昨夜、アンドレイ・タルコフスキー監督の1986年5月9日公開の遺作、「サクリファイス(犠牲)」を観た。
1986年5月9日と言えば、その年の8月で5歳を迎えるわたしの、3ヶ月ほど前の時、ちょうどわたしの母が末期癌によって死んだ年の月の、たった2日前の日である。
最初に、この「サクリファイス」というタルコフスキー監督の遺作に対する心からの賛美を送りたい。
真に素晴らしく、何ものも飾ることも媚びることもない素朴で静かな完璧な美しい作品であった。
上の写真のシーンは、タルコフスキー監督のこの映画の一つ前の映画である「ノスタルジア」の(古いDVDの)ジャケット写真のシーンと深く重なる光景である。
「ノスタルジア」のレビューについては昨年にAmazonに載せたものが在るので、良かったら(映画を観た後に)御覧ください。
この映画も「ノスタルジア」と同じく、感動に終わるだけの映画ではなく、死ぬまで考察し続けることのできる大変深く、人類全てにとって、深刻なテーマである。
人々は、映画に感動して、その作品が何を暗喩しているのか?自分なりの様々な考察を述べたくなる。
でもその殆どは、間違っているかもしれない。
何故なら本当に優れた作品とは、人間を超越しているものであり、神に近い存在であるからである。
神の御心というものを、人間が本当の意味で知ることはできないであろうし、神に近い作品を人間の浅い考察で結論づけてはならないことを、わたしはわかっているつもりである。
でも人間は不完全であり、愚かだから、例え自分の考えが多くの人を深く傷つけるものだとしても、その想いを、あえて表明したくなる。
一千万分の一の確率としても、もしかすると、正解かもしれないと、想うのである。
わたしが今、この「サクリファイス」という映画を観たのは、真に絶妙なタイミングであった。
もしかすると、晩年のタルコフスキー監督は今のわたしと、同じ苦しみや葛藤を抱えていたかもしれないと感じられるほどだった。
今わたしは、神(聖書の神、エホバ)に、自分を捧げ、すべての存在を滅ぼさないで欲しいという切実な祈りを聴き容れて貰うがために、自分をイエスのように聖書の神に犠牲にする必要があるのだというみずからの考えによって、日々苦しみつづけているところに、この映画を観た。
亡き母が敬虔なクリスチャンであったわたしは最近、クリスチャン達と共に聖書を真剣に学び始めた。
それで今、神への葛藤の為なのか、日々動悸がなくならないほど苦しんでいる。
一番大きな葛藤とは、神は何故、真の愛であられ、何よりも慈悲深い存在であるはずなのに、何故、自分に逆らう存在を永久に滅ぼしてしまおうと考えているのか。というものである。
そして何故、エホバは、生命にとって地獄のように苦しく、耐え難い犠牲を求めるのか。
この「サクリファイス」という映画では自分の住んできた家を、主人公みずからの手によって全焼するシーンがラストにある。
"家"とは、自分が生きる上で必要であり大切なものの象徴、自分の帰る場所の象徴、自分の愛する者たちと、共に生きる場所、そして何より、自分の命(魂)を、入れる器の象徴である。
それをラストで、主人公のアレクサンドルは、そのすべてをみずから焼き払ってしまう。
"全焼"を必要とするのが、聖書の神だからである。
神は人間の罪の贖いの為に、いつも人間にとって身近であり、大事な存在である動物の命の犠牲を要求し、全焼して自分に捧げることを喜ばれた。
聖書では幾度と、命とは、血のうちに存在していると書かれている。
「血を食べてはならない。」とされているのは、血が命であるからである。
生き物は、全焼しなくては、血が残されてしまうだろう。
即ち神は命のすべてを、自分に犠牲にすることを求めておられるのである。
それは犠牲に捧げる対象(動物)の命をあなたのために犠牲にせよと言っているのではなく、そのものを犠牲に捧げる存在(あなた自身、自分自身)のその命を、神(わたし)に捧げなさいと言っていることに他ならないだろう。
そしてその犠牲を捧げる行為は、神との切ることは永遠にでき得ない契約なのである。
契約とは、神との契りであり、交わりを意味している。
それは自分のすべてを捧げ、永遠に神の奴隷として生きることを神に誓う行為である。
主人公のアレクサンドルは、心の何処かで待ち望んでいた、世界戦争(終末)がいよいよ始まり、すべて(全生命、全世界)を救うが為に、聖書や神への信仰をこれまで持たなかったのに、此処に来て、神に祈る以外に、救い出す方法は最早ないのだと覚り、神に自分のすべてを犠牲にするから、どうか救い給えと切実に祈る。
(此処で勘違いしてはならないのは、彼は自分の愛する家族だけを救う為にみずからを神に捧げると祈ったのではなく、すべての存在を救うが為に自分のすべてを犠牲にすると祈ったのである。もし前者であるならば、それはただの神に背く愚かで利己的な祈りである為、決して神は聴き入れることはないと知っていたはずである。)
そしてみずから、友人から"善き魔女"であると教えられたマリアという名の魔女と交わるのだが、魔女とは、如何なる理由があろうと、聖書ではサタン"悪魔"に属する存在である。
何故なら魔女とは、魔術を使う存在であるからだ。
どれほど善なる想いで魔術を使っていたとしても、魔術とは、神にとっては別の支配者である悪魔との関わりなのである。
これを、アレクサンドルが知らなかったはずはない。
魔女と寝るとは、即ち悪魔との契約を意味していること、悪魔に自分を捧げるという意味であることを。
では、アレクサンドルは結句、神に祈っておきながら、神に背いたのだろうか?
わたしは違うと想っている。
アレクサンドルが、何故、聖書の教えを、聖書の知識を知りながらも、神を信仰することをずっと拒んできたのか?
それは、わたしが聖書の学びのなかで育ちながらも聖書の神を信仰することがどうしてもできなかった理由と、もしかしたら似ているのかも知れない。
聖書の神が、真の愛の神であるのか、それとも、人々を善を装って唆す悪魔であるのか、未だに答えは出ず、わからないからである。
子供の時から、エホバを恐ろしく厳しい存在だと感じており、エホバはなんと乱暴で感情的に人々を大量殺戮しておきながら、自分は憐れみ深いのだと教える納得し難い存在であることを感じていたが、30年以上経っても、その感覚はなかなか払拭し難い。
愚かな人間の基準で、神の意図を知ることなどできる筈などないと言われれば確かにそうだと感じる。
でもそう、簡単に納得の行く存在では決してないことは確かなのである。
アレクサンドルが、何十年と聖書の知識を持ちながらも神への信仰に生きることができなかったことは、極自然なことであると感じる。
人は知識だけによって、神を信仰することはできないのである。
でもアレクサンドルは、同時にずっとずっと、聖書の神を畏れて生きてきた。
つまり、聖書の神は、真の神であるのだと、心の底で、彼は信じていた(信じたかったのである。)
だからこそアレクサンドルは、終末が本当に訪れて、何も疑わずに、神へ自分のすべてを犠牲にすると約束する祈りを捧げることができた。
この祈りの行為こそ、神との最初の契約なのである。
アレクサンドルがすべてを救う為にみずからを犠牲に捧げると契約したのは、悪魔ではなく、聖書の神である。
でもアレクサンドルは、聖書の神に背く魔女と交わることで、まず始めに自分の肉(肉体)を捧げる。
妻以外の女と寝ることは神に背く姦淫の罪であり、処刑されるに相応しいほどの大罪であることも知りながら。
わたしが言いたいこととは、アレクサンドルは、今のわたしの考えと同じように、ある独自の神のイメージを、創り上げたのかもしれない。
聖書の神は、確かに愛であるが、同時に、悪魔であるということを。
アレクサンドルは、ラストで陰陽太極図のマークが後ろについた祭祀を行なうような者が着るみたいな黒い着物を着ていたが、あの闇と光が一体となっているマークが、アレクサンドルの信仰を的確に表していると言える。
愛と悪が、共存している存在、"善き魔女"、"善なる悪魔"である存在こそ、この世(地上)を支配する神であると、アレクサンドルは覚ったのかも知れない。
だから、アレクサンドルは、決して神に背いてはおらず、自分の信仰のもとに、確かに映画のあとに、みずからの命を、神に捧げ、その犠牲によってすべてを救うことを(潜在意識で)信じて死んでゆくことだろう。
「ノスタルジア」は、まだ神の全き善良さを信じられる余白があったかもしれない。
でもこの映画は、善だけではない神への犠牲に自分を投げ打って死ぬことをはっきりと暗示している映画であり、まるでわたしの行く末を、観せられたような心地がしている。
そこには、わたしという生命の堪え難い苦しみがあるだろう。
わたしはすべての生命の堪え難い苦しみをなくしてほしいとずっとずっと、漠然と神に祈りつづけてきた人間でありながら、そのわたしが、みずからを拷問にかけて殺さねばならない。
この考えこそが、愛と悪である神への信仰そのものなのかも知れない。