アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

いつもの一日が早く戻りますように・・

2020-03-28 08:00:00 | 日記

世界中で新型ウィルスが猛威を振い、大変な状況になっている。

日本における感染のピークもこれからとか・・・

このところ公私ともども大きな閉塞感を感じ、落ち着かない日々を過ごしているアントンK。終点が見えない現状に精神が萎えてしまい、決断実行がおろそかになる、情けない状況が続く。

カメラを持って線路端に行く気持ちになれない・・

演奏会に行けない・・

音楽鑑賞が置き去りになっている。これはアントンKにとっては致命的だ。あの震災時にも襲いかかってきた心のよどみを大きく感じる毎日。

そんな時、新日本フィル楽団員によるテレワークを視聴した。数十人の団員たちが、それぞれの場で一つの音楽を作り上げて、演奏家である彼等の前向きな気持ちに大きく感動し、新たな勇気をもらったのだ。

何も出来ない小さく無力の自分に腹が立つが、今は一日も早くいつもの日常が戻ることを祈りたい。

2020-03-28


ゴハチ兄弟機~入替中のEF18

2020-03-27 21:00:00 | 国鉄時代(モノクロ)

また古い画像より1枚。

EF58が全号機で172台あったことはご承知の通りだが、ラストナンバーが175号機であることでわかるように欠番が3台あった。それが32号機から34号機までの3台にあたり、この3台がEF18として最後まで残存していた。まだ当時、駆け出しだったアントンKは、ゴハチという電機よりゴーナナ(EF57)に魅力を感じた時代であり、172台も存在するEF58を全て記録しようとは思わなかった頃。まして異端児だったEF18などには興味が沸かなかった。

掲載画像は、東海道~飯田線への撮影旅行の道中の電車の窓から入替中のEF18をスナップした1枚。今さら掲載するまでもない詰まらない画像だが、よくよく考えれば、電車の窓ごしにカメラを構えてシャッターを切ることなんて、今では難しくなったはず。なにしろ窓を全開できる電車ってあったか・・と素朴な疑問がわく。当時を偲びながら掲載しておく。機関車の後ろに繋がれているカ3000という家畜車が懐かしい。近くに寄ると、いわゆる「匂い」が漂っていたことを思い出す。ロングデッキのカッイイ写真は残せなかったが、今でもこの時の光景が思い出される1枚となっている。

1975-07-27    571ㇾ  EF1833       東海道本線:藤枝駅

 


軽井沢まで走ったEF58

2020-03-19 20:00:00 | 鉄道写真(EL)

長年鉄道写真を撮影していると、過去に例がない珍しいシーンに出くわすことがある。国鉄時代には、考えもしなかった光景、あの時代の常識から逸脱した列車たちのことだ。現在で例えるのなら、東海道のロクヨンや、西線のロクヨンセンも感覚的には似ているシーンかもしれない。それぞれ用途を伴って生まれてきた車両たちも、時代とともに変化し何でも在りの時流に乗って、我々ファンの度肝を抜いて楽しませてくれてきたのだ。

アントンKが、今まで一番驚嘆した列車は、1999年4月に走ったEF5861の御召列車だ。この時は、中央線大月から原宿まで御召列車が走っているが、何と全区間ロイヤルエンジンのEF5861号機がけん引している。高尾以西の山線は、EF64と決まっていたのではなかったか?それまでの常識がくつがえる瞬間だったのだ。そしてもう一つ、信越線をいくEF58にも驚嘆したもの。ゴハチに関しても、直江津以北の海岸線沿いのEF58は昔から常識化していたが、長野県側、それも軽井沢まで入るEF58は考えもしなかった。今回は、そんな半信半疑で現地入りした思い出の画像から1枚。碓氷峠線廃止を翌年に控え、イベントが目白押しだった96年。D51まで持ってきてゴハチとともに走らせたことがあった。

掲載写真は、追分の築堤をゆっくり下るEF5889によるイベント列車。ここは、今までEF62の独断場だった。晩年EF64の入線を許したものの、こんな山岳線には山用の機関車しか入れないはず。なのに目の前に現れたのは、紛れもない茶色のゴハチだったのだ。違和感を隠し切れず、何とも言えない気持ちになったことを思い出す。あれから四半世紀、もう全てが変わってしまった。そう思うと、とても切なく寂しさがこみ上げる。

1996-10-22  9353ㇾ    EF5889           JR東日本/信越本線:信濃追分-御代田

 


海峡線新時代に遭遇~EH800

2020-03-18 20:00:00 | 鉄道写真(EL)

青函トンネル開通と同時に誕生したのは、ED75700番台を改造したED79だったが、そのED79でさえ消滅して随分と時間が経ってしまった。海峡を越える寝台列車とともに何度となくED79の名シーンに遭遇し、赤べこナナゴとはまた違った魅力を感じていたものだ。

そして北海道新幹線とともに誕生した、最新鋭の電機EH800型。今ではこの海峡線を我が物顔で走行していることだろう。旅客は風前の灯と言えるかもしれないが、物流はさらに活発化しているはずだ。それまでのEH500こと金太郎までもここから追い出し、孤灯の活躍を見せるEH800にも興味が沸く。また機会を見つけて出会いたいと思っている。

掲載画像は、EH800同士で交換するワンシーン。今では日常の光景と化していることだろう。

2016-06-11    3057ㇾEH800-1    3052ㇾEH800-901    JR北海道/海峡線:泉沢にて


憧れの交流電機ED75

2020-03-16 20:00:00 | 国鉄時代(カラー)

現在でも交流機ED75は、時代を越えて細々と活躍の場を我々に示している。年に数えるほどのイベント列車のけん引や、工臨と呼ばれる不定期の工事列車がそれに当たる。アントンKが今ひとつ撮影に足が向かないのは、どれも700番台と呼ばれるナナゴの中でも、最も後期の機体のみ現役だからなのだ。そんな贅沢など言える時代ではないことは、もちろん理解できるが、ED75の場合、初期車から寒冷地仕様になった50番台以降、そして重連高速型の1000番台、日本海縦貫用だった700番台と両数も多かったが、機体の印象はまるで違っていた。

直流機EF65PFやEF64でも同じことが言えるが、この貫通扉付きの面構えは、まさに国鉄型電気機関車としての象徴であり、このお顔には、アントンKは通風孔付きが好みなのだ。より武骨に見え、力強くたくましく思えるからだが、当時は選り好み出来る環境ではなく、運を天に任せて、ただ来る列車に向かうだけだった。本当はそんなお顔の好みなんて、ずっと後になってから解ったことであって、その時はナナゴの撮影そのものだけで満足していた。シャッター一コマを大事に噛み締めるように切り、綺麗に写っているようにと、念じていたものだ。

そんなED75を思いのまま続けていこうと思うが、今回はアントンKの中では比較的初期の時代のものから1枚。金谷川のセパレート区間を往くED75の貨物列車。駅から延々と徒歩で向かい、日没まで撮影した思い出の撮影地。この区間は良い撮影ポイントが点在し、何度行っても飽きなかったことを思い出す。南福島から延々と続く上り勾配にもへこたれず、ノッチ全開で上がってきたナナゴは、アントンKにはやはり特別だった。

1984-11-23  3566ㇾ  ED7582+後ED75   東北本線:南福島-金谷川