ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「源泉の涵養」

2012-08-22 18:53:10 | ひとの幸福
話があっちこっちに飛んでいるけど・・・

「源泉」の「涵養」なんて言葉を見たことがあるけど、

この言葉の意味はどういうことなんだろう?という簡単な?が

自分から出たことがなかったのはどうしてなんだろう?

という気がするよ。

わからないのに、わからないでいることさえ気が付かなかった。

ゲンセンノカンヨウ・・・ふーん・・何がふーんだったのかさえわからない。

ぼーっと見てたんだろう。

見てるのに見てなかった。

夢遊病状態の時間が今も長いけど、もっと長かった。

「源泉」の意味を初めて広辞苑で調べた。

ものの生ずる源・・だった。

「涵養」は自然に水がしみこむように徐々に養い育てること。
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便利になった・・

2012-08-22 15:09:19 | ひとの幸福
世の中がどんどん便利になる・・とよく言う。

そうだな、と思う。

私みたいな年代は水道もガスも家になかった経験がある。

“3丁目の夕日”時代、一応東京都に暮らしていたけど、

うちが住んでた地域はそうだった。

機械でピッとスイッチを入れれば済む事を、人間が汗水流して働いて・・

やるのは如何なものかということもあるけど、

汗水流して働いていた時間を今は何をしているかが問題だ。

超古代だかなんだか忘れたけど、

今の時代よりもっと文明が進んでいた時期が

地球に在ったということが書かれた本を読んだことがある。

それがウソかマコトかはわからないけれども、

そういうことが書かれてある本が在るということはある。

それが何故滅んだのか・・というと、

物理的方面の解決ばかりに比重が行って、

その物理的現象やら、物理的道具やらがその威力を発揮して、

それを制する心理的方面の解決も進んでおらず、

他の面でも心理的方面の方は未熟で、

その文明を謳歌していた人たちは、

自らが造った物理的何かによって、滅んだというような内容だと受け取った。

こんな表現じゃなくて、もっと難しげな表現で、

それを読んだ当時は読み取れなくて???だったけど、

今はそういうことが書かれてあったのかと思ってる。

私の拙い文章でそのことを表わせたかどうか、

全然自信がないんだけど、原子力なんかがその例なんだろうと思う。

今もそれは私たちに突きつけられている。

人間が居ることで人類が滅びる可能性はたっぷりある。

さて、どうしようか・・・・・

原発反対運動だけでいいのか・・ということはあるだろうな。



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体験の場

2012-08-22 11:05:40 | ひとの幸福
人は人と居ることで進んだり、退歩したりする。

物理的世界に住んでいる私たちは体験という相互交流で人が変化するキッカケを得る。

体験がないと自分の心が何処に在るのだかわからない。

自分の心を観察し、考えるのは一人ですることだけど、

その材料になるのが体験。

何かを人と共に体験するということが必要。

そういう意味で職場や家庭というのは相応しい場だ。

職場にはいろんな人が居る方がいい。どもならん人が居る方がキッカケが多い。

物は簡単に代えられても人は簡単には行かないから、

人間関係というのは心理的方面の解決の最適な機会になるんだろうと思う。

それでも、超苦手、超大嫌いとする人ばかりに囲まれていたら、

そういう場からとっとと退散するのは有効だ。

どんな事でも取っ掛かりさえ見えないようなあまりに無理難題が山積みだと、

気が萎えてしまうもんだし、

再起不能なほど傷つくのは馬鹿げてる。


また、周りの人が皆全員、在りのままの自分を受け入れてくれ、

ひとが進歩するのに有効な言動をしてくれ、愛に満ちて、

怒気などを発せず、接してくれたら、

ひとはどんどん進歩できる。

自分から特に何もしなくても(自分の心を観たり、考えることをしなくても)、

自分以外の人が全員上に書いたような人だったら、

自動的に自分はその人たちのようになれる。

その自分にとって、それは物理的方面の解決のうちに入るだろう。

自分の周りに居る人間が物理的にそのように行為行動してくれたことによって、

自分が幸福になるということだから。


彼の云うように、心理的方面の解決とこういう物理的方面の解決、両方が共に進むことが大事。

それにその二つは絡んでいる。

そういう人に“なる”には、誰かがまずそういう人にならなければ、

全員がなるという道には行けないということだから。

それが一粒万倍という表現でもあるんだろう。

なんせ動的平衡・相互作用によってしか生命は進んでいかないし。


「人」という字が“一人で立つ”者で在る、との語源と、

人によって支えられる、という語源と両方あるということに似ている。


悪循環じゃない良循環の輪にするキッカケは、

一粒である誰にでも、何処からでも出来る。
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