言っているのはなんとなく宣伝臭い気もしますが、マア本人が囲碁神社だと名乗っているのですからそれに間違いないのでしょう。
 小さな社にも囲碁神社の額がかかっている・・・「これでもか」と言う感じがしないでも無いが。マア見落とされないように表札があると言う事でしょう。
 尤も江戸時代の大名屋敷などには表札が無いのが常識なわけで、ここまで名乗りを上げるのかって言う気はします。
 嫌味のコメントはこれくらいで、神社に占いはつきもので、そこに紹介されている占いの言葉が面白い。
 それどれ(大分方言:それぞれ)こころの迷いうち  捨てて進もよし退てもよし
 進運なれば心決めて 勝負をかけろ  後ろを見ずに 前見て邁進せよ
 後手の先手待ちに勝運あり 又の勝機にそなえて 勉学に励め
 勝った負けたとさわぐ 前に勝負の前に囲碁神様 神社に参拝しよう。

  何だか新しいような気もする
 しかし八百万の神の国ですから囲碁の神様が居ても不思議ではない・・・しかしプロ棋士はお参りに来るのだろうか?。
 もしかしたらアマ専門の神社?・・・ジョークとしてはその方が面白いです。