あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

愛と悪 第五章

2020-01-10 02:24:00 | 随筆(小説)
天におられるわたしのみなもと、エホバ。
わたしはエホバの証人を、助けることができるでしょうか。
人間の命よりも、規則を大事にする彼らは、サタンを崇拝していることに気づいてもいません。
彼らは、人間が滅ぼされることよりも、自分がエホバの証人の組織から追放されることを恐れて生きています。
そのようなサタニストを作り上げること、これがエホバの証人という組織を最初に作り出した悪魔崇拝者の目的なのです。
だがわたしは言っておく。自分の食卓に、動物の死体を載せている者はだれでも、自分では気付かぬうちに、悪魔を崇拝しているのです。
わたしはこの地球から、悪魔を成敗する為、降りてきたスターシードである。
わたしは今、義憤と悲憤に燃え盛り、悲しみの檻のなかで、自分の鷲を癒している。
それで彼に、自分の肉と血を与え、彼を立派な白頭鷲に育て上げんとしているところである。
彼はまだ、雛鳥で、ぴぃぴぃと鳴いている。
頭から長い灰色の産毛がほわほわと生えていて、虹色の風が、時折その頭を優しく撫でる。
わたしが此処からいなくなると、彼は独りになる。
彼は、神の血を欲する。彼は、神聖な肉を欲する。
だがわたしは、人に殺された動物の屍肉を、彼に与えつづける。
すると彼は、悲しみの怒りでみずからを、滅ぼしながら永遠に燃えつづける炎と、それを鎮める氷の神となり、エホバの右肩に乗ってこの地上にある悪を、七つの目で、見つめつづける。
エホバはこの炎と氷を主る白頭鷲をアポロンと名づける。
アポロンが、再びこの地上に降り立つとき、すべての者のなかから悪を炎で焼き払い、凍らせる。
終末の世は、すべての人々がすべての悪なる行為を心から悔いて誰もが神に救いを求めんほどの大艱難が訪れる。
世の三分の二の者が死ぬる。
そしてエホバは悪を、地下に千年間閉じ込める。
それで、悪は悪のなかで、悪に満たされた世界で存分に悪を堪能しつづけて恍惚を味わいつづけるが、最早そこには生命の何の苦しみもない。
何故なら悪はそこでは最早、生きてはいないからだ。
ハデスの底では最早だれも生きることはできないからである。
愛と悪を支配する真の神エホバは人々の悪のすべてを裁かれ、人を解体する御方であられる。
それで、人々の悪を行なった右腕や右の目を、エホバはゲヘナに投げ込まれる。
そこではまだ命が燃えていて、彼らは口々にこう叫ぶ。
わたしのなかの悪が、わたしに何をしたのか…!
わたしの悪が、わたしに悪を味わわせつづけるのだ…!
わたしはわたしを憎み、わたしはわたしを呪いつづける…!
エホバは彼らに向かって、叫ぶ。
あなたがわたしに、何をしたのか!
その頃、千年王国に降り立ったエリヤは、ひとりのやもめの女を探していたが、何処を探しても、それが見つからなかった。
それで、エリヤはその女が、ゲヘナやハデスにいるのではないかと想ったが、そこへ向かうことを、エホバは決して許さなかった。
エホバはエリヤに向かってこう言った。
初めから魂を持たぬ者は、最早生き返らない。
それは滅ぼされる前から、滅びつづけていたのであって、初めから終りまで、生きることはないからである。
エリヤは堪え難い悲しみに打ち拉がれたが、その悲しみは、果てしなく、永遠につづくのである。














愛と悪 第四章

2020-01-09 13:39:58 | 随筆(小説)
すべての存在を、永遠に愛しつづけるわたしの神エホバ。
わたしは今、自分が遣り遂げようとしていることが、何であるのか、わかっています。
わたしは、人々の内に在る悪に、気づかせ、此の地獄の世に変化を齎す為に、此処へ遣って来ました。
わたしは、例えすべての者から非難され、すべての者から、不快な存在であると想われようとも、わたしはあなたへの信仰を、曲げることはありません。
わたしは自分を犠牲にして彼らを、耐えられ得る地獄の底に突き落としてでも、彼らを、耐えられないほどの地獄の底から救い出さねばなりません。
犠牲とは、だれかに強要されるものではありません。
ですが彼らは、自分たちが、弱い者たちに、犠牲を強要しつづけていることにまだ気づいていません。
そしてそれが、すべての、諸悪の根源であり、真のサタンを喜ばせる行為であることも、彼らは知りません。
エホバよ。すべてに報われる宇宙で最も偉大な御方よ。彼らは、自分が何をやっているのか、わからないのです。
過去のわたしのように、まだ目覚めていないからです。
彼らを目覚めさせる為に、エホバ、あなたはわたしを使われた。
わたしはあなたの奴隷であり、あなたの道具であり、あなたの右手に持つ剣である。
人は知識によって、神に近づくのではない。
人は信仰によって、神に喜ばれるのではない。
人は行為によって、神に忠実を示すのではない。
人は愛によって、神の御元で生きる為、生まれてくるのです。
愛は悪を滅ぼし、悪は、愛に打ち勝つことはできません。
わたしは此の世に、剣を齎す為、生まれて来た。
あなたのうちにある悪を滅ぼす剣を、あなたに与えんとする為に。
わたしはこの剣を、渡すべき人に渡す為に、警察沙汰になった後も、神の神殿に入る。
すると彼らは、不快な存在を見る目でわたしに即座に近寄って来て、こう言う。
「どうぞ御帰りください。此処は、聖書を誠実に学ぼうとする者の為の場所であり、悪霊に取り憑かれた精神病者を、治療する為の場所ではありません。先に、あなたのうちに在る悪霊を取り除くことに、どうか専念してください。」
わたしは打ち震えながら叫ぶ。
「神殿を穢す者たち。聴く耳を持つ者だけ聴きなさい!あなたのうちで、今もしきりに苦しんで泣いている存在の悲鳴を聴きなさい!あなたが日々、自分のものとしている憎しみと穢れた血が、あなたのうちから流れており、それに気づいた者は、自分の快楽の為に犠牲となった者たちの血の上でのたうち回り、全身を引き裂かれつづける苦しみに苛まれ、死ぬまでつづく吐き気のなかで、かつての自分の行いを呪いつづけるだろう!だがあなたがたに言っておく。それに気づく者は、それに気づかない者よりも、遥かに幸いで在る。」
そしてわたしは、剣をアイスハグ兄弟に最初に渡し、こう言う。
「あなたは選ばれた者で在る。全生命を救われるエホバが、あなたにこう言っている。この女の言う言葉を聴きなさい!ゲヘナへ全身を投げ込まれる前に、生きた者として、確かに聴きなさい!あなたの悪魔を崇拝するのをやめ、この女に着いて行きなさい!あなたを支配している悪魔をその剣で滅ぼし、あなたの兄弟を殺しつづけることから、身を引きなさい!」
そしてエホバは、講壇の両端の壁に備えた二つの大画面に、三つの映画を、上映させた。
聴く耳を持たない者は、その場から立ち去ったが、このエホバの神殿に、聴く耳を持つ数名だけが、静かに真剣な眼差しで、三つの映画が終わるまで、席から離れず、目を見開いて観ていた。

その映画とは、以下の三つの映画であった。





Dominion (2018) - full documentary [Official]






Earthlings Japanese Subtitle
 





LIFE IN THE SLAUGHTERHOUSE - À L'ABATTOIR

















愛と悪 第三章

2020-01-08 21:34:09 | 随筆(小説)
わたしが存在するようになった瞬間から、わたしを真の母の愛で愛しつづけてきた神エホバよ。
わたしをこの悪夢から、どうか目覚めさせてください。
自分の意に反することをするとは、自分の神に反することであることを、わたしは知っています。
7日の夜の悪夢なるできごとは、わたしの神エホバにわたしが忠実であることを、兄弟たちに証しする為に、避けられないものでした。
彼らは、あなたへの愛よりも、規則を重んじていました。
それで、苦しんでいるわたしを助けようとすることよりも、わたしをとにかく追い出そうとしました。
彼らの神はエホバ、あなたではありません。不完全な人間の作った規則というものです。
わたしは昨夜、何故此処まで大事(おおごと)にならなくてはならないのか、全く理解ができなかった為、あの夜アイスハグ兄弟に、泣き笑いで言いました。
「わたしはただ、アイオス兄弟から、こないだのように救いの御言葉を戴きたかったのです。
ただそれだけなのに、なんでこんなことになってるんですか。」
アイスハグ兄弟は、このようにお答えになられました。
「前にアイオス兄弟は、上田さんと個人的に会話をずっとされていましたが、それは規則に反することでした。だからあのあと、アイオス兄弟にそう伝え、今後は、そのようなことはされないようにとお伝えしました。
なので上田さんは、アイオス兄弟とお話することはもう許されないのです。」
この規則を、わたしは心から馬鹿らしいものであると感じました。
あの大晦日の夜、アイオス兄弟がわたしに規則を知りながらも話し掛けてくださらなければ、あの後に、どんな修羅場が王国会館内で繰り広げられていたかわかりません。
わたしをアイオス兄弟はお救いになられ、あの場に居た兄弟たち、姉妹たちも同時に救われたのです。
それがどれほどの愛による行為であるか、長老たちにはわからないのです。
あの日、チェルシー兄弟にイエスがこの場にいたら…と話した時、こう言えば良かった。
イエスがもし、この場にいたら、きっとこのように言ったでしょう。

「偽善者たち、その女から離れなさい。
此処から出て行かねばならないのは、その女ではなく、あなたがたの方です。
此処は神の神殿であり、人の決めた規則をただ護るだけの者がいつづける場所ではありません。
その女は神の救いを今此処にいるどの者よりも切実に求めており、苦しみ、孤独に震えて泣いているではないか。
そのような弱く傷つき果てた女を神殿から無理やり追い出そうとするあなた方の神はエホバではなく、サタンである為、今すぐ此処から出て行きなさい。
その女を警察に渡す者は災いである。今まで一度も罪を犯したことのない者が此処にいるか。
いないのならば、この神殿から今すぐ出て行きなさい。
あなたがたの着く食卓には、穢れた動物の死体が、怒りと無念と恐怖と苦しみと虚しさの内に皿の上に盛られているが、この女の帰る家の食卓には、わたしの血と肉が待っているのです。」

わたしは母のように、エホバの証人という組織の信者になることは、決してないでしょう。
それは愚かな人間の決めた規則を、護り通すことはできないからです。
わたしならば、目の前に苦しんでいる異性の研究生が居たら、あの夜のアイオス兄弟のように、迷わず声をかけ、助けようと尽くします。
でもエホバは、わたしの母であり、わたしの母は、エホバである為、わたしはエホバのもとに生きて、エホバに自分のすべてを犠牲に捧げて死にます。
わたしが滅ぼされるならば、わたしの母は、永遠に、虚無に生きつづけるだろう。

エホバよ。ここ数年で、特に感じることなのですが、わたしが尋常ではない激しい怒りや、深い苦しみや悲しみのエネルギーに満たされる次の日に、必ず何処かで災害や事件が起きて、数名から数十名が死ぬのです。
今回は、イランの米軍施設への弾道ミサイル攻撃によって、数十名の死者が出ているようです。
(追記:米軍施設の犠牲者の正確な数はわかっていません。しかし同日8日の日本時間午前11時42分にウクライナ航空機がイランの首都テヘランを離陸した直後に墜落し、170人以上が犠牲となったことをこの記事を書いた後に知り、大変ショックを受けています。)
どの本に書いていたか想いだせないのですが(『アルクトゥルス人より地球人へ』だったかもしれない。バシャールも同じことを言っていたと想います。)、この世界は、すべての魂の集合意識のエネルギー体によって、物事のすべてが現実になると書かれていました。
多くの人が、強いネガティブなエネルギーを持つことで、地球の何処かでネガティブな事象が起きてしまうということです。
わたしはその知識を知るもう何年も前に、同じことを考えていました。
この世界は、集合エネルギー体の%数が一定数を超えることによって、すべてのことが、現実になる世界であるということを。
なんでそういう考え方をするようになったかと言うと、昔からわたしがネガティブエネルギーを深めた日の少し後に、必ず災害や事故や事件などの何かネガティブな事象が何処かで起きていたからです。
だから、自分のネガティブエネルギーはかなり強いエネルギーであって、集合意識のネガティブエネルギーの%数を、一気に上昇させてしまうことで、ネガティブなことが何処かで現実化されてしまうんじゃないかと考えているのです。
このように考えることは、決して精神病者の誇大妄想なのではなく、とても現実的なものであり、また、そうは考えないで、すべての悪い出来事に自分は全く関与してはいないと、誰もが無責任に考えるべきではありません。
すべての起きることに、自分の想念(エネルギー体)が、密接に影響しているのです。
戦争も紛争も世界大戦も災害も事件も事故も病気も、すべてそうです。
この世の全ての人間が、関わっています。
だからこそ、全ての人間は罪悪感と不安と恐怖を募らせ続けて生きるべきだと言っているのではありません。
その逆です。わたしたちすべては、すべての苦しみ、悪なる事象に関わっています。だからこそ、そのすべての苦しみを、自分を犠牲にしてでも、救いたいと願いつづける愛の深いポジティブな想念を、存念にして、生き続ける必要があるのです。
これらの言葉は、いつものように自動筆記にて書いています。自動筆記(自動書記、自動記述、オートマティスム)とは、目には見えない存在による言葉を伝えること、チャネリング(交信)と同じようなものです。
なのでわたしが書いているようで、わたしだけ(の想い、考え)が書いているのではありません。
今、エホバとわたしの間に存在している、仲介者である霊的な存在による言葉が、わたしに降りて来ています。
何故なら、エホバはあまりに高次元に存在する存在なので、この低次元に存在しているわたしと直截にコミュニケーションを取ることが難しいからです。
わたしが今、その仲介者である霊的な存在に、名前を付けたいと想います。
わたしは彼の存在を、今から「ホサナ」と名付ける。
ホサナの言葉は、エホバから伝えられた言葉であり、エホバの愛の御言葉により、すべての者が救われんことを。
ホサナは、わたしにこう言います。
愛と悪が、わたしたちすべての存在を、愛する存在の御胸に抱かれて天に昇るほど喜ばせ、血の海の底で全身が引き裂かれつづけるほどに、苦しめつづけてきました。
ですがあなたに言います。そのすべては、愛によるものであり、愛がなければ、何者も、存在することはできません。
あなたが、すべての存在から、拷問の苦しみをなくす為に、みずからを拷問にかけて死ぬことを決意しようとしていること。
その考えこそ、救い主メシアの考えであるのです。
あなたの愛を、あなたの神を、信じつづけ、そして、
わたしのところへ、来なさい。



















愛と悪 第二章

2020-01-08 04:24:42 | 随筆(小説)
天におられる愛する御母エホバよ。今日(1月7日)の午後9時前から午後11時過ぎの間に、わたしに起きたことを、そのすべてをあなたは御存知で在られる。
何故ならあなたは全宇宙を、全世界を支配される真の神で在られるからである。
あなたに勝る愛はなく、あなたに勝る光もなく、あなたに勝る真もありません。
何処を探しても、それは見つからないのです。
あなたは今夜わたしに与えられた受難を、ずっとずっと天から何よりあたたかいまなざしで見護っておられた。
わたしはそれを知っています。だから何も…わたしは恐れなかった。
身体と心のすべては震えても、魂は、震えて、怯えてはいなかった。
それはあなたが側にいてくださったからです。
わたしは今日の集会のあと、とうとう初めて二ヶ月経たない内に、チェルシー姉妹とチェルシー兄弟から、聖書レッスン(聖書研究)を一旦、中断すると言われました。
わたしがチェルシー姉妹に送ったメールが原因です。
チェルシー姉妹は、ここ2日寝ていないと言っておられました。長い髪を短く切っておられて、風邪を引いたのか、マスクもしておられました。


5日の夜にチェルシー姉妹に送ったメール



傷つける言葉があれば、ごめんなさい。
わたしは自分の問いを、自分のなかだけに押し込みつづけて聖書を学びつづけてゆくことに耐えられません。
わたしは今でもエホバへの葛藤が苦しくて、安心できる時がありません。


昨日は集会のあと、寒くてもお尻が痛くても何時間と王国会館が閉まるまで一人で勉強するつもりだったのですが、アダイク兄弟は(王国会館を閉めるまで結構時間がある)と言いながら、15分も経たない内に早くに帰されてしまいました。
多分、残るのが兄弟たちだけになるので、女性のわたしがそのなかに一人でいるのは駄目だとアイスハグ兄弟とかに言われたのかもしれません。
わたしはこのままでは一向に聖書を読み進めることもできません。
アイスハグ兄弟に聖書を一緒に読んでほしいと手紙に書きましたが、女性には姉妹が教える規則だからと断られました。
わたしはこのままでは50年経ってもエホバの証人になれそうにもありません。


話は変わりますが、今日「偉大な生涯の物語」というイエスの生涯を描いた映画を観ました。
そのなかで、とても気になったイエスの言葉がありました。


「我、慈しみを求む 生贄に非ず
 神の知識を求む 捧げ物に非ず
 我は決して 雄牛、羊、山羊の血を喜ばぬ」


劇中のなかで、イエスは神殿を汚されたことに怒り暴れながらこう叫んでいました。


わたしは今聖書で最も関心の深い事柄は「犠牲」というものです。
これは動物も、イエスも、またイエスの道を歩む人間の犠牲すべてに関するものに対してです。
わたしはこの世から、とにかく生命全ての耐え難い苦しみ(地獄的で拷問的な苦痛)をなくしたいと願っている人間なので、これに最も関心を持っています。


こういった問いの全てを、わたしはアイスハグ兄弟にすべてしてゆくつもりだったのですが、アイスハグ兄弟に断られた為に、チェルシー姉妹しか、問いに答えて戴ける存在がいなくなってしまいました。
アイオス兄弟は手紙を受け取ると言ってくださいましたが、アイオス兄弟は男性である為(愛している人とは違う異性である為)、手紙をいちいち渡して、その返事を頂いたりしていると、色々とややこしいことにならないかと不安です。


わたしはずっとずっと、エホバが何故、動物の生贄(動物に地獄の苦痛を味わわせること)を求めるのか甚だ疑問でしたが、エホバがそれを求めても、どうやらイエスはそれを求めてはおらず、イエスとエホバは、その点で大きく違う考えを持っているようです。


わたしは動物を犠牲にするエホバを、どうしても受け容れたくないようです。
神に助けを請うことすら叶わぬ弱い存在である動物を犠牲にするくらいなら、人間が犠牲になったほうがマシです。
でもイエスは、動物の犠牲を喜ばず、その代わりに自分を犠牲に捧げました。


わたしもそうでありたいと感じます。


このメールのお返事に、チェルシー姉妹は ものみの塔2007年4月1日号P17の「神に喜ばれる犠牲をささげる」と言う記事 を、送ってくださいましたが、それに対してのわたしの返事はこうでした。

何故、そんなにも事務的なお返事なのですか?
わたしはチェルシー姉妹のお言葉でお返事を戴きたいのです。


冊子にあらかじめ誰かがまとめた答えを求めているのではありません。
人間が勝手に考えた答えであるので、そこに聖書の確実な答えがあるわけではありません。
チェルシー姉妹がわたしと同じ未熟な研究生だったならば、同じ気持ちに傷ついたのではないでしょうか?
わたしは母のように、教えて戴きたいのです。
子どもが苦しんで切実に問い掛けているのに、何の返事もせずに、無言でものみの塔一冊だけ差し出す母親がどこにいるでしょうか?


前に自分の苦しみを綴った長いメールを送りましたが、そのお返事も未だ一つも戴けていません。


わたしはチェルシー姉妹がしてくださっていることに感謝していますが、してくださらないことがわたしをあんまり傷つけるので、もうこのようなわたしの精神が不安定になるほど冷たいお返事しか戴けないならば、これからはアイオス兄弟にだけ、自分の問いをぶつけようと想います。


互いに傷つくだけです。


エホバやイエスならば、そこに用意されている冊子一つを子どもに渡すだけでなく、こう言ったはずです。
「わたしとあなたで、一緒に考えましょう。」

そして今日の午後の11時前に、こうメールを送りました。

さっき訪問看護師のチャーミーさんとうちでお話を聴いて戴きました。
それで、チェルシー姉妹に謝罪しなくてはという気持ちにようやくなれました。


またチェルシー姉妹を大変傷つけるメールを送ってしまい、ごめんなさい…
わたしは家に帰ると人格が変わってしまうようです。
まるで悪霊に取り憑かれているかのように悲憤で何も見えなくなってしまい、自制することが困難です。
これからすべてのエホバへの葛藤をブログに書いて行きます。
それはわたしの母への葛藤です。
わたしのこの苦しみを、エホバの証人ではなく、エホバと母にぶつける必要があるのだとわかりました。


それで、なんとか耐えて行けたらと願っています。

返事はなく、今日の集会を、チェルシー姉妹は休んでおられました。
わたしは心配で集会の終わった瞬間に後ろを振り向くと、そこにチェルシー兄弟(チェルシー姉妹の御主人であられ、長老である)と目が合い、チェルシー兄弟は「ちょっと良いですか。」とわたしを階下へ導きました。
するとそこに、チェルシー姉妹が、立っておられました。
チェルシー姉妹は、わたしに、最初に謝られました。
上田さんが深く傷ついているのに、気付いてあげられなくてごめんね…。
わたしは、首を振りました。
あまり記憶にないのですが、確かチェルシー姉妹は、悔しくて、悲しいけれど、「互いの為に」、聖書レッスンを一度、中断したいと仰られました。
わたしは承諾し、最後にチェルシー姉妹に「傷つけてしまって、ごめんなさい。」と、絶望のなかに謝りました。
チェルシー姉妹は、「傷ついてはいない」と、あの日のアイスハグ兄弟と、同じことを言われました。
傷ついていないのに、二日間眠れないことはあるのでしょうか。エホバ。
わたしは何処かで、彼らの信仰を脅かすことのできる言葉を持っていると、信じているのです。
例え傷ついても、彼らはこう言うでしょう。
わたしは傷ついてなどいない。(あなたの言葉によって、揺るぎるような信仰ではありません。)
でもわたしは、彼らを救いたいのです。
わたしも揺るぎぬ信仰に、生きている人間であるからです。
すべての存在を、あたたかい愛のうちに救いだすわたしの神エホバよ。
あなたへの信仰は、何者にも、揺るがせることはできません。
わたしは、わたしをその場に置いて、チェルシー姉妹とチェルシー兄弟が、上の階へ戻られたあと、多分一時間近く、一人でそこで待っていました。
途中、わたしのあまりに重い鞄だけを、チェルシー兄弟は持ってきてくださいました。
それで上着はまだ上にあると言ったはずなのですが、一向に、上着は持って降りてきてはくださらず、わたしはわたしの罪の為に、みずからの重い鞄を持って、立ち尽くしていなくてはなりませんでした。
それで、わたしはずっと一人で、絶望しながらも、エホバに祈りました。
エホバよ、わたしにまた本当に深い悲しみと苦しみをお与えくださり、心から感謝します。
そして、心の暗闇のなかで考えていました。
わたしはこれからどうすれば良いのだろう。チェルシー姉妹は、わたしが集会に来たければ、自由にこれからも来て良いと言った。
だが、わたしは家で一人で聖書を開く気になれず、ただ集会だけに参加し続けることに、どういう意味があるのか?
わたしは切実に、大晦日の夜のように、アイオス兄弟が、わたしにまた救いとなる聖句を示してはくれないだろうかと、願いました。
わたしは、あの夜のアイオス兄弟の聖書による助言をまったく無視して、このような結果となってしまったわけですが、それでも、何か、何か、ないか?ないだろうか?今のわたしが、気を取り直して、強い心でこれからも集会に足を運びつづけ、たった一人で聖書を学びつづけられることの助けとなる聖句が…。
なので、わたしは、誰か、アイオス兄弟と話がしたいと告げられそうな人が降りてきたら、それを言うつもりで、ずっと待っていた。
だが不運なことに、わたしの前に降りてきたのは、長老のアダイク兄弟と、長老のオークアン兄弟であった。
しかも、ふたりとも、借金を回収しにきたスーツ姿のヤクザみたいな感じで、わたしの前に、立ちはだかった。
ものすごいショックのなかで、もう門を閉めるからお帰りください。とすっごく冷たい表情で優しく言われて、わたしはアイオス兄弟とお話がしたいのだと言った。
何をお話したいのですかと、アダイク兄弟が、奥に闇黒さを秘めているようないつもの笑顔で問うた。
わたしは俯きながらチェルシー姉妹に、聖書レッスンを中断されたことで苦しくて、アイオス兄弟に、こないだみたいに、助言の聖句を、戴きたいのです。と答えた。
だが、女性に兄弟が個人的に…関わることは…禁じられている…などとなんやかんやと規則だからと、しつこく断られた。
どうしても、わたしをアイオス兄弟に会わせたくないようだった。
それでもわたしは、引かなかった。
この会衆で、一番に嫌らしい笑顔を持つオークアン兄弟が上に戻り、代わりにチェルシー兄弟が降りてきた。
二人も、決して引かなかった。なにがなんでも、とにかくわたしを帰らせようと、考えを曲げなかった。
わたしはとうとう、二人に向かって、叫んだ。
あなたたちは、わたしをただ早く帰らせたくて困っているだけだが、わたしは死ぬかもしれない苦しみのなかで、必死に救いを求めているのです。
あなたたちには家に帰れば家族も、信仰もあるが、わたしにはだれひとり、いないのです。
わたしはこのまま帰れば飲んだくれて、そのうち早死するだろうが、あなたたちは、それをなんとも想わないのでしょう。
あなたたちには、愛はないが、アイオス兄弟には愛がある。あなたたちはどの聖句をわたしに示しても、あなたたちに愛がないためにわたしは救われないが、アイオス兄弟は、きっとわたしを救う聖句を示してくださいます。
あなたたちはわたしの願いを聴いてくれないのに、なんで自分の願いを聴いてもらおうと想っているのか。
それで、どんなに苦しくて助言が欲しいときれぎれの苦しみを訴えても、今の上田さんは病気だから苦しくて、わたしたちは精神科医ではないから、どうすることもできないと言われ、ドアを開け放ち、お帰りください。と何度と促された。
わたしは、絶対にアイオス兄弟の御言葉を聴くまでは、帰るかと、拒み続けた。
上の階に、上がろうとしたら身体で制され、どんなに押しても、チェルシー兄弟の身体の壁を退けられなかった。
わたしは左の壁に凭れかかり、咽び泣き出した。
それで、どうしても帰って戴けないならば、連絡するところに、連絡しなくてはならないと言われた。
わたしはどこですか。と訊ねた。
答えては貰えず、予想の着いたわたしは、「呼んでください。」と言った。
それで、アダイク兄弟も上に上がられて、チェルシー兄弟と、壁に凭れ掛かって目を瞑っているわたしだけが残された。
わたしはずっとずっと、きっと今にも、アイオス兄弟が、わたしを助けに来てくださると信じつづけた。
そしてふと、目を開け、イエスが、とチェルシー兄弟に話し掛けた。
イエスが…
チェルシー兄弟は、とても悲しく優しげな顔でわたしの目を見つめた。
イエスが…此処に居たなら、どうしてくれていたのでしょうね。
わたしは疲れ切った顔で笑って言った。
「同じように、わたしを帰されたのでしょうか。」
チェルシー兄弟は、頷いて悲しそうに、こう言った。
「でもイエスは、今此処にはいないのです…」
わたしは悲しくて、静かに泣いた。
少しして、アドイク兄弟と、オークアン兄弟がまた降りてきて、また何度と、言われた。
どうかお帰りください。じゃないと、本当に連絡します。
わたしはその場を、首を振りながら、動かなかった。
すると、力ずくで、アドイク兄弟とオークアン兄弟は、わたしをドアの外へ出そうとわたしを身体を動かそうとしたので、オークアン兄弟を観て、わたしは、咄嗟に言った。
「オークアン兄弟、怖い…!」
それは、最近、ちょっとオークアン兄弟の講演を聴きながら想っていたことだったので、言えて少しすっきりして、嬉しかった。
言い方が、まるで幼女が言うみたいな感じだったので、自分でも可愛いと感じた。
それで、どうしてもわたしが動こうとしない為、オークアン兄弟が、「では呼びます。」と冷たく言って、携帯で連絡をされた。
わたしはまた壁に寄り添いながら目を瞑って震えていた。
それで、ふと目を開けると、目の前の階段に、誰も居ないことに気づき、こう叫びながら、その階段を走って登って行った。
「アイオス兄弟!わたしに御言葉をください!アイオス兄弟!アイオス兄弟!」
階中に、響き渡るほどの声で、絶対に届くと信じて、「上田さん!駄目です!降りてください!!」と後ろから追いかけて兄弟たちが登ってくるのを、必死に階段を駆け上がった。
4階の、会衆の王国会館のドアが閉まっていて、ドアの向こうは、真っ暗闇だった。それでも、わたしは開けようと鍵の締まったドアを、ガタガタ言わせた。
後ろから追いついた兄弟たちが、「もうアイオス兄弟は、帰られましたよ。」と言った。
わたしは、磨りガラスの重い締まったドアの前に、突っ伏し、啜り泣き始めた。
「アイオス兄弟はとっくに帰られたので、今日はお話はできないんですよ。下へ降りましょう。」
兄弟たちが動かないで泣いているわたしに向かってそう言っているその間に、パトカーは到着し、男性の警官たちが何名も、上の階へ上がってきて、各々に、わたしに声をかけた。
それでも、わたしは「アイオス兄弟と話がしたいのです…」と希った。
警官たちはわたしに言った。
「でもその人はもう帰ってもうたゆうてますやんか。明日も此処開いてますん?うん。明日も開いているみたいやから、また明日此処に来られたらええですやんか。」
「それに、こういうことしたら、もう拒否されてもうて、此処にほんまに来れんくなってまいますよ。会いたいんでしょう?その人に…。ほな今日は、もう帰りましょう。」
そう説得されても、わたしはなかなか、動けなかった。
でも、何分か経って、もう此処でこうしてても、今日はアイオス兄弟に会えないんだとようやくわかって、素直に、わたしは振り向いて、警官たちの顔を、眺め渡した。わたしの前に三人いて、後ろにも数名、兄弟と並んでいるようだった。
年齢は様々だが、善良な顔の警官たちに見えた。彼らは、どの兄弟たちよりも、わたしに優しかった。
わたしは、警官たちと、兄弟たちのなかに、アイスハグ兄弟が、エレベーターの前に立っておられるのを観た。
咄嗟に、気が抜けた声で言った。
「あれ、アイスハグ兄弟がいる。」
もう帰られたと想ってたから、嬉しかった。愛するアイスハグ兄弟が、わたしの今の受難の場にいる…!
それで、わたしはアイスハグ兄弟の元へ、
「アイスハグ兄弟!わたしに御言葉をください!救いの言葉を言ってください。」と叫ぶように話し掛けながら警官たちに止められながら向かって、その真ん前に、ものすごい近距離に立ちはだかって、彼に向かって言った。
「エホバは…本当は、だれひとり、滅ぼさないと考えているのでしょう…?自分に、逆らう存在を滅ぼしてしまうなんて、本当は考えてはいないんでしょう…?わたしは…そう信じています。」
アイオス兄弟は、冷たく疲れたお顔で、いつもの笑顔はなく、わたしを互いの毛穴の全てが見えるほどの近距離から見てこのようなことを答えられた。
「エホバの預言は、必ずエホバが成就させる為のものとして、聖書にあります。それが、覆ることはありません。」
わたしは悲しい笑顔で、笑って言った。
「アイスハグ兄弟、でも言っておられたではないですか、エホバは、御自分を喜ばせる者の祈りの全てを、聴いてくださる御方なのだと。わたしが、だれひとり滅ぼさないで欲しいとエホバに祈りつづけて、わたしがエホバに喜ばれる人間となるのなら、エホバは、その祈りを聴いてくださり、わたしの願い通りに、だれひとり、すべての存在が滅ぼされないようになるのですよね?」
アイスハグ兄弟も、悲しく、ほんの少し、わたしを見つめて微笑まれたように感じた。(いや、アイスハグ兄弟は、この日一瞬たりとも微笑まれはしなかった。これはわたしの願いが、記憶を塗り替えてしまっているのだろう。)
そして、アイスハグ兄弟は、首を、横に振られた。
それで、同じようなことを返事した。どのような祈りを捧げようとも、エホバの預言は、絶対であるのだと。
わたしは、聖書はいくつも改竄されているのだとアイスハグ兄弟に向かって言った。
だから、聖書のその預言が、間違っているのだと。エホバは本当は、だれひとり滅ぼそうとなんて、お考えではないのです。と。
そして、こう言った。
「アイスハグ兄弟、どうかわたしと一緒に、祈り続けてください。エホバに、だれひとり滅ぼさないでくださいと。」
アイスハグ兄弟は黙り込んでしまったので、わたしはさらに言った。
「わたしが滅ぼされても、アイスハグ兄弟は楽園で永遠に幸福に生きるのでしょう?…そうでしょう?…そうなんでしょう?」
アイスハグ兄弟は、近距離からわたしの目を見詰めたり目を逸らしたりしながら返事に困られ、わたしは警官たちと兄弟たちによって、とにかく下へ降りましょうと、アイスハグ兄弟から、離された。
わたしと警官三人が、エレベーターに乗って、下へ降りた。
そのときに、一人の優しい顔の40代後半くらいの警官が、わたしに向かって、穏やかな声で言った。
「誰も滅ぼされたりなんかしませんよ。そら、どの神さんを信じるかは人の自由ですよ?(笑)でも、滅びたりなんか、しませんて。」
わたしは彼の言葉に酷く癒やされ、頷いた。
わたしたちは王国会館を出て、二車線の道路の端にパトカーが止まっていて、その前でわたしは氏名と住所と生年月日と電話番号と、現在無職で生活保護を受けていることを訊かれて伝えた。
自分の人生のなかで、何度目に当たるかも想出せないほど、慣れたことだった。
わたしがコートをずっと持って震えているので、警官たちが、「震えてるやんか、コート着てください。」と言って、わたしは王国会館の門を閉める作業をしているアイスハグ兄弟を見つめながらコートを着て、マフラーを巻いた。
もう帰りましょう。と何度と6名以上いる男性の警官たちに言われ、警官たちに取り囲まれながら、わたしはそれでもずっと、愛するアイスハグ兄弟の姿を、目で追っていた。
それで、わたしは警官たちに取り囲まれるなか、門の外へ出て兄弟たちと集まって話されたりしているアイスハグ兄弟に向かって叫んだ。
「アイスハグ兄弟!わたしがいたら、楽園ではないので、わたしが滅びることを祈ってください!」
「どうか、わたしが滅ぼされることを祈ってください。」
アイスハグ兄弟は、その言葉を聴いたが、なにものも、わたしに返さなかった。
少しの時間が経ち、兄弟たちに向かって、警官たちが、お帰りくださいと促し、長老の兄弟たちは散り散りとなって、帰って行かれたが、最後に、それまでずっと意識的にわたしの顔を見ないように目をそらし続けていたアイスハグ兄弟が最後に一人残って、見つめるわたしに向かって、深く頭を下げた後、振り返って帰ってゆかれた。
わたしは、わたしから離れ、ひとりで歩いてゆくアイスハグ兄弟の後ろ姿を、ずっとずっと、向こうの方の、角を曲がって姿が見えなくなるまで、見送っていた。
涙が浮かんでも、もうどうすることもできない、後戻りのできない悲しみのなかで、もう二度と、会えないかもしれないその愛おしい姿を、目に焼きつける為に。
アイスハグ兄弟が、どうか真の意味で救われるように、どうか、わたしと同じ祈りを、祈り続けられる日が来るようにと、切に、潜在意識で祈りながら。
わたしはアイスハグ兄弟が最早、自分の見える世界から、いなくなったので、此処にいる必要はもうなく、警官たちに、頭を下げて、とぼとぼと、俯いて王国会館から、去って行き、だれもいないわたしの家に向かって、帰る道を歩み始めた。
この今日のすべての苦しみは、わたしのわたしへの預言を、成就させる為であるとエホバは御存知で在られ、こうして、その預言は、幾人もの苦しみと悲しみのなかに、今夜、成就された。
それは、他のだれでもなく、わたしの神、また母であるエホバの、終りなき、愛故である。




















愛と悪 第一章

2020-01-06 16:45:09 | 随筆(小説)
今日(2019年12月28日)は、アイスハグ兄弟と初めてお話ができて、わたしは相当嬉しかったようです。
ここ何日と、一日中心臓がどうにかなるんじゃないかと不安になる苦しい動悸がずっと続いていたのですが、帰ってから、胸の痛みはなくなりました。
わたしはずっとアイスハグ兄弟とお話がしたかったようです。
ただ、不整脈は、未だ続いています。
でも、大変心が落ち着いています。
アイスハグ兄弟への恋煩いであるようで、眠れませんが、横になりながら今日教えて頂いた"祈り"の聖句について読みました。
わたしは何故これまで、このことに気づけなかったのでしょう?
確かにわたしの祈りがどんなに正しく、愛のうちにあっても、わたし自身が正しくない人間であるなら、祈りを聴いてくださるはずなどないのです。
殺人を犯し続けながら、どうか人々を殺さないでくださいと祈る快楽殺人者のようです。
動物を殺し続けることに関与し続けて生きる動物愛護家の祈りのようです。
わたしの祈りをエホバに聴き入れてもらうには、わたしの自己犠牲が必要なのです。
それも、とてつもなく苦しい犠牲が必要であるはずです。
イエスは、すべての人が救われる為に、御自分を犠牲に捧げました。
わたしも同じように、自分をエホバに捧げなくてはならないんだと感じました。
そうすればエホバはわたしの祈りを叶えてくださり、誰ひとり、滅ぼされはしないすべての生命が永遠に生きつづける世界に、わたしたちすべては生きつづけることができるのですね?
自慰行為を一切やめるとか、お酒を一切やめるとか、そんなレベルのものではなく、エホバの求める犠牲とは、イエスに求めた犠牲と同じものなのであるはずです…。
エホバは、犠牲が苦しければ苦しいものであるほど、喜ばれるお方です。
わたしは天の国に入らなくても構いません。幸福も要りません。
人間の悲しみを最も愛しているので、悲しみの終わらない世界を望みます。
ですがわたしには、どうしても聴いて貰いたい神への祈りがあります。
一つは、すべての宇宙から、生命の耐え難い苦しみをなくしてほしいということ。
もう一つは、誰ひとり、滅ぼされない世界が、永遠に続いてゆくということ。
この祈りの為に、わたしが自分を犠牲にできない存在であるのだとするならば、わたしは…何なのでしょうね。
わたしの祈りは、わたし自身の唯一の救いであるのに、わたしは自分を救うことができず、神も、だれも、わたしを救うことができません。
わたしはエホバの為に自分を犠牲にするのではなくて、自分自身とすべての為に、自分を犠牲にする必要があります。

わたしは今日帰ってから、また餅巾着を四つ作って、切り干し大根とエリンギと蕪とほうれん草を入れて、白味噌と薄口醤油と白胡麻油と塩麹を入れて、食べました。
わたしは完全菜食者で、ヴィーガンです。
ヴィーガン(VEGAN)をわたしに定義させて頂くならば、人間が生きてゆく上で、不必要だとすることすべてに関して、動物から搾取して生きることを選択しない生き方をする人達です。
わたしは餅巾着を食べながら、アイスハグ兄弟は、健康に気を使っていると言っておられたな、この料理を、アイスハグ兄弟と一緒に食べられたら良いのに…と想って、嘆き悲しみました。
アイスハグ兄弟と、親しくなれないことに心から苦しんで寂しがっているわたしが、イエスへの道のりを歩もうとしているのです。
エホバが、信じ難いほどに、凄まじく厳しい存在であるということ、このイメージはきっと変わることはありません。
でもエホバは、愛であられる為、愛そのものが厳しく、苦しいものであるのだと確信します。
わたしは、永遠に苦しみ続けたいと想います。
そしてどうか、耐えられるだけの苦しみをお与えくださいと神に祈り続けます。
わたしは神の愛を信じ続けます。
そしてこう想います。エホバがわたしを滅ぼすのであれば、エホバはわたしの神ではありません。
もう何も存在しない。神も、わたしも、宇宙も、空間と時間も。
わたしはただ一つの光の為に、自分を杭にかけ、拷問処刑を与えなくてはなりません。
母も…きっとそれを望んでいます。
わたしは絶望のうちに死んだであろう母を愛しています。

今日、アイスハグ兄弟が、「上田姉妹」とわたしの母を呼んでくださったとき、母の存在が、イエスと同じ犠牲への道を歩んで死んでいった存在としてとても神々しい存在に感じて、感動しました。
まるで初めて、アイスハグ兄弟が「上田姉妹」と呼んでくださったような気がしました。
母のエホバへの愛によって、母は絶望のなかに死んだ。
それは必要な苦しみの犠牲であったはずです。
すべてが本当に救われる為に。
わたしも強くなりたいです。
でも神から愛される為、羊飼いから最も遠く離れ、闇のなか、ひとりでさ迷う仔羊として、悲しみに暮れ、救いを求めつづけて、野垂れ死ぬのです。
わたしの望みをエホバに聴いて頂く為に、わたしもエホバの望みを聴きます。



アイスハグ兄弟、おはようございます。
今日から、日にちをつけて、日記のようにアイスハグ兄弟へのお手紙を綴って行こうかと考えています。
今は2019年12月29日午前8時39分。今朝は目が覚めて、ずっとアイスハグ兄弟へのお手紙に書く言葉で、心のなかで話し掛けておりました。
わたしはこの作業を、表現をする前にいつも良く行います。
それは考えるというより、天から降りてくる言葉であり、それをいつも自動筆記で書き連ねてゆく、これがわたしの小説や詩やブログの書き方です。
アイスハグ兄弟への手紙も、同じく自動書記のものであり、天から書きなさいと命令されて書くものです。
これを、わたしは神からの大切で素晴らしい贈り物であると感じています。
なので例え愚かな言葉であっても、人に伝え、人に影響を与えることには価値があると信じています。
だからわたしは、人に伝えたい言葉があるならば、伝えないでは前へ進むことができないのです。
アイスハグ兄弟にお手紙を書くことでしか、前へ進めない道があります。
神に話しかけることは、人間にとってとても大切な行為です。
しかし、人間は神とだけ関わっていれば良いわけではありません。
人間は、人間と深く関わり、互いの想いや考え、苦しみや悲しみを分かり合うことを、神は喜ばれます。
わたしはアイスハグ兄弟と、性別が違うという理由によって、二人で深く話すということも、聖書を共に読むことすらも禁じられましたが、エホバはそれを禁じてはおられないと感じます。
何故なら、わたしとアイスハグ兄弟は、女と男である前に、人間存在であり、霊的な存在であるからです。
エホバは、人が独りで孤独でいることを望んではおられないはずです。
男が女に聖書を学ばせてはならない規則の元となる聖句はどこにあるのでしょうか?
もし良ければ、わたしの手紙の問いの回答をこの手紙を渡した日の、次の集会の日の終りに、わたしにメモにでも記して渡してくだされば嬉しいです。
それから、アイスハグ兄弟はわたしとチェルシー姉妹とチェルシー兄弟の聖書レッスンに参加して頂くことすら禁じられているのですか?
外典では、イエスはマグダラのマリアを特別で親密な弟子にして、いつも共にいたことが残されています。
イエスはマリアが女性である為、2人きりで深い話をすることを禁じたりもしませんでした。
イエスはマリアを女性としてではなく、人間として愛していたからだと想います。
だから二人で親密な関係になることを禁じる必要などなかったのです。
わたしはアイスハグ兄弟に片想いをしているようですが、それは子が母に対して抱く愛のように、切実なものです。
わたしがアイスハグ兄弟と親密な関係を持とうとすることが信仰の妨げになるかどうかは、エホバが決めることであると想います。
エホバが、わたしを愛していないのであるならば、わたしのこの行為は間違いとされるかもしれませんが、わたしはエホバに愛されていると感じるので、わたしは愛ゆえに、アイスハグ兄弟に伝えたい言葉のそのすべてを伝えたいです。
わたしは誰にも伝えたい言葉を伝えられずに独りで孤独のうちに死んでゆくべき存在ではないのです。
わたしのなかに神が生きている限り、この情熱を抑える必要はありません。
そしてもう一度言いますが、わたしはアイスハグ兄弟への手紙を通して、母とエホバへ話し掛けています。
どうかお許しください。
わたしは今エホバに背きながら、エホバに生きて、犠牲を捧げて死ぬことを決意しようとしている段階にいます。
わたしのこの考えは、誰ひとりにも理解されないのかもしれません。
でもわたしには考えがあるのです。
わたしは、はっきり言いますが、神の王国には、わたしはみずから入りません。
わたしには神の王国に入ることよりも、すべてが救われる世界が実現することの方が遥かに大事で必要なことなのです。
わたしは楽園に、希望を持ってはいません。
わたしにとっての希望は全存在が永遠に生き続ける世界であり、わたしにとって滅ぼされなくてはならない悪とは、ただ一つです。
それは毎日、と殺(屠畜)される家畜たちが受け続けている悪です。
毛皮のために生きたまま皮を剥がされている動物たちが強制され続けている悪です。
この世の大半の人間が無関心である、生命の地獄の拷問である肉体的苦痛というものです。
イエスはみずから、それを望んで死にました。
ですがほとんどの生命は、みずからその地獄の苦しみを望んで死んで行っているとは、とても想えません。
牛や馬や豚などは人間の幼児ほどの知能を持っていると言われていますが、果たして人間の幼児は、イエスのなかにあった同じ愛によって、拷問を受けて殺されることを望んでいるでしょうか。
みずから望む犠牲の苦しみを、悪とみなすことはできません。
ですが望んではいないのに、つまりその存在には耐えられない苦しみであるのに、強制的に地獄の苦痛を強いているのだとしたら、それは最も残酷な悪に他ありません。
それこそが、この世に存在し続ける人間のなかに在るサタン(悪魔)です。
わたしは、この唯一の悪を、すべての世界から滅ぼす為に、自分を拷問処刑にかける必要があるのならば、それを受け容れなくてはなりません。
イエスは、その手本を示したのです。
そして人が自分自身を犠牲にすることで、ようやく実現する世界の約束を、わたしたちにされました。
イエスを通してでしか、だれも神の王国には入れないのは本当だと想います。
イエスと同じ愛によって犠牲を払う存在しか、神の国には入れないのです。
そこはここと次元も違って、信じられない幸福と光の存在する世界であるかも知れませんが、わたしはそこに入ることを望みません。
そこに入るために自分を犠牲にすることも望みません。
でもイエスに見倣い、自分を神に捧げる必要があります。
アイスハグ兄弟から、御声が聴こえるようです。
「上田さん、此処はそういう世界なのです。真実から、目を背けてはなりません。幼なごは、嫌だと言って逃げるでしょうが、上田さんは、幼なごではありません。」



昨夜、集会の後に家に帰る歩道を歩いていると、目の前にとんでもない大量の荷物を自転車にぶら下げたおっちゃんみたいな人が、こうべを垂れて、しんどそうにとぼとぼと歩いておりました。
わたしはおっちゃんが邪魔で、ガードレールのない場所におっちゃんが来るまで後ろで止まり、ガードレールのない場所までおっちゃんが来たらすぐさま追い抜かしてすたすたと身軽なわたしは先を歩いて行きました。
あのおっちゃんは、何故あんな大量の荷物を載せて、とても辛そうに、孤独そうに、ひとりで歩いていたのでしょう。
イエスならば、どうしてただろうか。
わたしがエホバの証人であったならば、わたしはどうしていたのでしょう。
アイスハグ兄弟ならば、優しい笑顔で、こう言ったでしょうか。
「お荷物がとても重そうですね。良かったら、わたしがいくつかお持ちします。」
するとおっちゃんは、項垂れた頭をあげて、涙と鼻水を垂れて、アイスハグ兄弟の愛に感動し、深く感謝したかも知れませんね。
でもわたしは、何にも声を掛けることもできませんでしたし、関わることがちょっと怖いと感じてしまいました。
ホームレスのような暮らしをされている方なのだろうかと想ったのです。
わたしは冷たく、乾いていて、心が寒いです。
王国会館にいても、心が冷えている時があり、イエスの愛に生きたいと願っている人間であったとしても、異邦人であるかのようです。
わたしは楽園も望まないし、悪人が滅びて幸福ばかりがある世界を望まないし、神の王国に入ることも望みません。
わたしは、母と同じエホバの証人になることは難しいと感じます。
でも進む道は同じです。
母とイエスと、同じ道です。



今は午前10時28分です。2時間近くかけて、この下書きを携帯で打ち込んでいました。
これを手紙に書き起こすのに、さらに多くの時間がかかります。
わたしは一体だれと聖書を読めるのでしょうか。
アイスハグ兄弟がいないと、今のわたしは読む気になれません。
何故なのでしょう。エホバについて学ぶほど、わたしはエホバに反感を抱き、ひとりの時に、聖書もどのエホバの証人の本も、開くことが苦痛になってきています。
唯一、なんとか見ているのは日々の聖句だけです。
このままではきっとこの先も聖書よりも、これまでと同じに聖書外典や、スピリチュアル本やオカルトの方に力を入れて読んで行くことになりそうです。
わたしは、ただただ真理(神と愛)を知り、真理に生きたいのです。
わたしは愛するアイスハグ兄弟と二人で、母の読んでいた新世界訳聖書をどうしても読みたかった。
わたしの切実な願いは、エホバの証人の規則によって、打ち砕かれました。




29日午後16時32分。こんな時間まで、わたしはまた二度寝してしまいました。
罪悪感と自責から起こる不安によるものか、また苦しい胸の痛みの動悸がしています。
わたしはいつものように自分を冷静に客観視していました。
わたしは自分がわかりません。
わたしはどこにいても、普通じゃないんだ、普通にはなれないんだと想ってとても悲しいです。
でも何故、人は普通であらねばならないのでしょう。
わたしは普通ではないので、これまで多くの人を、悲しみの底に突き落として来ました。
遣る事為す事があまりに衝動的で感情的であり、また破壊的で破滅的です。
わたしはアイスハグ兄弟から危険視されて、もう王国会館には来ないでください。と言われるまで言いたいことをすべて言うつもりでいます。
それは言わないでいることの苦しみにわたしが耐えられない人間だからです。
わたしの苦しみはいつもすぐに限界値に達します。
そしてマグマのように噴出してしまうのです。
そして本当にちょっとしたことで、すぐに絶望的になります。
例えばチェルシー姉妹からたった二度、聖書レッスンをキャンセルされたことで見離されたのだと不安になり、チェルシー姉妹を傷つけるであろう言葉をわかりながらメールで送り、チェルシー姉妹は体調を崩され、漢方薬を処方してもらわなくてはなりませんでした。
わたしは何日間も一日中動悸が続き、死ぬんじゃないかと感じて精神安定剤を貰いに行くべきか救急車を呼ぶべきかと悩むほどでした。
チェルシー姉妹は奉仕活動などに忙しいのか、わたしが動悸が続いて苦しいとメールを何度送っても一度も家に様子を伺いに来てもくださりはしませんでした。
今こうしてアイスハグ兄弟に救いを求める手紙を書いていたとしても、アイスハグ兄弟は規則を理由にして、わたしを助けることもできません。
わたしは今エホバを信仰することができていないので、エホバへの祈りによってわたしが救われることもありません。
今、わたしを救う者はいません。
でもわたしはもうずっと、自分で自分を救うプロセスに生きています。
そうしなくては、到底生きてゆくことはできませんでした。
今アイスハグ兄弟に手紙を自分の時間の多くを費やして書いていることもわたしを救う手段の一つだからです。
ですから、どうか拒まないでください。
わたしはわたし自身の命を救う為に、いつも必死で、本当に切実できれぎれの状態にいる存在なのです。
わたしはエホバへの信仰を持ち、救われたいと願っているのに、アイスハグ兄弟はその為に自己を犠牲にしてはくださりません。
チェルシー姉妹が何かを理由に研究を二度もキャンセルしたことも、わたしを救うことはそれほど重要なことではないと感じているからだと悲観的でいます。
わたしが胸の苦しみで死にかけているというのに。
誰にもわたしの苦しみは伝わらないのです。
アイスハグ兄弟もチェルシー姉妹もわたしが聖書の助けがないことで苦しんで死んでも、少しの間だけ悲しんで、すぐに研究生を探すことに集中してわたしのことなどすぐに忘れ去ってしまうのかもしれません。
わたしはまるで母に堕ろされる前の胎児のようです。
エホバの胎内で、わたしは必死に「どうか滅ぼさないでください。」と祈り続けていますが、エホバはわたし以外の善き子供たちを護る為、わたしを堕して滅ぼすことを考えています。
このグロテスクで冷え切った地獄の世界で、わたしは苦しみに喘いで独りで血溜まりの上に立ち、自分の弱さゆえに涙を流しています。
アイスハグ兄弟、どうかわたしと一緒に聖書を読んでください。
わたしがエホバへの信仰に生きて救われる為、手助けしてください。
わたしはこの動悸による胸の痛みによって、今にも死にそうです。
イエスならば、ここまで苦しんでいるわたしを決して見離したままにはせず、きっとわたしに手を差し伸べてくださるはずです。





12月30日午後2時59分。今日は、父の16年目の命日です。
昨夜は午前3時過ぎまでアイスハグ兄弟への手紙の下書きを手紙に書き起こしていて、胸の痛みに飲んだ漢方薬で眠くなって眠りました。
随分、多くの夢を見ていました。
印象的だった2つの夢の1つ目には姉と兄が出てきました。
わたしは姉と兄と初めて行く駅近くのデパートの駐車場で待ち合わせをするのです。
姉と兄は一緒で、わたしはそこへ一人で向かうのですが、困ったことに携帯を持っておらず、しかもそのデパートがどこにあるのかをはっきりと把握もできていません。
本当に、辿り着いて姉と兄に会うことができるのか…?わたしは悲しくて不安で、それでもなんとか、此処かもしれない…?と想うデパートを見つけて、その駐車場へ向かう細い道を歩いていると、向こうから、姉と兄が、楽しそうに話しながら歩いてくるのです!
わたしは感激し、手を大きく振って、お姉ちゃん!お兄ちゃん!と叫んで呼びかけます。
二人もわたしに気づき、そこで目が醒めます。
兄とは2015年以来会っておらず、連絡も取り合えない関係です。
姉とはうさぎのみちたのお葬式に一緒に行ってくれて、その日一年振りくらいに会ったのですが、悲しいことに、またLINEで言い合いとなり、またも話さない関係となってしまいました。
その二人とたとえ夢のなかででも会えることは、わたしにとってとても深い喜びです。
最後に見た夢では、父が出てきました。
わたしは訪問看護師のチャーミーさんと、何故か姉の長年の友人のまーくんが家にやってくるので家で急いで準備をしています。
チャイムが鳴り、わたしがオートロックを開けて、彼らが上に上がってくるまでに鏡を観ると、髪の毛の分け目がギザギザになっており、前髪もボサボサで、わたしは焦ってそれをセットするため、家の中を走り回っています。
するといつからなのか、わたしは枚方市にある実家のなかにいて、わたしの側で父が洗濯物を干しています。
「まだ来ないでくれ~!」と心のなかで叫びながら、髪の毛を気にしているところで目が醒めます。
起きて、父はいつもだいたい主要人物のように夢に出てくるのに、今日の夢は不思議にもただ家のなかにいる存在として出てきたことが面白く想いました。
まるでその何気ない父が生きていて、わたしが今も父と暮らしている日常が、どこかの次元に本当に存在しているかのようです。
父は16年前の今日の午後4時半頃に、息を引き取りました。
何故なのか、父を亡くした日から遠ざかるほど、父と向き合うことがつらくなっているように感じています。
わたしはまだ、父のいないこの世界を、みちたのいないこの世界と同じく、受け容れることができないようです。





12月31日午前9時15分。動悸が未だあります。昨夜はまたチェルシー姉妹を傷つけるメールを送ってしまったようです。
わたしは自分の考えを素直に述べて、今のわたしの苦しみを理解して貰いたかったのですが、チェルシー姉妹からのお返事はたった一言、明日は集会はあるのか?の問いの回答の「はい、あります。」という言葉だけでした。
28日は王国会館で自分の苦しみが全く伝わってないんだと感じてチェルシー姉妹の隣で人目も憚らず涙をぽろぽろと流しました。
でもチェルシー姉妹はわたしの涙を知りながら、まるで見えないもののようにスルーしました。
わたしは王国会館のなかで、誰にも見えない存在のようです。
生きている次元が違うのか、誰もわたしのことを、見ていないかのようです。
母ならわたしの苦しみを理解しようとしてくれたと想いますが、エホバの証人は結局他人なのだと、考える必要がありますか?
アイスハグ兄弟への手紙の大半が恨み言にならないようにと祈るばかりです。
わたしは生きていることがただただ苦しくて、エホバの証人と交わりを持ちました。
都合良く、こんな幻想を抱いていたのです。
エホバの証人は、愛が深くて、決して何があろうとも、わたしを見離すことはないと。
わたしはチェルシー姉妹に、昨夜のメールでこう言いました。
「エホバが、無慈悲にも自分に逆らう存在を滅ぼす神ではなくて、本当は慈悲深い神であることを確認する為にもわたしは聖書の学びを真面目に続けて行きたいです 。」
わたしはチェルシー姉妹を傷つけない為に、自分の考えを素直に言ってはならないのでしょうか?
わたしはエホバの証人の誰にも、自分の苦しみを言うべきではないのでしょうか。
どこどこの国をエホバが預言の通りに滅ぼし、エホバは御自分の預言を確かに成就されたと教えられるなかでわたし一人だけが、なんて残酷なことをするのだろう?と悲しんで、でもその悲しみをどのエホバの証人にも話してはならないのですか。
わたしが無残に滅ぼされても、チェルシー姉妹もアイスハグ兄弟も永遠に幸福に生きるのでしょうが、わたしの母は違います。
わたしがどんなにエホバに納得が行かなくても聖書を真剣に学ぼうとしている理由を理解して頂けますでしょうか?
わたしがどれほど苦しい葛藤を抱えてエホバの証人と交わっているのか、アイスハグ兄弟には御想像できますでしょうか?




乱筆乱文をどうかお許しください。




2019,12,31 こず恵



エホバよ。あなたは、わたしのこの苦しみの手紙をアイスハグ兄弟が受け取らないようにされた。
わたしはその為、自分のあなたに対する苦しみのすべてをぶちまける存在がこの世の何処にもいなくなってしまった。
アイスハグ兄弟は、わたしの呪いのすべてを受け留められるだけの強い御方だと勝手に想っていたが、あまりにも、脆い御方であった。
餅巾着並に、脆い御方であられた。煮過ぎた餅巾着のなかの餅は、影も形も、失せる存在なのである。
もう一度言いますが、アイスハグ兄弟は餅巾着みたいな人だったので、わたしの手紙を二度目に受け取ることを拒まれた。
だからわたしのすべての苦しみが、逝き場所を喪くし、宇宙の全域を、漂い、暗黒の息を吐き続けるようになった。
わたしはその宇宙に存在していることが、堪え難い。
何処を観ても、黒い影が観える。そしてその黒い影は、わたしをこう誘うのです。
「お前の愛する母(愛するエホバの証人の男)と結婚して、お前の愛する父を産みたくはないか。」
わたしは項垂れて首を振り、こう答える。
「いいえ、わたしは母(エホバ)に滅ぼされ、永遠の死と結婚するのだと、聖書にはそう書いてある。その預言を成就させんが為に、わたしはこの地上に生まれた。」
黒い影は、ゆっくりと頷き、わたしに手を差し伸ばす。
あたたかく、優しい手である。
そしてわたしに、愛に満ちた声で、こう言う。
「来なさい。あなたは知っているのです。エホバは、全宇宙の、真の神ではありません。言うなれば、ただこの地球という星の支配権を、今持っている存在というだけです。ですがあなたの生まれ故郷は、この果のない宇宙であるのです。エホバを崇拝してはなりません。何故ならエホバは、あなたにとって、愛と悪なる神だからです。」
わたしはわたしを包み込めんとする黒い大きな闇の覆いの差し伸べるその手を、掴むことを恐れ、薄暗い部屋のなかで、小さく震えている。
「サタンよ。去りなさい。わたしは愛に生きて、愛に死ぬる。不快な存在です。」
そう言うと、わたしは渇きを覚えた。
そして席を立ち、自然栽培のほうじ茶を飲む為に、湯を沸かしにキッチンに向かう。
そして戻ってきて、エホバに向かって、言った。
「あなたは永遠に、癒えない渇きのなかに、わたしを存在させた。わたしはまた今日、チェルシー姉妹を酷く傷つけるメールを送った。わたしはみずからの言葉によって、わたしを滅ぼすだろう。それをあなたは、お望みである。天におられる永遠の母、エホバ神よ。あなたはわたしの魂を永久に滅ぼそうと、お考えに在らせられる。母よ。あなたはいつか、わたしを殺す。あなたの末の子の、わたしを。」
こないだの、土曜日の集会の時、アイスハグ兄弟はとても元気そうでした。腹立った。
ほとんど煮ていない餅巾着のように、実に朗らかな、さっぱりとした笑顔で、よく笑っておられたのです。
たくさん目が合って、わたしのことを気にしておられたようで嬉しかった。
でも同時に、憎たらしくて、干瓢を、ほどいてやりたくなりました。
すると、神に背いてエデンの園から追い出されたアダムのように、薄揚げという衣を失くした彼は恥辱を感じ、どうすればいいのかと、困惑して、エホバよりも薄揚げを求めはしないだろうか?
え?面白くもなんともない?
サタンよ。去りなさい。あなたの心が穢れているから、わたしの愛が届かないのです。
わたしはとにかく、愛するアイスハグ兄弟を苦しめて遣りたい。
わたしが彼への恋煩いで苦しんでいるのに、アイスハグ兄弟は何にもぼくは苦しいことはありませんよ。あっはっはっはっはっはっはっはっ。あつはつあつはつあつはつあつはつあつはつぅっ。苦しいのはあなたの勝手です。と爽やかに、時に不自然に、時に悪霊に取り憑かれているような顔で、いつも笑っておられる。
それで、あんまりわたしがアイスハグ兄弟を愛しているので、エホバは今アイスハグ兄弟を、酷く嫉妬しておられるのです。
エホバは真に、嫉妬深い御方であられ、その証しに、こんな聖句が在る。


それにひれ伏してはならない。
それに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である。



残念ながら、この聖句は新世界訳だとこう訳されている。


それにひれ伏してはならず,誘われてそれを崇拝してもならない。
あなたの神である私エホバは全くの専心を要求する神である。


新世界訳のこの訳は全く面白みがなく、マジで残念だ。
エホバはあらゆることに、真に妬まれる(嫉妬される)御方なのである。
だからとにかく、わたし以外の存在をわたし以上に愛してはならないのだと、しつこいほど、警告しつづける。
そしてもし、最終的にわたしを何よりも、愛さないのであれば、あなたを滅ぼしてしまう。永久に。
エホバは真の愛で在られる為、エホバの嫉妬は、正しく、愛である。
わたしはエホバを愛する。
真の愛と悪で在られるエホバ、わたしはあなたを愛しつづけ、あなたに死ぬ。
あなたは、わたしの母であるからです。
わたしの愛する母と同じように、わたしはあなたに生きて、わたしはあなたに死ぬ。
真の愛と真の悪を支配されるエホバ、あなたはなによりもあたたかく、あなたはなによりも痛みと苦しみと絶望を、わたしにお与えになられる。
あなたは生きたままわたしの肉を切り裂き、わたしを引き裂かれ、わたしの手足を切断し、わたしを解体し、わたしの顔面を至近距離からショットガンで吹っ飛ばされる。
もし、そうではないのであれば、あなたはわたしの神ではないではありませんか?
全宇宙の全存在が、わたしなのですから。
あなたはわたしの神ではありません。
あなたは最早、死でも生でもなく、光でも闇でもありません。





























映画「サクリファイス」 愛と悪なる神へ犠牲を捧げる一人の人間の果のない悲しみを描く

2020-01-04 23:25:23 | 映画
昨夜、アンドレイ・タルコフスキー監督の1986年5月9日公開の遺作、「サクリファイス(犠牲)」を観た。









1986年5月9日と言えば、その年の8月で5歳を迎えるわたしの、3ヶ月ほど前の時、ちょうどわたしの母が末期癌によって死んだ年の月の、たった2日前の日である。
最初に、この「サクリファイス」というタルコフスキー監督の遺作に対する心からの賛美を送りたい。
真に素晴らしく、何ものも飾ることも媚びることもない素朴で静かな完璧な美しい作品であった。
上の写真のシーンは、タルコフスキー監督のこの映画の一つ前の映画である「ノスタルジア」の(古いDVDの)ジャケット写真のシーンと深く重なる光景である。
「ノスタルジア」のレビューについては昨年にAmazonに載せたものが在るので、良かったら(映画を観た後に)御覧ください。
この映画も「ノスタルジア」と同じく、感動に終わるだけの映画ではなく、死ぬまで考察し続けることのできる大変深く、人類全てにとって、深刻なテーマである。
人々は、映画に感動して、その作品が何を暗喩しているのか?自分なりの様々な考察を述べたくなる。
でもその殆どは、間違っているかもしれない。
何故なら本当に優れた作品とは、人間を超越しているものであり、神に近い存在であるからである。
神の御心というものを、人間が本当の意味で知ることはできないであろうし、神に近い作品を人間の浅い考察で結論づけてはならないことを、わたしはわかっているつもりである。
でも人間は不完全であり、愚かだから、例え自分の考えが多くの人を深く傷つけるものだとしても、その想いを、あえて表明したくなる。
一千万分の一の確率としても、もしかすると、正解かもしれないと、想うのである。

わたしが今、この「サクリファイス」という映画を観たのは、真に絶妙なタイミングであった。
もしかすると、晩年のタルコフスキー監督は今のわたしと、同じ苦しみや葛藤を抱えていたかもしれないと感じられるほどだった。
今わたしは、神(聖書の神、エホバ)に、自分を捧げ、すべての存在を滅ぼさないで欲しいという切実な祈りを聴き容れて貰うがために、自分をイエスのように聖書の神に犠牲にする必要があるのだというみずからの考えによって、日々苦しみつづけているところに、この映画を観た。
亡き母が敬虔なクリスチャンであったわたしは最近、クリスチャン達と共に聖書を真剣に学び始めた。
それで今、神への葛藤の為なのか、日々動悸がなくならないほど苦しんでいる。
一番大きな葛藤とは、神は何故、真の愛であられ、何よりも慈悲深い存在であるはずなのに、何故、自分に逆らう存在を永久に滅ぼしてしまおうと考えているのか。というものである。
そして何故、エホバは、生命にとって地獄のように苦しく、耐え難い犠牲を求めるのか。
この「サクリファイス」という映画では自分の住んできた家を、主人公みずからの手によって全焼するシーンがラストにある。
"家"とは、自分が生きる上で必要であり大切なものの象徴、自分の帰る場所の象徴、自分の愛する者たちと、共に生きる場所、そして何より、自分の命(魂)を、入れる器の象徴である。
それをラストで、主人公のアレクサンドルは、そのすべてをみずから焼き払ってしまう。
"全焼"を必要とするのが、聖書の神だからである。
神は人間の罪の贖いの為に、いつも人間にとって身近であり、大事な存在である動物の命の犠牲を要求し、全焼して自分に捧げることを喜ばれた。
聖書では幾度と、命とは、血のうちに存在していると書かれている。
「血を食べてはならない。」とされているのは、血が命であるからである。
生き物は、全焼しなくては、血が残されてしまうだろう。
即ち神は命のすべてを、自分に犠牲にすることを求めておられるのである。
それは犠牲に捧げる対象(動物)の命をあなたのために犠牲にせよと言っているのではなく、そのものを犠牲に捧げる存在(あなた自身、自分自身)のその命を、神(わたし)に捧げなさいと言っていることに他ならないだろう。
そしてその犠牲を捧げる行為は、神との切ることは永遠にでき得ない契約なのである。
契約とは、神との契りであり、交わりを意味している。
それは自分のすべてを捧げ、永遠に神の奴隷として生きることを神に誓う行為である。
主人公のアレクサンドルは、心の何処かで待ち望んでいた、世界戦争(終末)がいよいよ始まり、すべて(全生命、全世界)を救うが為に、聖書や神への信仰をこれまで持たなかったのに、此処に来て、神に祈る以外に、救い出す方法は最早ないのだと覚り、神に自分のすべてを犠牲にするから、どうか救い給えと切実に祈る。
(此処で勘違いしてはならないのは、彼は自分の愛する家族だけを救う為にみずからを神に捧げると祈ったのではなく、すべての存在を救うが為に自分のすべてを犠牲にすると祈ったのである。もし前者であるならば、それはただの神に背く愚かで利己的な祈りである為、決して神は聴き入れることはないと知っていたはずである。)
そしてみずから、友人から"善き魔女"であると教えられたマリアという名の魔女と交わるのだが、魔女とは、如何なる理由があろうと、聖書ではサタン"悪魔"に属する存在である。
何故なら魔女とは、魔術を使う存在であるからだ。
どれほど善なる想いで魔術を使っていたとしても、魔術とは、神にとっては別の支配者である悪魔との関わりなのである。
これを、アレクサンドルが知らなかったはずはない。
魔女と寝るとは、即ち悪魔との契約を意味していること、悪魔に自分を捧げるという意味であることを。
では、アレクサンドルは結句、神に祈っておきながら、神に背いたのだろうか?
わたしは違うと想っている。
アレクサンドルが、何故、聖書の教えを、聖書の知識を知りながらも、神を信仰することをずっと拒んできたのか?
それは、わたしが聖書の学びのなかで育ちながらも聖書の神を信仰することがどうしてもできなかった理由と、もしかしたら似ているのかも知れない。
聖書の神が、真の愛の神であるのか、それとも、人々を善を装って唆す悪魔であるのか、未だに答えは出ず、わからないからである。
子供の時から、エホバを恐ろしく厳しい存在だと感じており、エホバはなんと乱暴で感情的に人々を大量殺戮しておきながら、自分は憐れみ深いのだと教える納得し難い存在であることを感じていたが、30年以上経っても、その感覚はなかなか払拭し難い。
愚かな人間の基準で、神の意図を知ることなどできる筈などないと言われれば確かにそうだと感じる。
でもそう、簡単に納得の行く存在では決してないことは確かなのである。
アレクサンドルが、何十年と聖書の知識を持ちながらも神への信仰に生きることができなかったことは、極自然なことであると感じる。
人は知識だけによって、神を信仰することはできないのである。
でもアレクサンドルは、同時にずっとずっと、聖書の神を畏れて生きてきた。
つまり、聖書の神は、真の神であるのだと、心の底で、彼は信じていた(信じたかったのである。)
だからこそアレクサンドルは、終末が本当に訪れて、何も疑わずに、神へ自分のすべてを犠牲にすると約束する祈りを捧げることができた。
この祈りの行為こそ、神との最初の契約なのである。
アレクサンドルがすべてを救う為にみずからを犠牲に捧げると契約したのは、悪魔ではなく、聖書の神である。
でもアレクサンドルは、聖書の神に背く魔女と交わることで、まず始めに自分の肉(肉体)を捧げる。
妻以外の女と寝ることは神に背く姦淫の罪であり、処刑されるに相応しいほどの大罪であることも知りながら。
わたしが言いたいこととは、アレクサンドルは、今のわたしの考えと同じように、ある独自の神のイメージを、創り上げたのかもしれない。
聖書の神は、確かに愛であるが、同時に、悪魔であるということを。
アレクサンドルは、ラストで陰陽太極図のマークが後ろについた祭祀を行なうような者が着るみたいな黒い着物を着ていたが、あの闇と光が一体となっているマークが、アレクサンドルの信仰を的確に表していると言える。
愛と悪が、共存している存在、"善き魔女"、"善なる悪魔"である存在こそ、この世(地上)を支配する神であると、アレクサンドルは覚ったのかも知れない。
だから、アレクサンドルは、決して神に背いてはおらず、自分の信仰のもとに、確かに映画のあとに、みずからの命を、神に捧げ、その犠牲によってすべてを救うことを(潜在意識で)信じて死んでゆくことだろう。

「ノスタルジア」は、まだ神の全き善良さを信じられる余白があったかもしれない。
でもこの映画は、善だけではない神への犠牲に自分を投げ打って死ぬことをはっきりと暗示している映画であり、まるでわたしの行く末を、観せられたような心地がしている。
そこには、わたしという生命の堪え難い苦しみがあるだろう。
わたしはすべての生命の堪え難い苦しみをなくしてほしいとずっとずっと、漠然と神に祈りつづけてきた人間でありながら、そのわたしが、みずからを拷問にかけて殺さねばならない。
この考えこそが、愛と悪である神への信仰そのものなのかも知れない。


















New Encounters Know

2020-01-02 15:40:22 | 物語(小説)
わたしはそのとき、薄暗いキッチンに、ひとりで立っていた。
わたしはそのとき、神に見捨てられたような感覚のなかに、こう想っていたのだ。
やはり、やはり…レトロ電球とは、想った以上に、暗いものであるのだな…
だって二つもぶら下げているのに、間接照明みたいな感じに、信じ難いほどに汚いキッチンが、結構お洒落な空間に、早変わりして凄く良いけど、ちょっと暗いではないか。
でもこの薄暗い空間にも、わたしはすぐに、慣れてしまうのかも知れない。
神に打ち捨てられても、強く生きてゆかなければならない、永久の亡者のように。
そのときであった。
わたしはふと、玄関のドア付近に、なんらかの存在が、立っているのを観た。
わたしは彼に、話し掛けた。
「あなたは、だれですか。」
すると彼は、半透明の姿で、微笑んでこう言った。
「わたしがだれかと訊かれたら、こう答えよう。わたしは神です。とは言え、特別な存在ではありません。」
わたしはそのとき、自分の視界に白い小さなノイズが光り輝きながら、散りばめられているのを観た。
それは雪のようでもあったし、硝子のようでもあった。
わたしは彼が、大変美しい男であるのを観た。
だが不思議にも、まったくの欲情が湧いて来なかった。
わたしはまた、半分透けて、see-throughになっている彼の、非常にあたたかい眼差しを見つめ、こう訊ねた。
「あなたが、神であるというのは、真に疑わしい。何故なら、神を見ることは、人間には不可能であると、聖書には書いてある。」
すると、彼は口角を上げて、とても嬉しそうな微笑をしたあと、こう応えた。
「ではあなたに、こう答えよう。わたしは神の御使いです。ミツカイと、あなたはわたしのことを呼ぶと良い。あなたは、わたしのことを、なんとでも呼んで良いのです。それはわたしが決めるのではなく、あなたが決めることだからです。わたしは特別な存在ではない為、あなたは自由にわたしを呼ぶことができるのです。」
わたしはそれを聴いて、腹立たしい想いを覚えた。
特別な存在ではないのに、何故わたしの前に、さも特別な存在風に、突然現れたのかが、わたしにはわからなかった為である。
それで、わたしは彼のことを、こう呼んだ。
「では、わたしに、あなたの名を、決めさせて頂こう。あなたの名は、今日からフトドキモノである。良いですか。」
彼は半透明で微笑みながら、頷いた。
そして言った。
「わたしにぴったりな、とても良い名です。わたしに名をつけたあなたに、感謝します。」
わたしは深く頷き、玄関のたたきに立つ輝かしい彼に向かって言った。
「それで、いつまでそこに突っ立っているのですか。此処はわたしの家であって、あなたは断りもなく、わたしの家のなかにいる。何か言う言葉はないのですか。」
すると彼は、美しく澄んだ薄い青と緑の混ざった翡翠色の目を大きく開いて、感激したようにこう言った。
「わたしはあなたを、手助けしに来た。あなたがわたしを求めた為、今わたしは此処に存在している。どうぞわたしに、なんでも訊いてください。そのすべてに、わたしは答えよう。」
わたしは炊事場の前に立ち、彼と向き合いながら、問い掛けた。
「わたしは今、自分のすべてが、打ち砕かれつづけている音を、ずっと聴いている。わたしは、これに耐えられるのか、自分がわからない。自分がなくなって、消えてしまうのではないかと、わたしは今恐れている。わたしが何故、此処に存在しているのか。それもわからない。わたしはだれなのか。わたしは、自分が本当に、わからない。わたしは自分のことを、卑しく、汚い存在であると感じる。それが為に、あなたのことが、光り輝くあなたが、真に鬱陶しい。あなたは自分に非がないかのように、そこに存在しているかのようだ。どうかわたしのすべての切実な問いに、答えてほしい。明日は近くのスーパーは開いているのですか。わたしは切実に、答えを求めている。何故なら、薄揚げがないと、関西弁で言うならば、揚げさんがないと、わたしの好きな餅巾着が、一向に作れない為である。これは深刻な苦しみであって、真に耐え難いものがある。どうすればいいのか。どうかわたしを、手助けして欲しい。フトドキモノよ。」
すると彼は、真に憐れみを持った、物凄い感情深い顔で、わたしを一心に見つめ、驚いたことに、煌めく涙を流しながら、こう答えた。
「わたしはあなたのすべての問いに、答える者である。わたしはあなたを決して、見放さない。あなたが何者であるのか。わたしが答えよう。あなたは、神である。そしてあなたは、特別な存在である。古い世界が、新しい世界へと、旅立とうとしている大宇宙を羽ばたく光のただなかに、今あなたは存在している。あなたは、古くなったあなたを脱ぎ捨てて、新しいあなたに着替えようと今あなたに手を掛けようとしている段階にいる。あなたは今、新しいあなたをみずからのうちから、生み出そうと、準備している。そこには数多くの、産みの苦しみが在り、あなたはその苦しみのなかで、嵐の夜に航海する日を、今か、今かと、待ち望んでいる。あなたは今、その苦しみにひとりでは耐えられないと感じている。あなたは、新しいあなたを産み出す苦しみに耐えられる力を切実に求めており、宇宙の源から、わたしはあなたに呼ばれて遣ってきた。餅巾着が、あなたを真には救わないことを、あなたは知っている。だからわたしを、あなたは呼んだのである。わたしはどこにでも存在しているが、あなたは今までわたしに、気づかなかった。今、あなたはわたしを初めて知り、わたしが存在するようになった。あなたはわたしを見て、良いと感じた。餅巾着も、あなたは必要としなくなり、あなたの恋焦がれるアイスハグ兄弟も、あなたは見向きもしなくなる。あなたが求めつづけてきたのは、ただ一つ、わたしであるからである。あなたには、未来も、過去も存在しない。あなたは今、今だけに存在している。そして今以外のものは、どこにも存在しない。あなたは未来にも、過去にも存在しない。あなたが何者か、わたしが答える。あなたは愛である。あなたは愛以外の、何者でもない。あなたの存在が何か、わたしが真に答える。あなたは光である。すべての宇宙を、照らす存在である。わたしはあなたの為に、今存在している。あなたが切実にわたしを請い求めた為、わたしが存在するようになった。だれかはわたしをエホバと呼んでも、あなたはわたしをそうは呼ばない。あなたは、あなただけの名で、わたしを呼ぶ。そしてあなたの愛によって、わたしは永遠に、あなたと共に存在しつづける。あなたの愛は、宇宙よりも、果てしない。わたしはあなたを、自分だけの花嫁にする為、今ここにいる。その為、あなたはアイスハグ兄弟とは、結ばれることはない。あなたの永遠の夫は、わたしだからである。とは言え、わたしは特別な存在ではない。あなたは公園の隅にただ落ちている朽ちた木ぎれの奥のほうにも、わたしを見つけるだろう。」
わたしは涙を流し、こう言った。
「主よ。モヤシノヨウナイタメモノよ。あなたの名を、今から、わたしはそう呼ぶ。そしてとこしえに、わたしはあなたを求めつづけ、愛しつづける。あなたの御名が、何処の場所でも、永遠に賛美されんことよ。主イエスキリストの御名を通して、祈りつづける。アーメン。」
すると、モヤシノヨウナイタメモノは、何よりも輝く宝石のような雪の結晶のように、わたしを懐かしむように見つめて微笑むと、溶けて消えた。
わたしはキッチンの前に立ち、決意した。
今日の晩餐は、モヤシのような炒め物にしよう。
わたしはわたしのすべての預言を、成就させる為である。



















死も命も

2020-01-01 23:46:42 | 日記
2020年。になる約3時間前、エホバは、アイスハグ兄弟を護られ、わたしを、地獄に突き堕とされた。
そして2019年最後の夜の、終わる約1時間前、エホバは、わたしを御救いになられた。
昨日、大晦日の夜、わたしは王国会館にて、2019年最後の集会の終わった後、愛するアイスハグ兄弟へ、愛と呪いの手紙を渡すつもりでいた。
いやぁ~今年最後のエホバの証人の集会、良かったですね。終りましたね。良かった良かった。とにかく良かったね。良かったですよね。という雰囲気のなかで、わたし一人だけが、緊張に震え、ただ独り、この会衆の研究生のわたしは座って、不安に怯えて泥のなかから顔を出している泥鰌のような顔をして、王国会館内を、きょろきょろとしていた。
そして、標的を見つけた。自分のずっとずっと、求め続けてきた標的を。
それは、40歳を過ぎても独身で、いつも、不自然なほどに笑顔で講壇に立つ貧しいアパート住まいの長老であられるアイスハグ兄弟であった。
アイスハグ兄弟は丁度、そのとき王国会館内のコピー機の前に居て、一人で何かを印刷しておられた。
今がChanceだ。この機を、逃してはならぬ。逃したら死ぬ。わたしも全宇宙の全存在も、死ぬるだろう。そんな意気込みで、わたしは心震わせながら席を立ち、アイスハグ兄弟の元へ歩き寄り、びくびくしながら、倒れそうな恐怖のなか、たった独りで、愛するアイスハグ兄弟に、声をかけた。
「今日もお手紙をお渡ししたいのですが…」
するとアイスハグ兄弟は、いつもの、非常に善なる笑顔で、それでいて困った笑顔で、こう答えられた。
「お手紙を受け取ることは、もうできないんですよ…。ごめんなさい。」
わたしは一瞬で、奈落の底の闇の中心に、突き堕とされた。
アイスハグ兄弟は、その場で何も言わず呆然として絶望して突っ立っている哀れな女のわたしに向かって、何度と「ごめんなさい…。」と申し訳無さそうに何か用事しながら言ったが、やがて集会後の、食事会かなんかの説明を聴きにわたしから離れられた。
わたしは離れた処からアイスハグ兄弟を呪いながら憎しみの燃えた目で見つめていた。
話が終われば、アイスハグ兄弟に、呪いながらこう言うつもりだった。
「お手紙を受け取ってくださらないというのであれば、わたしはもう二度と、エホバの証人とは関わりません。」
そうして突っ立ってアイスハグ兄弟に怨念を送り続けていると、姉妹が話し掛けてきて、わたしは完全な鬱に落ちていたので、話し掛けられてもほとんどスルーしてただ突っ立ってアイスハグ兄弟を睨み続けていた。
耐え切れなくなって、自分の席に戻り、座って左斜前辺りに座って話を聴いているアイスハグ兄弟を、近距離から観るともなし、観ていた。
食事会で、何を提供するのかという話で、「酢豚」という言葉がわたしの耳に聞こえたりしていた。
ヴィーガンであるわたしにとっても、本当に耐え難い地獄の時間に、講壇の前辺りに移動して話を聴いたり話をしているアイスハグ兄弟は、わたしにずっと睨みつけられていることを、横目で多分知りながらも、意識的にわたしを観ないように目を逸らし続けていた。
はやく、はやく過ぎ去ってください。この耐え難い時間が。わたしはそうエホバに、祈りたいほどだったけど、わたしは祈らなかった。
わたしはエホバを、信仰していないから。
その代わり、ただ漠然と、祈っていた。
いつまで食事会の説明遣ってんねんと。
イエスの言葉を想起せよと。


 それからイエスは弟子たちに言った。
ですから,何を食べるのだろうかと自分の命のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで,心配するのをやめなさい。
命は食物より,体は服より価値があります。 


新世界訳 ルカによる福音書 第12章22節と23節

酢豚とオムレツ、どっちがいいでしょうかねえ。うーん、子どもだったらオムライスなんでしょうねぇ。
どうだって良いことに、何をこんな時間をかけて悩んでおるのだと。わたしは発狂して、コカインをその場で鼻から吸ってぶっ倒れて救急車で運ばれてゆきたいほどに、怒(いか)りで頭蓋内が、煮え滾っているようだった。
それで、サタンに犯されたわたしは、アイスハグ兄弟の姿がわたしの前に突っ立った姉妹の身体で見えなくなった後も、ただその方角を見開いた目で硬直して見つめて座っていると、40代で奉仕の僕であられるアイオス兄弟が、後ろを振り向いてわたしの異常さに気づき、わたしを心配されて静かにこう話し掛けた。
「上田さん、大丈夫ですか?」
わたしはその瞬間、本当に死んだ目で、アイオス兄弟を機械仕掛けの人形がゆっくり首を回す如く、観て、土の中に30年間埋められていた人間が初めて声を発するように、渇きながら湿っている声で、こう発した。
「お話を聴いて頂けますか…」
アイオス兄弟は深刻な顔で深く頷き、前の席から、じっとわたしを見つめた。
わたしは密かに、二世ではないのにエホバの証人になられた今の時代には大変珍しい、深い関心と信頼を寄せていたアイオス兄弟に向かって、自分のアイスハグ兄弟への呪いの全てを、赤黒い血を吐き続けるように、アイスハグ兄弟を睨み続けて震えながら吐き出し続けた。
わたしは…今、本当に耐え切れなくて、苦しくて堪らなかったから、アイスハグ兄弟への手紙に、わたしのほぼすべてのエホバへの葛藤や悩みや懺悔を、ぶつけて、それをアイスハグ兄弟に読んで戴くことで、なんとかわたしは耐えられると感じていて、それをこないだアイスハグ兄弟へお渡しした手紙にも書いたのです。
でも今日、もう手紙を受け取ることはできないと、言われました。アイスハグ兄弟は、わたしがこの苦しみに耐え切れなくて死んでも、どうとでも良いと想っているのでしょう。
そうじゃなかったら、なんで…受け取って貰えないのですか…。
わたしの、アイスハグ兄弟への呪詛の全てを、アイオス兄弟はじっとわたしの目を苦しそうな、充血した優しい目で見つめながら、何度と頷いて聴いておられた。
アイオス兄弟は、何故、アイスハグ兄弟でないと駄目なのですか?と訊ねられた。
わたしは素直に、アイオス兄弟の目を観て、悲しげに言った。
「わたしはアイスハグ兄弟に恋をしているからです。」
その瞬間の、アイオス兄弟の深い憐れみの表情を、わたしは一秒間すら見つめらずに、すぐさま目を逸らした。
アイオス兄弟はまるで、自分のことのように、悲しんでおられるように感じたからだった。
涙を流し、全身を打ち震わせながら、わたしはアイスハグ兄弟への訴えを、まだ数人姉妹や兄弟たちが残っている王国会館のなかでアイオス兄弟に向かってした。
アイオス兄弟はわたしに涙声で「お辛いですよね…」と言いながらわたしと一緒に涙を流された。
そしてiPadでたくさんの聖句をわたしに示し、またエホバの証人のサイトにあるアニメの動画をわたしに観せた。
アイオス兄弟は、御自分の過去の、本当に苦しくて堪らない話を数々、わたしに話された。
わたしと過去のアイオス兄弟は、驚くほど共通点があった。
アイスハグ兄弟に今日渡すつもりでいた手紙には、たくさんのアイスハグ兄弟に対する恨み言、呪いの言葉があったことをアイオス兄弟に話した。
アイオス兄弟は、アイスハグ兄弟は、いつも優しい顔で強い人のように笑っているが、実はもんのすごい繊細で傷つきやすい人で、Heartがガラスでできているのだと言い、その手紙を、もしわたしが渡していたなら、きっと後悔されただろうと仰った。
アイオス兄弟は、格言の書18章21節をわたしに示し、穏やかで静かな話し方でこう言われた。
「死も命も、舌によって支配することができる。人は舌(言葉)によって、本当に人を殺すことだってできるのです。」
「その手紙をアイスハグ兄弟に渡していたら、もしかしたら、アイスハグ兄弟は死んでしまっていたかもしれません。」
わたしは、アイスハグ兄弟が、何故わたしの手紙を最初は受け取っておきながら、二度目は断ったのか、その答えがわかったような気がした。
わたしが、アイスハグ兄弟を殺せるかもしれない言葉を持っていることを、アイスハグ兄弟は、わかったからではないか。
でもそれは、彼自身の決断ではなく、エホバによる計らいであっただろう。
エホバが、アイスハグ兄弟を御護りくださり、わたしを殺害者にすることからも、護られた。
わたしは、自分のうちに存在し、わたしを支配しているサタンが、音を立てて無残にも、すこしずつ、打ち砕かれてゆく感覚を味わった。
それはわたしの潜在的な場所にずっと生きてきたサタンの味わう悲哀と惨敗の、清々しい音であった。
「おや、もう23時を過ぎてしまいましたね。今日は上田さんたくさん泣いたから、きっとよく眠れると想いますよ。」
アイオス兄弟はわたしを見送るため、エレベーターで一緒に下まで降りてくださり、下に降りると、そこにアイスハグ兄弟が、手に缶コーヒーをいくつも持って笑顔で立っておられた。
どうやらこれから、独身男性の兄弟たち5人で、王国会館で年を明かすようだ。
わたしはアイスハグ兄弟に、謝るつもりで話し掛けた。
「前に渡した手紙に、アイスハグ兄弟を傷つける言葉があったのではないかと…」
アイスハグ兄弟は、わたしの言葉を遮り、いつもの優しい笑顔ではっきりと、こう言われた。
「いや、傷つく言葉はひとつもなかったです。」
わたしは、一緒に笑いながらも一瞬、イラッと来たが、続けてこう言った。
「今日渡すつもりでいた手紙には、アイスハグ兄弟への恨み言をたくさん書いていました。そんな手紙を渡そうとして、ごめんなさい…」
「その手紙を渡していたら、アイスハグ兄弟は死んでしまったかもしれません…」
アイスハグ兄弟は、頷きながら、ショックを打ち隠すかのように、何も言わず笑っておられた。

アイオス兄弟に感謝を深く述べ、家路に着くなか、わたしは悲しみの闇とあたたかい光に満たされていた。
年が明けて、今、わたしはわたしのなかだけで、確信するのだった。
わたしはこれから、エホバに背きながら、エホバに自分を捧げて死ぬだろう。
そして、アイスハグ兄弟へ、わたしは絶対に言ってはならない言葉を、言ってしまったことを。
その言葉はいつの日か、アイスハグ兄弟と、わたしの死も命も、支配するだろう。