ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

訪れるもの

2012-08-26 13:05:27 | ひとの幸福
「存在の理法」というタイトルでも書いた湯川博士の言葉に、

「造物主は他を動かす手を持たない」というものがあるけど、

私たちは造物主であり、身体の手は持って当然だけど、

他の心を動かす手を持つ・・のはナンセンス。「動かす」というのは他動詞。

他である自は自らの心で動くもの。

「動く」は自動詞。

それを多くの人が本当に自分のものしたら、当然、世界は自然に、無理なく、

相互関連的にいい循環になっていくのかと思う。

幸福社会は造るものじゃなく、訪れるものだと彼も云ってた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どうもわからない、疑問だ」 ④

2012-08-26 11:00:57 | ひとの幸福
自分でひとの考えを決めている、ということでもある。

・・と書いたけど、そこをもう少し・・

そう発言した人の意識の状態が[その会場を使うこと=良くないこと]になるには、

その前に、その人はそこの会場を使うと考えた人のそのわけや思考が、

「わかっている」と云う状態になっている。

これは他者の意思にまで踏み込んでいる、という現象だ。

けれど、自分が他者の意思をこうだと「わかっている」状態だとわかっていない。

他者がどういう思考をしたのか聞いてもいないのに、

その人はわかっている状態に在る。

人情社会になるための3条件の一つとして彼が云っているのがコレかと思う。

「他を侵すことの浅ましさ、愚かしさに気付くこと」

それが「他の二案は欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案が第ニ案で、・・」

案だけど、一法である。

「一法」って日常使う言葉じゃないなと思って、調べたら、

一法という項目が二つあって、一つは「一つの方法。或る方法。

もう一つの一法が仏教用語で「一事。一物。」

うーん、この解釈より、ひとつの法ということで、

その「法」というのは真理。道理。正しい理法。存在の法則性。

・・という解釈がぴったりなのかと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どうもわからない、疑問だ」 ③

2012-08-26 09:00:42 | ひとの幸福
さっき書いたような発言をするように“なった”には、なっただけのプロセスがある。

周り中がそういう人ばかりの中に居たり、

テレビや新聞でもそういう思考の人ばかりを見ていたら、

そう“なる”のは当たり前すぎること。

そういう発言をする人をダメとする見方は、

[その会場を使うこと=良くないこと]というキメツケと全く同じだ。

住みにくい世界へのキッカケだと思う。

悪循環に一役も二役も買うことだろうと思う。

世界がよい方向へ変わるために、“何かをする”という方法は散々やってきた私たちだ。

やって来ての結果が現状の世界であるわけで、

もうその方法はいい加減にして、

まず、“何かで在る”という方法をやってみましょうよ・・・

ということを彼は云っていたのかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どうもわからない、疑問だ」 ②

2012-08-26 08:45:06 | ひとの幸福
例えば、「そこの会場を使えなんて、どうもわからない。疑問だ」

という言葉で考えてみたけど、もう少し・・・

この例の場合、そこの会場を使うという案があったということは、

そこの会場を何らかの理由で使いたいという考えが他の人にあった、ということで、

そう考えている人がどんなふうなプロセスでそう考えるようになったか、

そこをこの発言したをした人は全然観ていない。

自分は~こう考えるけど、

使いたいと言っている人はどんな考えの元でそう言っているんだろう?

どうしてそういうことに“なったんだろう?”

・・というような他の人の考えに耳を傾けてみようというのが全く無い。

全く無いのはこの場合尤もなんだけど。

何故って、この発言をした人の頭には、

他の人には他の人なりの考えや思いが在る、そのことに自覚が無いので、

どんな考えでそう言っているんだろう?なんて疑問は浮かびようが無い。

最初から[そこの会場を使うこと=良くないこと] になっているので、

そういう自分の考え以外は「間違っている」になっている。


その会場を使うという、ひとの考えには疑問だと言っているけど、

自分の考えを絶対としてることには気づいていない。

いま、ひとの考えには疑問だと言っている・・と書いたけど、

自分が思うところのひとの考えを疑問だと言っているに過ぎない。

ようするに自分の考えは疑問だと言っているのと同じこと。

自分でひとの考えを決めている、ということでもある。

われ一人の世界に住んでいるとはこういうことなんだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする