今年は大阪フィルの第九へは行かない。大植が振らないからだ。
前任者の朝比奈氏の頃(90年代)は、毎年暮れは大阪へ行き、フェスティバルホールでベートーヴェンを聴いて、そのあとの「蛍の光」に心打たれて年を越すことが通例であった。東京で聴くのとはどこか違う、温かさというか、一体感というか、独特の雰囲気が好きだった。この雰囲気も、後任の大植になって幾分変化を感じていたが、今年になって、その大植も常任を下りた関係からか、大詰めの第九は振らないようだ。残念だし、寂しい。
年末になぜ第九かという議論は後にして、アントンKも意外に俗っぽいのか。年末のクラシックの演奏会は、第九一色になるから、やはり聴かない手は無いと行き始めてからウン十年。また新たなターゲットを見つけないと・・
先日、久しぶりにマーラーを聴いたが、正直昔のような心の葛藤は無かった。今でも何か残っているかといえば、外面的なものしかなくなっている。多分自分が変わってしまったんだと思う。普段は気付かないし、久々にマーラーの音楽に身を置くことで知りえたということか。決して嫌になったという訳ではない。うまく言葉にならないが、同じ曲でも、聞こえ方が違ってきているように感じた。少なからず、自分自身が良くも悪くも変化し歳とったということかな~
かたや、新たな発見で好きになる曲も増えてきたし、相変わらず毎日欠かさずに聴く曲もある訳だから、好きな時に聴きたい曲を聴けばそれで良い。音楽と付き合うことは、まずはそこからだ。最近では、シベリウスのシンフォニーを聴く頻度が上がってきた。若い頃は、前期から抜け出せないでいたが、今では、その逆で後期のものを好んで聴いている。かなり個性が勝り独特の世界が広がっている後期の作品。メロディが埋もれてしまい、口づさむような曲では決してないし、数回聴いただけでは、何も残らないかもしれない。そんな曲でも、今の自分にとっては、とても後味が良い。
指揮者についても変わってきたかもしれない。朝比奈やチェリビダッケ亡き後、しばらくの空白の後、小林研一郎、スクロヴァチャフスキ、下野竜也、そして山岡重信ともちろん生演奏に触れてきた。なるほど、今までに聴いたことのない、新しい響きや解釈が聴かれると、嬉しくなり、クラシックの醍醐味を真に味わえた気分に浸れる訳だ。
近年、コンサート会場に足を運ぶことが減りつつある。気に入ったプログラムが無いことも原因だが、中々自分好みの演奏をするであろう指揮者に出会えないことが、最大の理由だろう。最近のクラシックの演奏会では、世の中の流行りなどを加味したプログラムを、はやりの演奏スタイルで演奏していることも少なくないと聞く。このご時世、少しでも集客が良い内容に越したことは無い。指揮者や、オケの団員だって生活があるのだ。しかし、それでいいのだろうか・・聴衆に合わせるのではなく、自分たちの音楽を我々聴衆に語る掛けてくれるべきではないか。
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掲載写真は、文とは関係ないが、数年前、大阪フィルの東京公演の際、指揮をした大植氏にサインをしてもらったもの。フランクな彼が、色紙に向かうなり、縦書きの、それも漢字を書き始めたのには、面食らった。