台風は他である山や木々や家や人間を動かそうという作意はない。
その時のさまざまな相互作用で、ただ在るがままに動いているだけだ。
・・・「他を動かす手」でこう書いた。
在るがままとは生命の在りようそのもののことを表現する言葉だと思う。
生命は「他を動かそう」などという意志は持たず、
周りとの相互作用で、それと調和する状態を常に保とうとする。
「生命はいつも関係性の中にある」という福岡先生の言葉が云っているのもそういうことだろう。
自然界で起こる台風も人間にとっては不都合であっても、
さまざま起こる地球の状態、大気の状態等の相互作用で、
そのつど、それらと調和する状態を保とうとし、
それなりに保っている姿なのかと思う。
台風を天災と受け取ると、被害を受けても諦められる。
「諦める」というのは事実を受け入れているということかな・・
すると気持ちも立ち直りが早い。
人災だと受け取ると、ひとの過失や間違いを責めるという人も現われる。
「責める」というのは「他を動かそう」という意識の最たるものなんじゃないかと思う。
責めると、事実を受け入れるのが遅くなり、立ち直りも遅くなる。
責めるというのは心の状態を表わす言葉だから、
責めるという心の状態に居ることで、
それに関心が行っているので、立ち直るという心の状態に移りにくい。
天災なら仕方がなかったと思えるけど、
人がしたことならそうならないという可能性があったと思うからこそ、
そうしなかった人を責めてしまうという気持ちになるというのも経験もあるし、
よくわかる。
人がしたことなら、そうならないという可能性がある、ということ自体は、
明るい材料だし、その通りと思う。
同じような人災がまた起こらないように事実を明らかにする必要がある。
責めることと事実を明らかにすることは別のこと。
責めることによって事実が明らかになるのが遅れる場合は多いと思う。
ひとは常に幸福で、快適で、いい気持ちで、居たいものだから、
責められると、それ以上責められたくないという意識に“なり”
在りのままを明らかにすることを躊躇うように“なる”
誤魔化したく“なる”人は多いと思う。
人によっては責められても事実を在りのまま、明らかにするという方を選ぶ人もある。
その人にとってはそっちの選択肢の方を選ぶ事の方が快適なのだろうと思う。
そういう選択肢を選ぶ人は「他を動かそう」という意識がない・・のか?
「『責める他』を動かそう」などという意志は持たず、
そういう周りとも調和している状態を常に保とうとし、
共に繁栄して行こうとする生命の在りようと同じような状態といえるかもしれない。
意識は生命なのだから、こういう状態が“自然”なんだろう。
周囲と心の無理なく、調和していこうとする・・その姿勢そのものが、
結果として、共に繁栄して行くことになる・・のか。
その時のさまざまな相互作用で、ただ在るがままに動いているだけだ。
・・・「他を動かす手」でこう書いた。
在るがままとは生命の在りようそのもののことを表現する言葉だと思う。
生命は「他を動かそう」などという意志は持たず、
周りとの相互作用で、それと調和する状態を常に保とうとする。
「生命はいつも関係性の中にある」という福岡先生の言葉が云っているのもそういうことだろう。
自然界で起こる台風も人間にとっては不都合であっても、
さまざま起こる地球の状態、大気の状態等の相互作用で、
そのつど、それらと調和する状態を保とうとし、
それなりに保っている姿なのかと思う。
台風を天災と受け取ると、被害を受けても諦められる。
「諦める」というのは事実を受け入れているということかな・・
すると気持ちも立ち直りが早い。
人災だと受け取ると、ひとの過失や間違いを責めるという人も現われる。
「責める」というのは「他を動かそう」という意識の最たるものなんじゃないかと思う。
責めると、事実を受け入れるのが遅くなり、立ち直りも遅くなる。
責めるというのは心の状態を表わす言葉だから、
責めるという心の状態に居ることで、
それに関心が行っているので、立ち直るという心の状態に移りにくい。
天災なら仕方がなかったと思えるけど、
人がしたことならそうならないという可能性があったと思うからこそ、
そうしなかった人を責めてしまうという気持ちになるというのも経験もあるし、
よくわかる。
人がしたことなら、そうならないという可能性がある、ということ自体は、
明るい材料だし、その通りと思う。
同じような人災がまた起こらないように事実を明らかにする必要がある。
責めることと事実を明らかにすることは別のこと。
責めることによって事実が明らかになるのが遅れる場合は多いと思う。
ひとは常に幸福で、快適で、いい気持ちで、居たいものだから、
責められると、それ以上責められたくないという意識に“なり”
在りのままを明らかにすることを躊躇うように“なる”
誤魔化したく“なる”人は多いと思う。
人によっては責められても事実を在りのまま、明らかにするという方を選ぶ人もある。
その人にとってはそっちの選択肢の方を選ぶ事の方が快適なのだろうと思う。
そういう選択肢を選ぶ人は「他を動かそう」という意識がない・・のか?
「『責める他』を動かそう」などという意志は持たず、
そういう周りとも調和している状態を常に保とうとし、
共に繁栄して行こうとする生命の在りようと同じような状態といえるかもしれない。
意識は生命なのだから、こういう状態が“自然”なんだろう。
周囲と心の無理なく、調和していこうとする・・その姿勢そのものが、
結果として、共に繁栄して行くことになる・・のか。