神聖な道の真ん中で死んでいる龜虫の額から流れる緑の血、エホバ。
わたしの罪を、わたしの地獄に堕ちて永遠に滅びんことで赦し給え。
今日、あの悪夢なる日から初めての集会に行って参りました。
もし、サタンに支配された兄弟たちから、この神殿はあなたの入ることのできる場所ではありません。今すぐに、御帰りください。と言われたら、わたしは、何十名もの兄弟・姉妹たちに向かって、こう叫ぶつもりでした。
なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。
また、どうして兄弟に、『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。
しかも、ご覧なさい、自分の目の中には垂木があるのです。
偽善者よ!まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。
そうすれば、兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。
新世界訳1985年改訂版 マタイ七章三~五節
しかし、この言葉は、この聖句を言ったものはだれでも、言った瞬間に、あれ…?それ俺のことやんけ…!と恥ずかしくなる為に在る言葉であって、イエスは、それを知りながら、この言葉を叫んだのである。
つまり、自滅の為の言葉であって、誰ひとり、この聖句を叫んで正義を獲得できる者はいないのである。
でもわたしはそれをわかっていながら、この聖句を、クリスチャンたちの前で叫んでみたかった。
そして、自嘲の極みに達して、嗤いながら昏倒するという体験を、是非ともこの人生でしてみたかった。
だが、それは、叶えられなかった。
何故なら、わたしが王国会館に堂々と死んだ目をしながら入ろうが、好きな後ろから三列目の真ん中の席をすかさずキープして重い腰を据えようが、だれひとり、この空間で、文句を言う人ひとりとていなかったからであった。
そうか!あんな気違いな警察沙汰一度起こしただけじゃあ、誰も!わたしを咎めはしないのか!此処はエホバの民となる者たちの集う神殿である。
わたしの一度の罪、エホバへの冒涜行為なんて、屁みたいなものだったのか。
エホバにとって、屁みたいなものだとみんな想ったからか!
わたしは安堵を覚えていたが、震える手で、沸かしてペットボトルに淹れて持ってきた自然栽培のほうじ茶を飲んだのであった。
わたしの心はまだ震えていた。でも、不思議と、「聖書は実際に何を教えていますか」というチェルシー姉妹とチェルシー兄弟と共に聖書レッスンで学んでいた本を一人で読んで、聖書を開いて、読んでいるうちに、だんだんと、心は落ち着いてくるのだった。
わたしの隣にいつも座っていたチェルシー姉妹は、もういない。
聖書レッスンを一度中断したいと言われた際に、もう隣に座ることもできないと言われた為である。
泣きたいほどの寂しさと悲しみと苦しみであったが、わたしは泣かなかった。
わたしがこのすべての受難に堪えられる力を、エホバがわたしに与えてくだすったからである。
「くだすった」と言うだけで、何故、田舎の農家の、70代の農夫が頭に過るのでしょうか?エホバよ。
愛するエホバ、わたしは諦めなかった。38歳にもなって警察沙汰になり、4人の長老兄弟からほとんど目も合わせても貰えなくなった存在に成り果てようが、わたしは此処に通うことを、諦めなかった。
それはあなたへの愛故です。
本当に、今日4人共、わたしの目を意識的に逸している感じがしました。
このわたしの深い悲しみを、真の意味で、御存知であるのはエホバ、あなただけです。
何故なら、わたしがあなたを愛している限り、あなたはわたしを愛さないでいられないからです。
あなたは、わたしの愛するすべてであり、あなたが存在しないと、わたしが感じるとき、あなたは存在せず、わたしも、存在しない。
わたしは光を喪わない。あなたが居る限り。
わたしが愛さないあなたと、わたしを愛さないあなたは、最早、わたしのあなたではない。
あなたは何者でもない。生きた、何者でもない。
あなたは闇の底の渦。わたしを待ちつづける死と死の子、Ἅιδης。
あなたを永遠に愛するわたしならば、わたしはそこへ向かわん。
わたしは永遠に、死につづける。永遠に、滅びつづける。
あなたと共に。
あなただけと、共に。