新年早々、ブルックナーを聴きに墨田まで足を運んできた。
今月は3回ほどブルックナーの第8を聴く予定。その一つ、最初の演奏会が今回の坂入健司朗氏のブルックナーの第8である。どこかの音楽記事で、今回の坂入氏に接し、クライマックスの形成が上手く、白熱した演奏であるとの事のようで、また別の信頼のおける音楽評論家の記事には、若いのにセンスのある指揮振りとの評価だったこともあり、少しばかり前から興味を持っていた。この評価の楽曲が、ブルックナーの第5であったことから、今回の第8は是非とも聴いておきたいとチケットを取り寄せて置いたという訳だ。
さて彼の指揮するところのオーケストラは、東京ユヴェントス・フィルハーモニーという団体。よくよく調べてみたら、慶應義塾のワグネル・ソサエティ・オーケストラの現役学生と、そのOBで構成されている。何とも身近な存在であったことに驚かされたが、その道に詳しい友人にこのことを尋ねると、この手の団体は、数多く存在しているとのこと。こちらが知らないだけで、今やアマオケは星の数ほどあると思っていいらしい。
アマ、プロを問わず、好きな楽曲を求めてまずは足を運び生演奏に接する聴き方は、ここ数年のアントンKの聴き方だが、特にアマオケの場合、録音されたものでは、全くと言っていいほど心に伝わらない事が多い。アマオケならではの聴き方、楽しみ方があり、やはり今回の演奏会の同様に、若々しさや、初々しい生きた音楽を求めたいところだ。
今回の坂入氏の指揮ぶりだが、色々な評論を読んでから出向いたからなのか、残念ながら期待に反してしまう結果となってしまった。音楽に何を求めるか?ブルックナーに何を感じるか?ということにより人それぞれの印象は変化してしまうが、アントンKには、この演奏を聴き終わって今振り返ると、耳で聴こえたものしか、心に残っておらず、どこか空虚感が大半を占めている。若いオーケストラだから、金管楽器の鳴りも良く、表面的には、派手でゴージャス、豪快といった形容ができるだろう。しかしそれらには、外面の部分しか感じられず、音色のニュアンスというか、そこから感じられる響きの奥深さがまるで無い。
また演奏を鑑賞しているさなか、どこかで聴いたことのあるテンポや解釈、オケの鳴り方が耳に着き、不思議な感覚になったことも追記しておこう。結構、各楽章のポイントにそういった解釈が現れていたので、指揮者の坂入氏が普段よく聴いていると言われている、チェリビダッケやヴァントの演奏解釈がそのまま実演に現れたのかと思うくらいに類似していた。個々のポイントについては詳しく書かないことにするが、そんなに聴衆を甘く見てはいけないと忠告しておきたい。またどうやら指揮者の坂入氏は、自分の好き嫌いと、良い悪いを混同しているようにも思える。自分の好きな演奏をあちこちから取ってきて、継ぎはぎしてから演奏を繋げたって、聴衆には何も伝わらないのではないか。自分はこうしたい、俺の第8はこうだ!という緊迫感、命がけのところが全く感じられないのである。アントンKがいつも一番大切にしている「独自性」も結局よくわからないまま終わってしまった。
逆に考えれば、アントンKとは親子ほど違うお若い彼が、ここまで立派な演奏を実践したということに感動すべきかもしれない。90分に及ぶ大曲を短時間にあそこまでまとめ上げた統率力に感嘆すべきだろう。しかし、聴衆であるアントンKは、どんな演奏者でもブルックナーに求めるものはいつも同じなのである。今後も彼の末長い活躍を遠くから見守りたいと思う。
東京ユヴェントス・フィルハーモニー 第11回定期演奏会
ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 (1890年第2稿)
指揮 坂入健司朗
2016年1月9日 すみだトリフォニー大ホール