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雀庵の「見る聞く読む書く呆け防止」

2020-05-07 04:39:41 | 日記
雀庵の「見る聞く読む書く呆け防止」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/113(2020/5/6/水】ゆうべの夢は実に面白かったなあ。「学びに年齢なんて関係ない!」と大学入試に臨むのだが、面接で年齢を聞かれ、
「50歳です、あ、えーっと、辛卯ですから・・・あれっ、70歳?! 信じられないなあ」
面接官はボーゼン、「なんなんだ、この爺さん?」といささか呆れ顔。

えっちらおっちら階段で2階に上がり試験場に向かう時、多分貧血だろう、倒れてしまった(午前2時ごろの震度3の地震で「つぶれるかも・・・」と思ったことの影響だろう)。気がついたら保健室で寝かされている。

上着を脱がされ、丸首のクルーネック姿だったが、鏡を見たらタグが映ってる。つまり裏返しで、しかも前後逆というボケ振りで、ハハハハハと苦笑いして目が覚めた。

楽しい夢はいいもので、元気になる。措置入院でベッドに拘束されていた時は悪夢ばかりで、目が覚めるとハーハー、息も絶え絶え、グッタリした。それに比べれば今は「気分はトム&ハック」、いたずら心でいっぱいだ。躁状態・・・?

さて、鴎外の「渋江抽斎」、小生が編集者ならその作品名の脇に「幕末前後 漢方医と一族の足跡」とか「漢方医と一族の幕末前後」とサブタイトルをつけるな、さすれば――

「難しそう」という風評被害をロックダウン、「面白いじゃん」というクラスターの3密でオーバーシュート、もうソーシャル・ディスタンスなんて吹っ飛んで濃厚接触、ロックダウンなんてとてもできないパンデミック、出版社はまるでコロナ太り、コロナ倒産・コロナ破綻一歩手前の本屋さんも自粛要請どころじゃない、オマケは不織布マスク、次亜塩素酸ナトリウム・・・さあ買った買った、お代は10万円給付で!

てな具合になるかもね。

昨日「渋江抽斎」を読み終えたので今日から再読する。末尾の解説(中野三敏)によると同作は発表とともに物議をかもしたそうで「これは文学=小説・物語ではないと評する人もいるが、その見方がおかしい、一流の文芸、史伝、文学であることは確かだ」と断じている。

共産主義は科学/学問を装った宗教/病気で、他宗派を修正主義、原理主義、左翼小児病、裏切り者、走資派、教条主義者、ブランキスト、日和見主義、冒険主義、トロツキスト、秘密主義、アナクロ、オプチュニスト、スターリニスト、走狗、ルンペンプロレタリアート、亜流、サンジカリスト、一揆主義、亜流・・・などと互いに罵っている。

意味なんてどうでもいい、声の大きい方が勝ち、相手をやっつけると「正義の鉄槌」、やっつけられたら「権力の走狗による虐殺許すまじ、我々はぁ戦うぞーっ」。

こういう騒動は、見物人から見れば「バーカ、共死するがいい」と嗤うだけだが、本人は私利私欲がかかっているから死に物狂いだ。殺される前に殺せ! 狂気の世界。「私は正義」病とか、性善説、甘い言葉に騙されるとまずしくじるね。

しくじった人が痛恨の思いで告白しているのだからね、信じなさい、尊師と呼びなさい、お布施はこちらに・・・

「私は正義」病・・・「悪と自覚しているとブレーキがかかるが、正義と思うと人はどんな酷いことでもやってのける」という、実に厄介な病気だ。風雲急を告げる幕末にもあった。

当時は参勤交代があり、そのために江戸詰めの臣、国詰めの臣があった。江戸詰めの臣は言わば外交官で、世襲制だから何代にもわたって職を務める。つまり江戸詰めは言葉(標準語)から教育、作法、習慣、服装、交友関係までどっぷり江戸風に染まっている。

参勤交代が廃止されると、藩は「国へ帰るも江戸に留まるも勝手」と触れを出したが、新政府軍が江戸に迫ると“外交官”の多くは戦火を逃れるために艱難辛苦して帰郷したのだ。青空文庫「渋江抽斎」から概略コピペする。

<米艦が浦賀に入ったのは、嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは阿部正弘である。

安政二年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた漢方医・抽斎(単独での将軍お目見え資格にまで出世)も、ここに至ってやや風潮の化誘する所となった。

女丈夫、五百《いお、妻》の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために(武備のため融資策など)画策するに至った。・・・

安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙《くちばし》をいれた。抽斎の議の大要はこうである。

弘前藩はすべからく当主、順承《ゆきつぐ》と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居、信順《のぶゆき》以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。

その理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰はその必要を認めないからである。何故というに、原《もと》諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。

今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄て、冗費を節することを謀っている。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷《や》め、府内を行くに家に窓蓋《まどぶた》を設ることを止《とど》めたのを見ても、その意向を窺うに足る。

縦令《たとい》諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早これを抑留することはなかろう。

理由の第二は、今の多事の時に方《あた》って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。

由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党(江戸詰め)と在国党(国詰め)とに岐《わか》れて、荏苒《じんぜん、物事が延び延びになり》決せざることである。

甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵って国猿《くにざる》といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以の道でないというのである。(昨年の津軽旅行では竜飛岬でサルを見た。当時は岩木山を中心にうじゃうじゃいたろう)

この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛《さかん》に起った。しかし後にはこれに左袒《さたん、帰国に賛成》するものも多くなって、順承が聴納《ていのう、了承》しようとした。

浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒った。信順は平素国猿を憎悪することの尤《もっと》も甚しい一人であった。

この議に反対したものは、独《ひとり》浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善であった比良野貞固《さだかた》は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳せ来って論難した。

議、善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北(北の最果て)の地に遷そうとするは、忍べるの甚しきだ(耐え難い)というのである。

抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交《まじわり》を絶つに至った>

同藩といっても生まれ育ちが違うと「血は水より濃い」というより、遠慮がない分、近親憎悪的なイジメが発生しやすくなるのか。

今でも帰国子女が新しい環境に馴染めない、それどころか苛められる、孤立する、心を病む、という話は多い。産経記者の近藤紘一氏の奥様は外交官の娘で、幼い頃から世界各地で暮らした。日本では(でも?)馴染めなかった。

<祖国の土と空気を自分のものにしようと懸命の努力を続けていた彼女を、私は再びフランスへ連れ出した。そして、結果的にその内面的崩壊を促すことになった。

妻は次第に塞ぎ始め、やがて私が本気で心配し始めた時には遅すぎた。

つい数か月ほど前とは別人のようにやつれ果てた彼女を、急遽、日本へ送り帰した。自分の迂闊さを、ひどく悔いた。

日本に戻り病院で二か月を過ごし、いったん彼女は快方に向かい始めたように見えた。ある晩、病室訊ねると、彼女は久しぶりに朗らかな顔で、私が去るまで冗談を言い続けた。

翌日、妻は死んだ>(「目撃者 近藤紘一全軌跡」所載、沢木耕太郎著「彼の視線」)

住めば都と言うけれど、少なからぬ人にとってそこはとても馴染めない荒れ地かもしれない。幕末の外国人襲撃・殺害事件の報が本国に届くまで70日ほどもかかったという。今はネットで同時性が可能だ。大使館など在外公的機関の縮小、合理化も検討課題かもしれない。

次回は弘前の「国猿」とMade in Edo の「在府党」の軋轢を紹介したい。夏彦翁曰く「意地悪は死なず」。(2020/5/6)







雀庵の「吉幾三とミック・ジャガー」

2020-05-05 11:31:54 | 日記
雀庵の「吉幾三とミック・ジャガー」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/112(2020/5/5/火】実は小生は「陽性・陰性」の意味を知らなかった。

「彼女は根っから陽性、楽天的なのよ、明るくてさあ、Happy-go-lucky そのもの。でも彼氏はズブズブの陰性、悲観的でね、そばにいるだけで暗くなるほど、まるで歩く pessimist よ。彼女にそう言ったらね、“あらそう? 静かでいいわ”だって。びっくりよ!」

だから「陽性」は良いこと、「陰性」は良くないことと思っていたら、医学では「陽性は菌が活発、アタリ!=病気(患者さま)」「陰性は菌がない、ハズレ!=元気(冷やかし)」みたいなのだ。

ナンカナーという感じだが、医学界は「認知できない」人や「痴呆症」を「認知症」、国会では「物見遊山」を「視察」、世間では「自立できない人」を「社会的弱者」、「アカ」を「リベラル」と言う。「歳をとれば多かれ少なかれ呆けるよ」、これを「アルツハイマー」などと言う。

夏彦翁曰く「人皆飾ってモノを言う」。

「人殺し」を「心神喪失だから」と病院でお世話する・・・小生のような「キチ〇イ」は禁句で「自閉スペクトラム症」だとさ、まるで表彰台から手を振らなくちゃいけないみたいだ。「皆さん、ありがとう! これからも頑張ります!」、頑張ってまた急性期閉鎖病棟3か月・・・もうやだよ。

この病気は「興味の範囲が狭く、特定のものにこだわる」特徴があるという。異常なほどの中共やリベラル≒アカモドキへの憎悪、枝葉末節に対する異常なほどの好奇心、感受性・・・小生はそういう「ハイ」の気分、大好きだけれどなあ。

おはようさん 今日も狂気は 陽性反応(修)
五月晴れ 今日も元気だ 陽性拡散(修)

病者の強い「こだわり」がうかがわれる、いい句じゃない?

我が家の女どもと孫3人はキャンプ場へ行けないので室内にテントを張り、ベランダでBBQや燻製機であれこれ料理を作って楽しんでいる。「こだわり」とか代償行為か。

「代償行動とは、ある目標を達成することができず、満たされない感情や欲求が生まれたとき、別の行動をすることで欲求を満たそうとする行為(防衛機制)のこと」。フロイト親娘が定義づけた概念だという。

なるほどね。「こだわり」の「代償行動」としての「ブログ」という図式も成り立つな。さあ、今朝も「こだわり」のアクセルを踏もう。

太宰治の「津軽」にひかれて昨年、青森県を旅したが、彼の生まれ故郷の金木は寂れた田舎町の印象だったけれど、弘前は実に歴史をたたえた静かな落ち着いた鄙びた城下町だった。

弘前城は地元の人の憩いの場で、散歩する人、運動する人・・・みんな穏やか、のんびり、ほっくりしている。東京のようにぎすぎすして油断ならないという感じはしない。

<1590(天正18)年、17年に渡って津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を得ました。この時大浦を「津軽」と改姓し、為信は、1594(文禄3)年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを開始。

1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より更に2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。1604(慶長9)年 為信は京都で客死し、築城は中断します。

1609(慶長14)年、2代目信枚が築城を再開し、堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、1611(慶長16)年、 僅か1年と数か月で弘前城が落成しました>(弘前公園)

小生はすっかり落ち着いて「もう一度来たいなあ」と思ったものだが、そう思うような所との出会いは二度とないだろう。

幕末の弘前藩は佐幕の奥羽越列藩同盟と新政府軍の間で揺れ動き、どちらからも敵視されないという軟弱外交でどうにか朝敵を免れたが、「北のはずれで逃げ場所がない、未開の北海道へは行きたくない」という地政学的な事情から、開高健のいう「協力すれど介入せず」のいささか軟弱な「フグリ戦略」にならざるを得なかったのだろう。

「介入」・・・最後はいつだったか・・・遠い遠い昔・・・思えば遠くへ来たもんだ。

煩悩の あった昔が 懐かしい(修)

煩悩昂じて若死願望の太宰は「津軽は誇るべきものが何もない」といささか自虐的に言うが、彼の好きな月見草、あすなろ、りんご、りんどう・・・派手さはないけれど心が安らぐ花、津軽の良さはそんな可憐、奥ゆかしさ、引っ込み思案、恥ずかしがり、劣等感、過剰過ぎるほどの自虐にあるんじゃないかなあ。

ザ・ローリングストーンズが4月24日、約8年ぶりとなる新曲「Living In A Ghost Town」を世界同時配信したという。

♪I'm a ghost 俺は幽霊 Living in a ghost town ゴーストタウンに住んでいる You can look for me 君が会おうとしても But I can't be found 俺は見つからない

We're all living in a ghost town 俺達はみなゴーストタウンに住んでいる Living in a ghost town ゴーストタウンに住んでいる

We were so beautiful 俺達は美しかった I was your man about town 俺は君に街を教えた

Living in this ghost town 今ではゴーストタウンに住んでいる Ain't having any fun 何の楽しみもなく If I want a party パーティーを開いても It's a party of one 参加者は一人だけ

ミック・ジャガー76歳、脱帽。彼の詩は昔から時代や哲学、歴史を語るものが多く、好いた惚れた別れた系の詩に飽きた小生には新鮮だった。

日本のミックともいうべき吉幾三を検索したら、彼は小生より1コ下、同世代だった。なんと4月27日に津軽弁ラップ「TSUGARU」の「コロナに負けるな!」バージョンを発表したそうだ。さらに4月29日には「百年桜」をリリースした。日英同盟復活か!

♪雪解けの 岩木山隠すように 咲く桜
春の鳥 さえずれば 風に乗り 幼き日

親から子へと 子から孫へと この季節 津軽に飛び舞う 春の花
ああ・・弘前の・・百年桜

「心安まる里、津軽、そうだ、封鎖が終わったら津軽へ行こう・・・JR East」

パクリだが、キャラはもちろん吉幾三同志、バックの曲は「津軽平野」「四季津軽」もいいなあ、ギャラは友情割引きで100万円、総経費300万円、小生はボランティア。電通博報堂なら色々な媒体向けに加工するから基本的な制作料は1億円はするぜ、広告料は別。

ミック&ヨスの競演共演もいなあ、ヂヂババいっぺえ来るびょん、みんな元気になるよ。

弘前藩の江戸詰め漢方医、渋江抽斎の子孫は戊辰戦争の戦禍を恐れて弘前に避難するが、戦禍よりもカルチャーショックに苦しむことになる。まるで帰国子女。次回はそれに触れたい。(2020/5/5)









雀庵の「独書・毒書・読書のすゝめ」

2020-05-04 13:32:18 | 日記
雀庵の「独書・毒書・読書のすゝめ」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/111(2020/5/4】やあ、いらっしゃい。長い長い冬休み、春休み、GW・・・その後は夏休み、かな。ん、たまにはいいもんだよ。いっぱい遊ぶこった。

ヂイヂはもうずーっと前から長~い長~い休み、毎日遊んでいるよ。ん、58歳の時、2009年から・・・もう11年も遊びっぱなし、かな。

ばあちゃん、ヂイヂのお母さんのお世話もあったからね・・・ん、歳とると大体呆けちゃうんだよ、最初は鍋を焦がしたり、ポットに水を入れ過ぎて床をびしょびしょにしたり、トト(犬)ちゃんにご飯をやり過ぎちゃったりね。食べきれないほどソーメンを茹でたこともあったっけ。

そうだなあ、火事を起こすんじゃないかっていうのが一番怖かったね。

ばあちゃんはそのうち腰痛もあって歩くのが難しくなって、ベッドに横になっていることが多くなってね、トイレに這って行ってたけどオマルになったね、最後の半年とか1年はほとんどベッドに寝たきりだった。うん、紙おむつでね。ちょっと前の君みたいに、ハハハ。

夜中に吸い飲みでお茶をあげたら「あー、おいしい」、気分良さそうだった。でも夜明けに見にいったら死んでたんだよ。まだ温かくて眠っているみたいだった。

晩年の2年ほどは元気というわけではなかったけれど長生き、ぽっくりの大往生、92歳だったよ。

ん、ぢいちゃん? ヂイヂのお父さんのことねえ・・・62歳で逝っちゃったから早過ぎたなあ。糖尿病で肺がんだから55歳で隠居したような感じだったよ。趣味は金儲けと酒と・・・まあ蓄財蓄妾美酒美食ってやつで・・・大人になれば分かるよ、こういう人、結構多いんだ。病気になったら楽しめないけれどね・・・

ばあちゃんは60歳で趣味の世界に没頭したね。習字、俳句を楽しんで、習字の塾も開いて子供たちに教えていたよ。

昔は生まれながらに身分というのがあって、ばあちゃんは士族、ぢいちゃんは平民だったの。士族は頭を使う仕事、頭脳労働、平民は汗水流す肉体労働っていう区分とういうか身分制度があったの。結婚も士族は士族同士、平民は平民同士、学校もね、士族は高校、大学へ行き、平民は小学校か中学校を終えたら就職したの。

ばあちゃんは士族だったから心の底では肉体労働を下に見ていたよ、だから隠居して上品な習字、俳句の世界に飛び移った。

ぢいちゃんはとても勉強ができたけれど農家、平民の子だから尋常高等小学校、今の中学校しかいけなかった。次男坊だから早く自立して家から出なければいけないっていう時代だったからね。村で初めて近衛兵になれたのだけど、平民だから将校にはなれない、そういう身分制の壁があったの、昔はね。

「乳母日傘で育った」ことを自慢するばあちゃんは、意識はしていなくてもぢいちゃんを低く見る感じがあったんだろうね、ぢいちゃんは「どうせ俺は平民、お前は士族だからなあ」なんて反撃していたけど・・・夫婦喧嘩の時のばあちゃんは「ぶってごらん、親からだって一度もぶたれたことないんだ!」っていばっていたよ、ハハハ、可笑しいね。

君もね、お嫁さんをもらう時は「美人だ、可愛い」なんて外見に騙されちゃだめだよ、そんなのはせいぜい10年、20年で賞味期限切れでね、へたをすると君がふ化させたマンティス(カマキリ)みたいにオスをむしゃむしゃ食っちゃうからね。もろ害獣、男の敵になるからね。

嫁さんはね、文武両道が一番いいと思うなあ。まあ、スポーツに長けているアスリートとか、それでいて学問もちゃんとやっているとか・・・ヂイヂの経験ではね、神戸女学院出の女傑・・・ああスーパーウーマンとか、バイオニック・ジェミーとか・・・とにかく強くてね、頭もいい。こういう嫁さんを持つとね、男はずいぶん助けられるんだ。

ああ、この本にも江戸時代のすごい奥さんが出てくるよ。永井荷風っていうヂイヂの好きな小説家が一番尊敬している人が森鴎外でね、その鴎外先生が書いた「渋江抽斎」(しゅぶえちゅうさい)の中に出てくるよ。抽斎は漢方のお医者さんでね、奥さん運が悪いというか何人も病気で死んじゃってるの。最後の奥さんは「五百」と書いて「いお」さん。

「いお」さんは武家の娘さんだけれど男と同じ教育を受けて武道も学門も達者だった。うん、文武両道ってやつで、縫物とか家事もできる。池波正太郎っていう人が書いた「剣客商売」に佐々木三冬っていう剣客が出てくるけど、実際に凄い女傑はいたわけよ。

「いお」さんは抽斎が3人の居直り強盗に威嚇・・・カネ出せって脅された時、お風呂に入っていたんだけれど、様子がおかしいと、腰巻、口に懐剣・・・短剣のことね、それで両手に熱湯の入った桶をもって現れ、抽斎を背に仁王立ち、賊2人に熱湯を浴びせ、懐剣を手に持ってのこり一人に「泥棒!」、やるか!という気合で睨みつけた。泥棒は這う這うの体で逃げ去ったそうだ。

ちょっとヂイヂの話、難しくなっちゃったかな、分かるか? そうか、何となく分かればいいよ、いつか「そういえばヂイヂが言ってたなあ」って思い出してくれたらそれでいい・・・

「いお」さんは漢学、当時の学問、勉強でもすごかった。癇癪持ちで酒乱気味の・・・つまり酔っ払いで怒りっぽいオッサンがグダグダわめいて奥さんや子供をぶったりしていると、「いお」さん来てください、と呼び出される。

そこでオッサンが難しい言葉を使って「自分は正しい」と言うんだけれど、「いお」さんも古典、昔の教科書の教えを引き出してね、「刑干寡妻、至干兄弟、以御干家邦」(かさいをただし、けいていにいたり、もってかほうをぎょす)「家庭の和を破るのはいけません」と叱ったんだ(大雅思斉/たいがしせい)。

オッサンびっくり、「負けました、あなたはなぜ男に生まれなかったのです」、以来、オッサンは「いお」さんの言うことを素直に聞いたそうだよ。

家庭を築き守るためにはまずパパとママが仲良く、子供を育てるんだという目標で一緒に努力する。ただ、子育てが終わるとね、ライオンみたいにパパとママが仲悪くなることはよくあるのよ。

昔は夫婦にとって子育ては大事ではあったけれど、それ以上に「家」を守り、次の世代に「家」を繋いでいくことが一番大事だったの。

家庭を大事にすることは国を大事にすることでもあるね。自分や家族を守ってくれるのが国で、国を守るのは自分や家族しかない。外国とは仲良くしたり、ケンカしたり、いろいろあったし、これからもある。永遠の友も永遠の敵もないと・・・

隣の中国という国はね、人口が14億人、日本の十倍もある。ただね、14億と言っても、「命懸けで国を守る」と口で言う人は1億の共産党の人しかいないのよ、それでね、「本気で命懸けで戦争する」という人はもっと少なくて共産党員の2%、つまり200万人くらい。

中国、支那という大陸は、4000年も前の昔から戦争ばかりしていたのだけれど、そこで暮らす人々は「戦争は王様になりたい人が勝手にやればいい、わしらは誰が王様になろうがしっかりしぶとく生きていく」というのが身についているの。

これは孔子さまの「上に政策あれば下に対策あり」(上有政策、下有対策)という教えでね、王様がいかに政策を実行しようとも、民衆は抜け道を考えて政策を骨抜きにするというわけ。

それから支那では伝統的に兵士をバカにしている。実際兵士は乞食、ゴロツキ、不良、泥棒といった人たちからなっていたのよ。軍隊の偉い人が村に来て、村長さんに「兵隊10名を出せ」と命令すると、長老が集まって村の厄介者、問題児などを出そうと決めてね、青年団がそいつらをふんじばって「どうぞ」って差し出すわけ。

支那では昔から「良い鉄は釘にならない」、つまり「まともな人は兵士にはならない」と言われているの。それくらい兵士の質が悪かった。

今の中国を創った毛沢東は行儀の悪い兵士にほとほと手を焼いたんだろうね、子供を諭すようにこんなことを教えている。

「大衆のものは針一本、糸一筋も取らない」「一切の鹵獲品は公のものとする」「言葉づかいは穏やかに」「買い物は公正に」「借りたものは返す」「壊したものは弁償する」「人を殴ったり罵ったりしない」「農作物を荒らさない」「夫人をからかわない」「捕虜を苛めない」

こんな基本的な、まるで幼稚園児かサルに教えるようなことを繰り返して訓示している。つまりあの国で兵士は山賊と同じだったのよ。

今の中国の軍隊はエリートの仕事になった。戦死しないし、給料もそこそこだけれど表や裏の役得があるので志願者がとても多い。毛沢東の孫みたいにデブが増え過ぎてイザという際には役立たずどころかお荷物になりそう。

40年前の中国の軍隊はベトナムに勝てなかった、今はジャブジャブ金を注いで軍事力を強めているけれど、カネで一人っ子兵士を強めることはできないよ。親は「とにかく生きて帰ってくるのよ」と諭すだろう。「命惜しむな、名こそ惜しめ」の日本に勝てるわけがない・・・まあ、ヂイヂはそう思うけどね。

中共は習近平とともに消えるが、その後始末、連邦制とか各省で独立させるとか、そろそろ先進国は研究を進めていくべきではないかなあ。

以上、森鴎外著「渋江抽斎」読書感想文。こういう書き方をすれば30~40人の感想文でうんざりしている先生にも面白く読んでもらえるのではないかと書いてみた。(2020/5/4)





雀庵の「独房生活は“3”との勝負」

2020-05-01 15:12:09 | 日記
雀庵の「独房生活は“3”との勝負」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/110(2020/5/1】多摩丘陵の散歩往路は自転車を押して坂道を登るのがきついが、帰路はいろは坂の下りでまるでジェットコースター、スリル満点で実に爽快だ。このままピ、ピ、ピーン! 大空へ向かってジャーンプ! 崖下に落ちてもいい、と思うほど興奮する。

やりかねないなあ、と思うからドキドキ感はひとしおで、漱石「猫」の迷亭の「素晴らしい枝ぶりで、そこで首を吊ったらさぞかしいい気分だろうという誘惑に駆られた」という「首掛けの松」の笑い話は結構真実ではないか。畑の肥溜めは避けるが、「湖に身を投げる」というのは古今東西ロマンチックではあるね。

このところ多摩川を散歩しているが、いろいろな草花を見るのがこれまた気分がいいし、向こう岸まで300mほど視界を遮るものがないので、とても解放感がある。

一時期は釣り人を見かけなかったが、チャイナコロリで家にごろごろしているのにうんざりしたのか、釣り人がずいぶん増えた。シラサギやカワウが「何だこいつら」と見ているのが面白い。

野鳥を目当てに望遠レンズ装備の高級カメラをもった人も多い。用水路の取水口あたりに巣があるカワセミは昔から大人気で、10人ほどがカメラを持って待機していることもある。家人によると近くの用水路でたまに見かけるカワセミが小生の屋上庭園に来ていたそうだが、スズメが集まるから「何なんだ」と偵察に来たのかもしれない。

「何なんだ」・・・疑問/好奇心は発見発明発奮発情の原点だな。「性交は失敗の母」になる確率は成功を大きく上回っている。江戸時代までの古人・先人は血統をつなぐ生殖=神事と、娯楽や商品としての性を明確に分けていた。好き合って一緒になるのを「野合、畜生」と蔑み、長屋の熊さんだって周りのオバサンから「犬猫じゃあるまいし」とやいのやいの言われて大家さんに仲人になってもらい、神事の正式婚にしたのだ。

話を戻すと、ジョギングや高級スポーツ自転車の人も増えた。ヘルメット、専用ウエアはいいとして頑丈そうなメガネ、不気味な烏マスクというのはいささか殺気立って無粋ではあるね。昔は♪みどりの風も さわやかに にぎるハンドル 心も軽く サイクリング サイクリング ヤッホー ヤッホー・・・のんびりしていたものだが・・・

堤を少し下りた森とか灌木、疎林からはウグイスの声が聞こえて、稼ぐ必要のなくなったヂヂイは「ああ平和だなあ」と思うが、現役の人なら「どうしよう」と困っている人は多いだろう。死ぬわけじゃないから、これから先の手立てを考えたり、読書を通じて勉強すれば、それなりに天がくれた好機になるかもしれない。

「どこへも行けない、うんざり、まるで刑務所だ!」と思っている人もいるだろうが、独房生活ではまれに「苦にしない」人がいる。小生は吶喊小僧だったが、上司(小隊長)の井上さんは、まるで田舎の小学校の先生みたいに無口でにこやかだった。

彼の特技は禅の達人のように瞑想でき、もしかしたら瞑想どころか完全に「空」になって、それが何時間でも何日でもできるから「独房でも苦にならない」というのだ。自分の利益、エゴがなく、論争もしない。いるだけで部下がついて行く仁者のようで、こういう人が「神」として担がれるのかもと思うほど、まあ人間離れしていた。

小生のような小僧でもゴロツキでもインテリでも、独房生活はなかなかキツイものである。気が滅入るのが収監/拘置3日目、次が起訴/拘留の3週間、以降は新聞購読、書籍差入れ、日記などで気を紛らわすのだが、30日という節目で鬱になりやすく、小生は拘束から3か月あたりでは精神が七転八倒して脳みそが壊れそうな気分になった。

このハードルを越えれば多分、諦観となってそこそこ静かに日々を送れるようになる。1年、2年・・・イワン・デニーソビチのように「考えたって仕方がない」と、環境に精神を慣らしていくのだろう。シベリアでの過酷な懲役10年プラス閏年のオマケの4日間ではそうするしかない。

“ラスプーチン”佐藤優は2002年5月14日から2003年10月8日まで512日間拘留された。同志の鈴木宗男より75日間多かったが、「宗男先生を巻き込んでしまった。彼より早く保釈されるわけにはいかない」という想いだったのだろう。独房では220冊以上の読書と日記、思索で過ごした。

黙秘はせずにいたし、大物だから待遇は悪くはなかったろうが、トイレと小さな洗面所付きの4畳で、しかも監視カメラ付きの512日をめげず腐らず戦意を失うことなく過ごしたのは戦後岩波ボーイとしてはいい根性をしている。

(小生はあの事件は今でも分からない、宗男の強引な施策を戒めたのかなと思うが、公開処刑すべき缶から管や鳩ポッポはお咎めなし、一体何だったのだろう)

コロナ休暇を如何に過ごすか。個人も企業、組織も危機を前提にして次世代モデルを研究していけば「災い転じて福となす」に違いない。長期スパンの戦略に3か月や半年を費やしてもいい・・・そんな気構えでやっていこうぜ、のう、同志諸君!(2020/5/1)