ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

真の自由

2012-08-30 18:37:45 | 本を読んで
「行ける所へ、行きたい時に行く自由、

寝たい時に寝られる自由、ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

そうした自由の社会を目指しているのです。」

・・・行ける所へ、行きたい時に行く自由・・とは?

行ける所とは、行くことが出来ると本人が思っている(そうなっている)所のことかな。

例えば皇居の天皇陛下の寝る部屋。 

物理的には不可能な場所じゃない。

でも、私自身が行ける所だと私の心ではなってない。

そこへ行きたくないわけでもないし、覗いてみたい興味はある。

でも今という時、そこに行きたいと思わないから不自由感もない。

もし、そこに今、行く権利があるなんていう気持ちになったら、不自由に感じるだろう。


寝たい時に寝られる自由・・・とは?

眠気が襲って来てない時でも、寝ようと(身を横たえようと)思えば、

寝られる(身を横たえられる)な。

眠くて眠くてたまらなくても、でもここではどうしても寝ないと決めてたら、

眠いのに寝られなかった、とは言わないだろうし。

不自由に思わないはずだ。

眠くなくても布団に身を横たえられるし、

眠くても起きていられる自由、寝ない自由があると云っていいかもしれない。


ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

・・・ここで、「ある人は食べ、ある人は食べられない不都合“や”」とあるけど、

この“や”は上の行や下の行の・・行く自由、寝られる自由、妨げられない自由、

そういう自由“や”、この不都合“や”と云っている。

あれやこれやの“や”である。

ある人は食べ、ある人は食べられない、というのはよくあることで、

好き嫌いとか腹の不調という不都合は自由であるということを云っているんだろう。


食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由・・とは、

これはあなたの分なんだから・・というような悪平等のことなのか、

食べたくないのに、栄養があるから食べるべきとか、

食べたくないのに、お金を払ったんだから、食べる権利があるとかの、

権利や義務で強制されることなしに、という意味だろうか・・・

これやあれやの自由、不都合が真の自由と云えましょうと云っているのだろうか・・・

「そうした自由の社会を目指しているのです」・・・

そうした自由の境地を目指しているのです。

誰が?

彼は目指したんだと思う。私も。

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自由のこころ 

2012-08-30 13:36:12 | 本を読んで
「行ける所へ、行きたい時に行く自由、

寝たい時に寝られる自由、ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、

食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、

真の自由と云えましょうし、

そうした“自由の社会”を目指しているのです。」

・・・ここで彼は『自由な』社会と云ってない。

『自由の』社会と云っている。「な」 と 「の」 でどう違うか?

普通、自由“な”社会を目指すとか表現するものだ。

自由“の”社会とは言わない方が自然に感じる。

自由“な”社会というと、自由以外まだ他にも形容できることがあるということを示している。

その社会は自由な社会であり、且つまた不自由な社会でもある、

というような表現を許すものだ。

ニューヨークの自由“の”女神、これも自由“な”女神ではない。

自由“な”女神だと、その女神は自由でもあるけど、

美しくもあるというような意味合いがあってもおかしくない。

あの女神は乱暴者だけど自由な女神でもあるという表現を許すもの。

けど、自由“の”女神というと、

その女神は自由しか表わしていないという意味になる。

自由“の”社会というと、自由の女神というのと同じで、

その社会は自由を表わしているということだ。

・・と考えると、

自由とはそもそもかたちではないし、

一つの認識を表す言葉だ。

自由の社会とは自由状態の心と云っていることになる。



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差別待遇のないこころ

2012-08-30 13:03:37 | 本を読んで
「・・・理想社会には、左様な不愉快の人を一人もなくし、

世界中から劣等感や優越感、差別待遇を無くします。」

不愉快の人をなくす・・・こういう表現は実現したい社会の説明に普通はないと思う。

民主的社会、民主主義社会、資本主義社会、社会主義社会、

共産主義社会、共和制社会、王制社会・・・なんていう言葉からは、

愉快だの不愉快だのという感情の話しは出てこない。


ここで彼が「社会」と云っているのは・・・・!?

平和な社会というような言葉はあるけど、

今の日本は平和かといえば、戦争はしてないから平和な社会と言われるのかもしれないけど、

政治を見ても経済を見ても、学校のいじめ事件や幼児虐待事件があるのを見ても、

平和という感じじゃない、幸福な社会とも言い難い。

まぁどんなことであっても、人間の意識が元で、考えが行動や物になるもの。

これぞ理想の姿、理想的状態、これぞ幸福、とか言うけど、

そう言う人がそれをその時、理想の姿云々と“捉えている”ということである。

その姿がその時その人には理想・・と映っているということ。

その人だけでなく、万人がそれを理想・幸福と捉えられる状態の社会を理想社会、幸福社会というのだろうと思う。

又、社会というものは流動的なものでいっときもじっとはしていない。

人間は生きて動いているからね~


飢えに苦しむ事など無い社会を望むけど、

食べたくもないのにあるからと強制されるのは幸福じゃない。不愉快だ。

赤ちゃんのウンコで汚れたオムツや下着を洗うのは幸福か不幸か・・・

幸福と感じることもあれば、不幸と感じることもあるかもしれない。

それは全ての人に不幸なことと言い切れない。

紙オムツがあることは有り難いことではあるけれど、

そういう発明やら改良やら増産は万人が幸福になるかたちとは言い切れないと思う。

それを洗うこと位しか自分には出来ないから、

是非させてもらいたいというおばあさんだって、広い世の中にはいるかもしれない。

いない、とは言い切れない。

・・・他のページでも思うことだけど、こんなふうに考えてくると、

彼が云う社会は心の状態を指している場合が多いように思う。

そして、心の状態という目に見えないものが現象化されてあるのが社会。

それが順序だろうから。

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「条理 と 相対者」

2012-08-30 08:53:11 | ひとの幸福
「条理と相対者を切り離して・・」・・こんな言葉が彼にある。

「条理」は道理とか、すじみち。もう一つ、広辞苑におおっと思う言葉があった。

自然を支配する、対立物統一の法則性。(三浦梅園が主唱)。


相対者でしか私たちは在ることが出来ない。

富士山に登って下界を見たら、自分が高い所に居ると思うだろうし、

エベレストに登ったことがある人は、富士山に登っても高いと思わないかもしれない。

物理的世界に住むのが人間なので「相対者」という表現を彼はしたのかもしれない。

条理(自然を支配する対立物統一の法則性)をみつけた彼は、

あの文章の中で道理とかすじみちという言葉より、

「条理」でなければならなかったんだろうと思う。

神は絶対者・・いや、神は人じゃないから、絶対なものと認識していいと思うけど、

人間は神じゃないから、相対の世界に居ることを利用して、

到着はできないけど、絶対への道を歩いているのかと思う。

絶対への道を歩く相対者は失敗しないと前に進めない。

成功というと語弊があるかもしれないけど、成功と失敗は同じコインの裏と表だ。

相対者は失敗を恐れていては前に進めない。

失敗すること、間違うことは喜びだ。
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