ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ひとと共にだったら出来ること ★

2012-08-28 20:00:23 | ひとの幸福
リベットの実験で言われる自由意志は、

沸き起こった衝動を行為するか、しないかの選択を、

一人で考えて意識的に選択しているもの。

実験は好きな時に手首を曲げたり伸ばしたりするということだったらしいけど。

さっき「私意 と 公意 ②」で書いた例の、

そういうことをしないという意志を自分で選択した人は、

他者である私の行為というキッカケがあった。

謂わば、そういうことはしないという選択は一人で選んだことだけれども、

共にやった、というか、相互作用でというか、そういうものだ。

たった一人で意志的に行為するというのは実際の生活でも、

事によっては難しい。やったらいいと思うような事でも、

一人だとなかなか手をつけられないけど、何人かでやると、

スムースに進んだりする。共にやることの効果はかなりなものなんじゃないか。

同じことでも一人だと頑張る世界だけど、

共に行なうと楽しいというのは本当に面白い現象だ。

当たり前なのかもしれないけれど。

私たちはどうしたって「共に在るもの」だから。

湧き起こる衝動(非人間的な)をしないという自由意志は“共に”で成功する。

元々持っている(持ち味である)人間性が引き出されるような、キッカケによって。

人は自発的に無理なく自然な行為へと移れる。


私意を尊重することで、獣的ではない人間的(本来の)な行いに自然に移行する。

獣的ではない、人間的な意志のことを、

「公意」と名づけたのかなぁと思ったんだけど・・・





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自由意志のこと

2012-08-28 19:47:45 | ひとの幸福
人間に自由意志があるか、ないか、なんてことが

世界のその筋の学会では問題になっているというようなことを読んだことがある。

「わたしの遺伝子が、わたしの神経伝達物質が何かの行動をさせた」というような

考え方が大手を振って歩いているらしい。

「行動の独立した原因となる意志の力なんてものは神話なんですよ」

・・ということをアメリカの臨床心理学教授は言ったそう。・・・

カントも自由意志と取り組みたいと思い、取り組んだけど、

論理的に証明出来なかったという。

カントは私たちの五感が知っている世界が物理的決定論に支配されているとしても・・・

世界には自由な倫理的選択の余地が(隠された余地ではあるが)なければならない、

と考え、この考え方を否定する証拠がないという事実、

それがそう考え続ける根拠になると思った・・という。

実際カントは、証明できないから自由意志がないと考えることをしなかった。・・・・


自由意志を支持する科学的根拠が発見できなかったので、

20世紀になって科学研究の対象として自由意志の地位がだんだんと低下したそうだ。

1931年アインシュタインは「自分が自由意志で行動しているというのは人間の幻想」

と宣言したらしい。

・・・神経科学と遺伝子で新しい発見が相次いだ10年に、

人間はロボットだ、遺伝子や神経伝達物質の奴隷だ、

自由意志などといったって子供のぜんまい仕掛けの玩具程度に

過ぎないというイメージが生まれたようだけど、

私たち普通の人は普通に自由意志?持ってるよと思っていると思うけどね~

でも、ぶん殴られたら、殴り返さずにはいられない・・というようなことは、

ぜんまい仕掛けの玩具と言われてもしょうがないことなんだろうけど。


ベンジャミン・リベットは意志が生まれる瞬間をつきとめた実験に成功した。

リベットは長い間、自分の実験結果を自由意志と結び付けようとしなかったそうだけど、

それが晩年には変わってきたようだ。

もしかして「自由意志は存在する」と明らかに論評するのがはばかられたのかもしれない。

意識だ意志だなんていうと、あいつはおかしい、オカルトだ・・なんていう風評がささやかれ、

学者としての地位も失うような風が物理学者たちに吹いている、

というようなことは他の本で読んだことがある。

物理学という科学の世界でもそんな風が吹くのかと思うけど、わかる気はする。

専門が物理というだけで、心の世界では他の分野の人と同じで、

自分で言うようにロボットの人間が多いのかもしれない。


晩年リベットは、

自由意志が脳から湧き起こる考えに対し、

門番の役割を果たしているのではないかと考えたようだ。

・・ちょっと前書きが長くなったけど・・・

続きます・・

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私意 と 公意 ② ☆

2012-08-28 10:00:35 | 実例体験観察
その人は自分はそうしたいと思ったけど、

私からの働きかけがキッカケで自分の意志でそのことをしない、と決めたのかと思う。

他からの強制もなく、無理強いもさせられず、自らそうした。

これも「公意」なのかと思う。

その人の中にある人間性が引き出されたのかとも思う。

自分の意志で行動したいという作用がスムースに発揮された現象かと思う。

松本サリン事件で、数多くの不当な扱いを受けた河野義行さんの言葉にあったけど、

その頃、家には無言電話や嫌がらせがわんさと来たらしい。

無言電話の時、抗議するのではなく、

「あなたから何のお話も無いようですので、こちらから切らせていただきます」という対応をしたそうだ。

その前に高一の息子から電話番号を変えようと言われた時、

河野さんは「私たちは全て赦そう。そういう立場でやって行こう」

と息子と話したという。

18年も前の話だ。本当に頭が下がる。
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私意 と 公意 ☆

2012-08-28 09:15:15 | 実例体験観察
この前、人のある行為を嫌と感じることがあった。

その時、その人のその行為を邪険に扱うことが出来ず、

冗談で済ませようと咄嗟に思った。

その人がそうしたいという気持ちになるのもわからなくはなかったので、

私はそういう行動をとったのだろうと思う。

その行為が私に関係ないことなら、

あー、そういう感じにこの人はなっているんだな、で済むんだけど、

直接私にかかわって来ることなので、考えた。どうしたもんかと思った。

その人の希望に副おう、と思った、決心した。

けれど、実際そうしようとした時、どうしても出来なかった。無理だった。

ご希望に副えなくて申し訳ありません。どうぞご勘弁ください。

というようなことを手紙に書いた。

その人からわかってくれたような感じを受けた。


私が嫌と感じることは「私意」なんだろうと思う。

そしてその人がそうしたいという気持ちもその人の「私意」なんだろうと思う。


「私意」の意味は自分の意見。私見(自分一人の意見)

私欲をむさぼる心。私心(自分の考え。私人としての考え。私欲をはかる心)。

私情(個人としての情け。個人的感情。私欲を遂げようとする心)をまじえた公平でない心。

偏頗(かたよること。不公平。えこひいき)な心。


気持ちは起こってくるものだし、

プロセスを経てなって来たものだから、否定などしようがない。

それが「私意」尊重ということなんだろうと思う。

この件でいえば、その人の行為が起こる前の気持ちを尊重できたのかと思う。

けれど、私がとった行動はその人の希望通りではなかったので、

その人にとっては不本意だったかもしれない。

けど、その人は私の希望通りにすることを受け入れてくれた。


世間的には、その人の希望を尊重するなんてとんでもないと言われるものだったかもしれない。

その人の行為は非難糾弾されて当然のことだったかもしれない。

けど、そのことがダメだから、私がそれをしない、というのじゃなく、

その人と仲良くしたいから、それをしない(その人のその意志通りのこと)

という自分の心だったのかと思う。

それが「公意」を行なうということなんだろうかと思った。

公意という言葉は広辞苑にはなかったよ。
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