ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

魯山人の言葉

2012-08-25 18:43:49 | 新聞を読んで
何日か前の天声人語に魯山人の言葉が引用されてあった。

「魚という奴は面白い

食通の魯山人は言う

じっと目を放さずに見つめていると、なかなか焼けない

ちょっとよそ見をすると

急いで焦げたがる」

こういう感想世の中に多いんだろうな。

でもなんとなくそのことはどういうことなのか?って思う人がいないんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どうもわからない、疑問だ」

2012-08-25 15:35:13 | ひとの幸福
「・・他の人を非難したり・・・することは、

殆どの場合、自分の程度の低いことの証明であり、

自分たちの住みよい世界実現の足下を自らくずしていくもので、

非難しないまでも、批評するさえも、また、

『どうもわからない、疑問だ』という言葉を使うさえも、

聞く人にはほとんど非難しているようにとられがちで、

もっとも気づかない・・・への大きな反逆であることを、

静かに、反省してみよう」

・・・青い本のこの文章は最後の方にある。

前の方の文章に比べるとだいぶわかりやすく書かれてあるように思う。

でも、上の文章も深い。

「どうもわからない、疑問だ」という言葉が幸福への大きな反逆だということ。

何故これが全ての人が幸福になることへの反逆なのか・・・

或ることがどうもわからないと、言えるということは、どういうことかといえば、

その、或ることがなんだかわかっている、という前提がある。

例えば、「そこの会場を使えなんて、どうもわからない。疑問だ」

という言葉で考えてみるとわかりやすい。

そこの会場を使うということがどういうことだか、その人にわかっていなければ、

こういう発言はしない。

例だけど、そこの会場を使うということはこの場合相応しくないとか、

そこの会場を使うのは普通A地区の人だけだとか、

(自分たちはB地区なので使えないに決まってるとか)

そういうような考えが既にあるので、そこを使うということは良くないとか、

常識外れだとか、

その人は既に一人で決めている、ということだ。

この文章があるタイトルは、

「みんなの知恵と力と心を一つにして」。

この例がタイトルのようじゃないことはすぐにわかる。

全ての人が幸福になるのに反逆するものであることは、当人にすぐにわかる。

誰が当人でもわかる。

こういう言葉をある種の気分で発するとき、

人は誰でも必ず、ハッピーな気分じゃないので。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崖の上のポニョ

2012-08-25 13:56:44 | テレビを見て
昨夜テレビでポニョやってた。

前に見たことあるけど、その時もテレビでだったから、

真面目に見ず、編み物かなんかしながらだったんだと思う。

大きな魚の上をぴょんぴょん走るポニョの姿だけしか憶えてない。

なので、昨夜は真面目に見ましょうと思って、見た。

真面目に見るとやっぱり面白かった。

宮崎駿さんはいいなぁと思った。

魚でも半漁人でも人間でも、ポニョのこと好きな宗介くんのもとにポニョは居られることになって、

めでたしめでたしで終わった。

めでたしめでたしで終わる奴好き。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共感が何故? ②

2012-08-25 13:26:29 | ひとの幸福
人が共感されることで癒されると感じるその共感とは・・・

上の「あいつぶっ殺してぇ!」の例で考えると、

殺したいとか、憎いとかの気持ちに共感するというより、

その言葉の奥に潜んでいる悲しみや寂しさに対して、共感することなんじゃないかと思う。

殺したくなった気持ちの元は憎しみよりもっと深いところにある愛を求める気持ちだ。

さっき書いたけど、共に悲しみ、喜んでくれる人を一人もみつけられない位、

人として辛いことはないんじゃないかと思う。

独りぼっちが嫌なのは人間がそう出来ているからなんだろうと思う。

勿論、一人になって考えるとか休むとかいうのはある。

それは独りぼっちとは言わない。

また、いつも一人がいいという人は一人がいいというより、

傷つきたくないからという場合が多いと思う。

人と居ることで傷ついた記憶が多くて。

それが嫌で一人で居たいという欲求が生まれるんだと思う。


同感は行動を同感することで、

共感は悲しみ寂しさ喜びという気持ちを共に感じること。そう思う。

全人類共通の感覚が喜び・悲しみ・寂しさなんじゃないか・・・

喜怒哀楽というけど、「怒」は考えによるもので、

全人類共通の感覚じゃない。

ただ、「怒」の奥には必ず悲しみや寂しさを見つけられる。

大切に“思っている”もの・ひと・ことを失った悲しみ、

美味しく“感じた”時の楽しさ、この世で一人っきりだと“思った”ときの寂しさ、

人として扱われない悲しさ、辛さ、

・・・こういうのは人類共通の感情なのかと思う。

だからこそ共感してもらえるのは誰にとっても嬉しく、

また、癒されるものなんだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共感が何故・・?

2012-08-25 13:04:00 | ひとの幸福
「共感」という言葉はよく聞く。

共感してもらう、わかってもらえる、そういうことを嬉しく感じる私たちだ。

何かのことを誰一人として共感してもらえなかったらかなり辛いんじゃないかと思う。

「・・が痛い」に対して無視、「あーしたい」に無視、

「・・・で悲しい」「・・だから寂しい」に無視・・

・・そんなんだったら、ホントに生きるのが嫌になってしまう。

でも、共感してもらっても、

嬉しさというより当惑を感じるという現象もこの世にある。

「あいつぶっ殺してぇ!」なんて言ったとして、

「そうだそうだ!やっちまえ!いつやるんだ?えっ?」なんて対応を受けたとしたら、

わかってもらえた嬉しさだけだろうか?

当惑してしまう場合もあるんじゃないかな。

ぶっ殺してぇ、と思っただけで、殺すという意志など無い場合だってあるから。

「共感」って“気持ち、感”をわかってもらえることで、

“行動”をわかってもらう事は「同感」というんじゃないかと思うんだけど、

共感の意味を調べると同感とも書いてあり、

英語のシンパシィ(sympathy)の訳語とある。英語の意味は共鳴ともある。

元々の日本語には共感という言葉はないんだろうね。

日本語ではもっと別の表現があるのかな。

ま、それはどうでもいいんだけど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする