リベットの実験で言われる自由意志は、
沸き起こった衝動を行為するか、しないかの選択を、
一人で考えて意識的に選択しているもの。
実験は好きな時に手首を曲げたり伸ばしたりするということだったらしいけど。
さっき「私意 と 公意 ②」で書いた例の、
そういうことをしないという意志を自分で選択した人は、
他者である私の行為というキッカケがあった。
謂わば、そういうことはしないという選択は一人で選んだことだけれども、
共にやった、というか、相互作用でというか、そういうものだ。
たった一人で意志的に行為するというのは実際の生活でも、
事によっては難しい。やったらいいと思うような事でも、
一人だとなかなか手をつけられないけど、何人かでやると、
スムースに進んだりする。共にやることの効果はかなりなものなんじゃないか。
同じことでも一人だと頑張る世界だけど、
共に行なうと楽しいというのは本当に面白い現象だ。
当たり前なのかもしれないけれど。
私たちはどうしたって「共に在るもの」だから。
湧き起こる衝動(非人間的な)をしないという自由意志は“共に”で成功する。
元々持っている(持ち味である)人間性が引き出されるような、キッカケによって。
人は自発的に無理なく自然な行為へと移れる。
私意を尊重することで、獣的ではない人間的(本来の)な行いに自然に移行する。
獣的ではない、人間的な意志のことを、
「公意」と名づけたのかなぁと思ったんだけど・・・
沸き起こった衝動を行為するか、しないかの選択を、
一人で考えて意識的に選択しているもの。
実験は好きな時に手首を曲げたり伸ばしたりするということだったらしいけど。
さっき「私意 と 公意 ②」で書いた例の、
そういうことをしないという意志を自分で選択した人は、
他者である私の行為というキッカケがあった。
謂わば、そういうことはしないという選択は一人で選んだことだけれども、
共にやった、というか、相互作用でというか、そういうものだ。
たった一人で意志的に行為するというのは実際の生活でも、
事によっては難しい。やったらいいと思うような事でも、
一人だとなかなか手をつけられないけど、何人かでやると、
スムースに進んだりする。共にやることの効果はかなりなものなんじゃないか。
同じことでも一人だと頑張る世界だけど、
共に行なうと楽しいというのは本当に面白い現象だ。
当たり前なのかもしれないけれど。
私たちはどうしたって「共に在るもの」だから。
湧き起こる衝動(非人間的な)をしないという自由意志は“共に”で成功する。
元々持っている(持ち味である)人間性が引き出されるような、キッカケによって。
人は自発的に無理なく自然な行為へと移れる。
私意を尊重することで、獣的ではない人間的(本来の)な行いに自然に移行する。
獣的ではない、人間的な意志のことを、
「公意」と名づけたのかなぁと思ったんだけど・・・