アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

風前の灯火か!残されたED75 700番台

2024-10-30 14:00:00 | 鉄道写真(モノクロ)
 前出のED79は、元をたどればこのED75 700番台車ということになる。青函トンネル開通とともにED75から改造されたED79はとうに姿を消し、現在はED75 700番台車の生き残りが数両在籍しているらしい。しかしこの先、一部の車両配給列車のみの仕事で残しておく理由が見当たらず、やはり機関車は群馬車両センターのカマのように姿を消していく運命なのか、非常に気になるところだ。
 まだ普通列車に客車列車が数多く走っていた時代に、北東北へ撮影に出かけたことがある。普通列車の多くは50系客車になっていて、いわゆる「レッドトレイン」を満喫したものだが、牽引するED75 700番台車も、随分小綺麗で新しく見えたもの。東北スジの1000番台を含むナナゴ達の方がくたびれている印象があった。もっとも当時は、同じED75でも番台によってキッチリ走行区間を分けられていて、この700番台は大部分が秋田に集中していた印象がある。ただアントンKの好みからすると、ED75 700番台車は、スタイルがすっきり整いすぎていて個性に乏しく、圧倒的に0番台車の方が好きだった想いが沸いて来る。懐かしい想いだ。
 掲載写真は、その遠征でメインターゲットの一つだったED75 700番台の牽くブルートレイン「あけぼの」号。新幹線延伸の影響で経路が何度も変わった同列車だったが、晩年の上越~羽越線経由のEF81牽引時代よりは、EF65~ED75~ED78+EF71~ED75 700とリレーする時代のイメージが強烈に刻まれている。そして奥羽本線のブルトレと言えば「あけぼの」で、そのヘッドマークが似合う機関車は、やはりED75 700番台だったと未だに思っている。
 1993-05-29      1001レ  ED75 714    あけぼの   羽後境付近


蒸機が走る日~D51 SL「会津路」号

2024-10-24 15:00:00 | 鉄道写真(モノクロ)
 どうやらJR東日本では、蒸気機関車より先に電気機関車やディーゼル機関車が引退していくようである。正式な告知がされて、現在カウントダウン運転が始まっているのだ。予定では11月まで週末に運転があり、そしてその後は今までのように動かなくなると思われる。
 ぐんま車両センター(高崎)に所属のある機関車、EF65 501・EF64 1001・EF64 1053・DD51 842・DD51 895の5台が対象で、日替わりで機関車が入れ替わり運転を行っていると聞く。経年劣化している機関車を維持していくのには、想像以上の資金がかかりお手上げ状態なのだろうか。少しでも集客を見込める蒸機の方を残し、今後も運転をするとしているが、かつて東日本大震災の時、全国から機関車を集結させて、復旧に当たった実績をもう忘れてしまったのだろうか。旅客会社だから関係ないのだろうか。いささか考えが浅く心配になる。
 20年以上前になってしまったが、D51が磐越西線に出張運転した時の画像を掲載しておく。当時は、SL会津路号として毎年冬場に運転があった。アントンKも大好きな磐越西線で、それも冬場に蒸機が走るので毎回欠かさず出向いていたが、確かに蒸機が走るとなると、人出も多く経済効果はかなりあると経験上でも実感できたのだ。
 写真は、SL会津路号が翁島駅の側線に入り、後からやってきた特急「あいづ」号がホームに入線したシーン。ご覧の通り、駅の廻り中ファンで溢れかえっているが、地元警察が来て取り締まるわけでもなく、またJR職員が血眼になって注意喚起するわけでもなく、この数分間は至って平和で殺伐とした雰囲気は一切なく、魅力的な光景を我々に見せていた。構内に立ち入り、これだけ今見れば危険だと思われるかもしれぬが、人それぞれ自己責任で行動し、譲り合い、お互い大好きな鉄道に対していたのだろうと懐かしく思い返している。
   1991-02-03   磐越西線 翁島駅にて
 

記録の変遷を書き留める・・

2023-07-08 21:00:00 | 鉄道写真(モノクロ)
この拙いブログも気が付けば細々と12年も続いていた。今さらながら驚嘆しているところだが、もともとは自分自身の趣味の記録、整理、履歴のつもりで始め、それと同時に写真に関してはフィルムのデータ化の推進を目的としていた。あくまでも自分のためであり、忘れ去られた画像をデータ化することで蘇り息を吹き返すことが楽しくなったのだった。
 きっかけは、あの震災だったのだが、同時にSNSの発達で、見知らぬ人、憧れの人との繋がりも思った以上に増えて、非日常が現実に変わるような衝撃も多々経験できた。もちろん、こうやって毎日拙ブログを覗いて下さる方々の存在があればこそであり、いつも心から感謝している。
 さて、アントンKの鉄道写真は、今年で半世紀、クラシック音楽鑑賞に至ってもほぼ同時期の49年を経過してしまった。今改めて思うのは、その間に撮り溜めた写真、記録、そして巨匠たちの数々鑑賞できた演奏会での体験よりも、その時代をともに過ごしてくれた趣味の仲間の存在が今となっては大切に思えるということだ。自分のために始めたことで、一番大切に感じる仲間たちに気づかされた訳で、これだけでも、このブログの意味があったのかな、と一人納得しているのである。
 デジタルカメラで車両を写し始めたのが、2005年頃からと以前書いたが、もとを正せば親父に誕生日プレゼントされた二眼レフのコニカC35で撮影まで遡れる。もちろんフィルムカメラで、バカチョンと呼ばれた類のカメラ。当時はコダックは高くて使えず、コニカカラーのカラーネガを使っていた。東京や上野でホームを右往左往していた時代から、小遣いを溜めて買ったニコマートFTNになると、いわゆる走行写真に目覚め、また一眼レフという「沼」にハマっていくのだ。フィルムは相変わらずネガカラーを装填していたはずだが、当時の友人の影響でモノクロフィルムにも手を出した。この頃から親父のカメラを拝借する機会が増えていき、カラーネガと白黒と二台体制で撮影していたことも懐かしい。
 1970年代当時、どうしたら月刊誌「鉄道ファン」のような写真が撮影出来るのかと、いつも疑問に思ってきたことの答えをご教示頂いた78年、無理を押してブローニーフィルム版のPENTAX67を導入し、益々鉄のアリ地獄へと陥ってしまうのだった。それからは、バケペン/モノクロを基本として、撮影を重ねていったが、それも約20年間で全面35mm版へと回帰してしまうのだった。理由は色々あったが、一言でいうのなら、画角選択の幅とカメラの進歩、そして富士フィルム「ベルヴィア」の誕生か。
 当時最も身近に居た先輩から、”将来写真を趣味として楽しむのなら、モノクロで撮っておいた方がベター”というアドバイスを素直に受けついてきたが、現在のようなデジタル時代が到来するなんて夢にも思えず、これは当時考えられる自己ベストを積み重ねた結果であり、むろん悔いは無い。
 ここでは、ペンタ67/モノクロ時代の晩年、年々撮影コマ数が減少して、カラーリバーサルフィルムに逆転され始めた1993年の画像から掲載しておく。ナナゴ狙いで、再三訪れた白坂界隈。特に北側は上り列車に好都合でよく通ったポイントだった。
1993-02-03     6列車 EF81 89  北斗星6号   東北本線:白坂付近