山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて

2009-07-03 23:01:54 | 文化・芸術
Santouka081130030

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月2日の稿に
10月2日、雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋

-略-、私の行乞のあさましさを感じた、感ぜざるをえなかつた、それは今日、宮ノ浦で米1升5合あまり金10銭ばかり戴いたので、それだけでもう今日泊まつて食べるには十分である、それだのに私はさらに鵜戸を行乞して米と銭を戴いた、それは酒が飲みたいからである、煙草が吸ひたいからである、報謝がそのままアルコールとなりニコチンとなることは何とあさましいではないか! -略-

岩に波が、波が岩にもつれてゐる、それをぢつと観てゐると、岩と波とが闘つてゐるやうにもあるし、また、戯れてゐるやうにもある、しかしそれは人間がさう観るので、岩は無心、波も無心、非心非仏、即心即仏である。-略-

同宿の或る老人が話したのだが-実際、彼の作だか何だか解らないけれど-、
  一日に鬼と仏に逢ひにけり
  仏山にも鬼は住みけり
鬼が出るか蛇が出るか、何にも出やしない、何が出たつてかまはない、かの老人の健康を祈る。-略-

※文中、表題に掲げた句のほかに、14句を記す

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.16-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.6



―表象の森― 「群島-世界論」-20-

意識の多島海にひとたび漕ぎ出せばもはや単純な帰還はない。世界の、海底での連結の事実に気がつけば、故郷という土地は樹々からこぼれ落ちる種子のように海上に散種され、世界の無数の汀へと流されてゆく。振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。<わたし>こそが水平線であることを発見するからだ。一人一人が自らに絡みつく歴史と政治の緯度や経度が錯綜した水平線を舟とともに曳航し、その<わたし>という水平線の出逢う交点に一つ一つ島が出現してゆく。自らが引きずるのと瓜二つの水平線、時空のはてなき拡がりと炸裂のなかで未知のまま結びあっていたもう一人の<わたし>、<わたし>の分身のような水平線がどこかの海から訪れ来る。背後に置いてきた故郷ではなく、前方にかすむ起源が、未来へと向かう水平線の運動のなかに書き込まれてゆく。

「私は群島」-I am the Archipelago-、<わたし>と<群島>とを、実存をしめすもっとも確固たる等号で簡潔に繋ぐこと。このようにシンプルにして果敢な言葉を発した詩人は、エリオット・ローチ以外にいない。
 -今福龍太「群島-世界論」/20.私という群島/より


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この春はどうやら花の静なる

2009-07-02 23:25:41 | 文化・芸術
Santouka081130016

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―世間虚仮― そのまんま劇場、終幕

昨日の朝刊トップ見出しに「東国原氏の入閣調整」と打った毎日新聞、今朝の紙面では一転「東国原氏起用見送り」とせざるをえなかった、そのまんま東の国政転身戦略に踊らされた騒動劇も、この一夜の、泰山鳴動の顛末でどうやら終幕がぐんと近くなったようだ。
ところが本人はまだまだやる気満々、「私が出馬すれば、自民を勝たせられる」と、ご当地の宮崎で県民相手に曰っている。そのOptimistぶり、ノーテンキな軽薄さは、麻生宰相殿といい勝負だ。

そのまんま東が、これまで宮崎県民の圧倒的な支持を得てこられたのも、またその人気がマスコミを通し全国に波及してきたのも、彼のキャラスタイル、下から目線ならぬ下からの物言いが、権力などとはほど遠い無力な存在の一所懸命さやある種の謙虚さを彷彿とさせればこそである。彼自身云うところの「この国を変える、今回が絶好のチャンス」も、かように自ら条件闘争にまみれていってしまっては、傲慢不遜と映るばかりで、正体見たりとなるは必定、ただ失墜あるのみだということに気づいていないらしい。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.15-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.5




<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「空豆の巻」-15

   茶の買置をさげて売出す  

  この春はどうやら花の静なる  利牛

次男曰く、四吟歌仙の巡をabcd・badcの通例に従えば二花三月の定座の人は次のとおり。初折の表5句目・月-芭蕉、同裏8句目・月-孤屋、同裏11句目・花-孤屋、二ノ折の表11句目・月-芭蕉、同裏5句目・花-岱水。利牛の座はない。
二句上げて9句目、利牛の「花」は孤屋の譲によめものだと容易にわかるが、孤屋自身も定座の花の跡見を「朧月」と作っている。8句目で予め月をこぼしておいた所以だ。

「静なる」が見どころ。前句の「下げて」に即応した言葉択びもさることながら、二句上げて譲られた「花」が飲めや唄えの浮れ気分では具合がわるかろう。

句はこの興行で初めての春季である。雑の句からの移りだから進行に問題はないが、前々から時季の含みを以て読むと、いきなり花の座というのは逆接の印象を免れまい。ならば、気早な老人は八十八夜を待兼ねて古茶を売出す、と前句を茶化した滑稽の気転と読めばよい。茶摘は晩春の季である。利牛は「花の」と作って、もとはしていない。分説すれば主観が表に立ち、人情がらみとなる。裏入から人事句で継いできたこの巻のはこびからすれば、観相とはいえ眺めやる写生体の句が欲しい。利牛の眼のはたらきはそこにもあるだろう、と。


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泊めてくれない村のしぐれを歩く

2009-07-01 16:34:15 | 文化・芸術
Santouka081130036

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月1日の稿に
10月1日、曇、午后は雨、伊比井、田浦といふ家

-略-、朝夕の涼しさ、そして日中の暑さ。今日此頃の新漬-菜漬のおいしさはどうだ、ことに昨日のそれはおいしかつた、私が漬物の味をしつたのは四十を過ぎてからである、日本人として漬物と味噌汁と-そして豆腐と-のうまさを味はひえないものは何といふ不幸だらう。
酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもある、いはば不幸な幸福であらうか、「不幸にして酒の趣味を解し‥」といふやうな文章を読んだことはないか知ら、酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ-ここでまた若山牧水、葛西善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うてニコニコするのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである-。-略-
文末に掲げた句のほか5句を記している

―世間虚仮― ピナ・バウシュ死す

松岡正剛に「ハイパーピース・ダンス-Hyper Peace・Dance-」と献辞を送らしめた舞踊家ピナ・バウシュ-Pina Bausch-が、昨日-6/30-急死したという。

自らは「Tanz Theater-タンツテアター-」と称した、ラバンやM.ヴィグマンとともにドイツ表現主義の舞踊を築いたクルト・ヨースに学び、独自の方法論として開花させたそのDramaticなDanceは、80年代から90年代、世界のModern Danceに衝撃を与えつづけた、といっていい。

まだ68歳、若すぎる死である。癌だったというが、その告知の5日後の、突然の死であった、と。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.14-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.4



―表象の森― 「群島-世界論」-19-

15-6世紀のVeniceは、ヨーロッパ、アジア、アフリカを結んで地球大の拡がりを持ちはじめた海上交通のほとんど唯一無二の要衝として、世界でもっとも多くの知識と情報と文物を集積する能力を持ったことで、かえって事実の領域の彼方へと逸脱してゆくような白熱した知性を生み出した。「世界」という限定された観念の極限を踏み越えてしまう過剰かつ驚異的な事実の数々が、外界への想像力を意識の内面へと反転させ、未知の世界は謎の群島の連なりとして魂の多島海に浮上した。マウロの地図は、そうした新しい心性そのものを描いた精緻な認識地図だった。

近年の、高橋悠治によるバッハの鍵盤作品の演奏と解体をめぐる一連の作業ほど、私の「群島-世界論」へのVisionを鼓舞するものはない。その試みの先には、近代世界の成立を経てヨーロッパ大陸に収斂してきたあらゆる音楽文化の要素と意匠を、ふたたび群島世界の末端へと谺のように送り返したいという、刺戟的な音楽の反-方法論が見え隠れしている。

もちろんバッハは、はじめから高橋にとって西欧近代音楽の殿堂としての権威や正統性の源泉にはなかった。バッハはむしろ、近代の西洋音楽が平均律やHomophonyといった一元的な法則性や形式的演奏行為のイデオロギーによって自らの「音楽」という制度を確立する前の最期の音楽的混沌を体現する、きわめて豊饒な可能性と逸脱の宝庫として捉えられていた。
 -今福龍太「群島-世界論」/19.白熱の天体/より


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