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お兄ちゃん日記

2017年9月14日、今日からこのブログでやってみることにします。

本当の正義とは社会全体の幸福を実現すること

2024-05-14 04:28:40 | 日記
本当の正義とは社会全体の幸福を実現すること
 
正義とは何か、改めて考えると難しい問題です。
要約すると「社会全体の幸福を実現すること」のようだ。
世界では「正義のために戦う」という大義名分で、暴力や破壊行為が行われている。
時には、殺人を犯す場合もある。
しかし、いくら正義とはいえ、暴力・破壊・殺人は言うまでもなく間違っている。
暴力・破壊・殺人をする時点で、社会の秩序を乱し、幸福を奪っている。
正義のために暴力・破壊・殺人を犯すなら、利己主義が横行して、世界中が戦争になるだろう。
自分のことしか考えない状態は「社会全体の幸福を実現する」という正義とは反する。
では、本当の正義とは、暴力・破壊・殺人を避けながら、社会全体の幸福を実現することである。
議論をしたり、尊重し合ったり、助け合ったり、分け与えたりすることである。
完全にお互いの利害が一致すればいいのが、現実としては難しい。
そこで必要なのが、妥協することである。
多くの意見をまとめた結果、自分が損をすることになるかもしれない。
しかし、結果として、社会全体の幸福が実現するなら、それは正義と言える。
自分の損が誰かの得になっても、全体として平等と幸福が実現するなら、正しい意義があると言える。
非現実的のように思えるが、正義のたのには何をしてもいいと言う考えは、絶対に間違っている。

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「事実」と「真実」の違いを学ぶ

2024-05-12 04:23:16 | 日記
「事実」と「真実」の違いを学ぶ


「事実」と「真実」との違いは、「内容が客観的か主観的か」という点にあると言われる。
 「事実」は「実際に起こった事柄」や「現実に存在する事柄」を表す。
そして常に一つです。 
一方「真実」は「事実に対する嘘偽りのない解釈」を表す。
よって人によって異なる場合があります。
「事実」であっても「真実」でない場合や、「真実」であっても「事実」でない場合がある。
しかし事実と真実の違いは、単に客観的か主観的かというのは、いささか本質を欠いた解釈と言えます。
事実と真実の本質的な違いは用法です。 
言葉について欠かせないのは、用法を考えることです。
なぜなら、言葉が表す内実は、1つとは限らないからです。
言葉には、主に2つの内実があり、それは意味と意義です。 
「意味」とは、その言葉が指し示す対象(物事)を表します。
一方、「意義」とは、その言葉が背景や文脈において持つ内容を表します。
まずは、真実の意味と意義について考えます。
真実の意味は、辞書的意味で「 いつわりのない本当のこと」という抽象的な概念を指し示すものです。
問題は意義です。
意義とは、その言葉が用いられる背景や文脈によって規定される言葉の内実です。
つまり事実と真実の違いは、そこに客観的に判断することが難しい主観的な要素が含まれているかいないかというところにあります。
「AがBの消しゴムをつかんで、持っていった」という記述を考えます。
これは事実についての記述です。
これを真実についての記述として捉えるのは難しいです。
何故なら、ここには主観的な判断の入り込む余地が残されていないからです。しかし、次のような文の場合は、真実かどうかを問うことができます。
「AがBの消しゴムを盗むために持っていった」
この場合、盗むという観念的な行為に、当事者であるBの主観的な意識が入る余地があります。
もちろん、盗むつもりで持っていったなら、この記述内容は真実ということになります。
しかし、借りるつもりで持っていったとしたら、これは真実とは言えなくなります。
この記述には、「AがBの消しゴムを持っていった」という事実としての記述に、「盗むつもり」だったのか、「借りるつもり」だったのかという、完全には客観的に判断するのが困難な主観的要素が含まれていることがわかります。
その判断に対して、事実と一致すれば、それは真実として判断されることになるのです。
事実と真実の本当の意味を知るためには、2つの言葉の用法的観点、意味と意義の違いについて構造的におさえておく必要があります。
事実は、 世界で実際にある、または起こっている事柄、あるいは、 世界のありのままの記述内容です。
そこに、事実として表される事柄を判断する主観的要素が含まれるとき、それが 事実と一致するかどうかの真偽判定の1つの結果が真実なのです。



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闘病という意味

2024-05-11 04:33:32 | 日記
闘病という意味
 
私も大病をした経験から病気を憎みたくなる気持ちはよくわかる。
痛みや苦しみがあると「こんな病気が憎い」「この病気のせいで、人生が完全に狂ってしまった」と思って当然です。
しかし、今になって考えてみると病気を憎んだところで、いいことは何もない。
むしろ、悪いことがさらに増えることもある。
痛みを憎むと、そこに感情が集中するため、苦しみが余計に強く感じられ、回復への自信が薄れる。
マイナスの感情が免疫力を低下させ、病気の回復を妨げるからだ。
では病気に立ち向かう、正しい姿勢とはなんだろう。
闘病という意味は、回復する自分を想像することだと思う。
日に日に痛みや苦しみが消えて、元気になっていく自分を想像することである。
結果として、普通に生活が送れるようになり、仕事や趣味を通して人生を満喫している自分も想像できる。
まず回復する自分を想像することが大切です。
回復する自分を想像するのはポジティブ思考です。
医学的にもポジティブ思考は、体の免疫機能が向上することが証明されている。
回復する自分を想像していると「ナチュラルキラー細胞」が活性化され体の免疫機能が向上する。
その結果、痛みや苦しみが和らいだり、回復が早くなったりすることがある。
本当の闘病とは、ネガティブに病気を憎むことではなく、ポジティブに戦うことだと思う。

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戦争を終わらせるのは本当に難しい

2024-05-10 04:52:07 | 日記
戦争を終わらせるのは本当に難しい

一度始まった戦争や紛争を終わらせるのは至難の業です。
人間の欲深さの極致の表れで罪深い生き物と改めて知らされる。
覇権主義はその国家としての姿勢で武力行使も一つの方法です。
戦争は普遍的な人権に対して完全に盲目となります。
文化・スポーツ・宗教・経済なとの交流等では終結の糸口さえも掴めない。
目を覆いたくなる悲惨な状況も戦争という名の元では正当化される狂った世界です。
人類の歴史は戦争の歴史と言われるが、人間(国家)の持つ非道な欲望を
封じ込めない限り、この残念な歴史は終わることはないと思うのだが。

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自己表現力とコミュニケーション能力は車の両輪

2024-05-09 04:27:52 | 日記
自己表現力とコミュニケーション能力は車の両輪
 
人は誰でも自分の考え方や感情などの内面を、相手にわかりやすく伝えたいと思っている。
適格な言葉や表情で表現することもあれば、絵画や音楽などの創作品として表現することもある。
表現方法は人によって様々だが、どれも他者に正しく理解されようと思っている。
つまり自分を理解してもらうための強力なツールとなり得る力、それが自己表現力です。
しかし『自己表現力が高いこと』とは、必ずしも『万人に受け入れられやすいこと』とイコールではない。
例えば、自分とは全く異なる意見や感性と接した時に不快に感じたとする。
それは相手の自己表現能力が高かったと言うこともありえる。
考えの異なる人々が自分の意見をきちんと伝え合い、その違いを擦り合わせ理解し合うことがコミュニケーション能力です。
自己表現力を高めるため、読書で多くの言葉を身に付けたり、表現力の豊かな人と接したり、ブログなどで素直な気持ちを表現するのも一つの方法である。
そして、対人的なやり取りにおいて、お互いの意思疎通をスムーズにするためのコミュニケーション能力とは、車の両輪の関係だと僕は思う。
但し、自己表現力もコミュニケーション能力も、自分自身の思考や価値観の基軸をしっかり持つことが前提なのは云うまでもない。

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