ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

煙草から・・

2013-03-13 15:34:28 | ひとの幸福
若い頃、タバコを吸っていた。それを20年位前に止めた。

当時、周りの人が誰も吸っていなかったし、簡単に買えない環境だった。

自動販売機も無かった。それが幸いして止められた。

止めようという意志もあってだけど、簡単に止められた。

けれど、周りの人が当たり前に吸っていたり、

手の届く所にタバコがあったらそんなに簡単に止められなかったかもしれないと思う。

別の場所でタバコが豊富にある所へ行ったら、又吸いたくなるか?・・・

けど、そうとも言い切れない。

一定期間タバコを吸ってないと、身体がそれなりの身体になり、

タバコを見ても吸いたくならない、ということはある。

吸わないでいることで身体が変化してしまうのだ。

だから、根本的な、といって一人で解決するのがベストというわけでもないかもしれない。

そうも思ったけど・・・もう少し考える。


タバコが悪い、と云ってるんじゃないよ。考えるための材料にしてるだけ。


世界中の人がタバコを吸っているとして考える・・・

世界中がタバコを吸わない人ばかりになったら、

誰もタバコを吸うようにならない。タバコがないから。

けど、そうなるには全員が吸っている中で、

誰かがタバコを吸わない人になることが始まりだ。

たくさんの吸っている人が居る中で、吸わない一人になることが、

吸う人が居ないという環境が出来る始まりになる。

そういう一人になることが世界が変わるキッカケになる。


意志が環境によって容易く実現できることは本当にある。

相互作用というやり取りがこの世にはあるから。

その環境がまだない場合は他とのやりとりではなく、

自分とのやり取りで創るしか方法はないのかな。
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言いたくならない・・ということ

2013-03-13 15:03:40 | ひとの幸福
何かを言いたくなる→言う・言わない について考えた。

・・すると、こういうのがあると気付いた。

人の話を聞いている最中や終わってから、

(何かを言いたくならない)という境地もあるということだ。

夫に比べて言葉が多い私はやっとそこに気が行くこととなりました。

いや、いつも人の言葉を遮ってまで喋り捲っているっていうわけじゃない・・つもりだよ。

テレビのバラエティを時々見るけど、同時に多数の人が喋るのでよくわからないことがある。

みな、言わずにはおれないといったふう。この「おれない」は在れないだろうね。

ちょっと見苦しい感じもある。

聞き上手の人は少ないということだろう。

何かを言いたくならない・・という境地はどういう境地かといえば、

相手の言葉の内容である事柄か、相手の思い、考えなどについて、

自分の思いや考えを“話そうという気にならない”ということだろう。

当たり前か。

あなたはコレについてどう思ったのか、何かいい考えがあるか、

あるなら是非とも話してほしいと懇願されたら話すこともある程度で。

そういうふうに「あなたは?」と聞かれもしないのに、

ひと(わたしも)は本当によく喋る。

だいたいが(良かれと思って)というのがあるのと、自己顕示が多いのと、

相手のやり方や考えより、こっちの方がいいよって教えたがること。

これもよかれと思って、かな。

ひとはみな優しいし、人はみな、自分の存在を認めてもらうのが好きだ。

両方とも人が人たるがゆえ、という感じ。


言いたくならない人は、なんで言いたくならないか・・推測すると、

相手をなんとかしてやりたいという善意があまり役に立たないということ、

それは無駄な事、反ってそれが妨害になることを多くの経験によって知っただけでなく、

ひとは誰でもその人自身しか歩けない道を歩いているものだということを知っているし、

周りでこっちがいいとかあっちはダメだとか言うことが、ナンセンスだと知っているし、

知っているだけでなく、それが体得のレベルになっているのかと思う。

人はひとの言葉によってではなく、

その人自身の実際の経験によって知恵を得るものであり、

その経験こそが血肉となるとわかっているから、泰然としていられるのではないか。

人間には真善美を求めてしまう本質、幸福になるという志向性が

一人残らずあると知っているということもあるだろう。

謂わば、そういったことを体得しているので、言葉を発さない事に頑張りなど要らない。

老荘思想でいうところの無為自然の在りよう・・なのではあるまいか、

と言葉の多い私は思ったのでありました。
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意識観察

2013-03-13 15:01:43 | ひとの幸福
自分の意識を観察することについて、今までも書いたことが何度もある気がするけど、

自分の意識を観察しよう、自覚しよう、と思うだけでそれが出来るわけじゃないよう。

観察、観る、というのは行為でもあるけど、動作ではないからだ。

動作なら(~しよう)と思えば、身体が動く範囲でやれるけど、

単なる動作ではない(観る)は意識の状態が関係してることだから、

観察しましょうと思うだけでそうはならないのかと思う。

悲しみましょう、寂しがりましょう、と思ってもそうならないのと一緒だ。

観察することも境地が拡がる・成長することで観察出来る範囲が広がる感触はある。

赤ちゃんが母親の死に対して悲しむことが出来ないのも、

境地が成長してないからで、それとやはり一緒なのかと思う。






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行為の選択

2013-03-13 10:35:14 | ひとの幸福
何かを行為するときはそれなりの意志が常に働いている。

無意識的な場合が多いけど。

いま、ここでわたしはどうしたいのか?

美味しそうなスイーツを見て、食べたくなる→食べるor食べない

こんなふうに行為というものには、する、しない、という選択肢が必ずある。

排尿したくなる→する、というのと、トイレが近くにないときなどは、

その時空ではしないという行為をすることもある。

どんな行為も私たちはそれを(する・しない)の選択肢から選んでいる。

朝、職場に行きたくない時にも、行く・行かないの中から私たちは選んでいる。

ご飯作る気がしない時にも、作る・作らないの中から選んでいる。

そんなぁ、行くっきゃないでしょう、作るっきゃないでしょう・・

という人は行くっきゃないので行く、作るっきゃないので作ることになる。

半ば自動的に選んでいるので、選んでいるという自覚がない場合が多い。

この世に生まれる・この世から死ぬ これは選べない。

それは行為じゃないからだ。存在だからだろうか・・

在るものは在るしか出来ない。だって存在は存在する事しかできないんだから・・

なので、存在というんだから・・

こう考えると、私たちという存在も無くなることが出来ない、ということになる。

というと、母親のお腹に存在するようになる前から存在してた、ということになる。

目に見える形ですら形を変えて存在し続けるんだしなぁ。

目に見えない形のない意識や心も無くなることは出来ないということにどうしてもなる。

ま、これは脱線。

生死は存在のことなので、おいといて、誰もが行為は(する・しない)を選んでいる。

食べたくなる→食べるor食べない どっちでも好きな方を選べばいい。

言いたくなる→言う・言わない どっちでも好きにしろ。

ケンカを吹っかけたくなる→する・しない どっちでも自由に。

まぁ、こんな言い方をしてるけど、選べる機能はわたしたちに元々付いている。

けども、ずーっとその時空を無意識的に過ごしていると、

使ってない機能は錆びたり、劣化したり、みたいに使えなくなってしまうんじゃないだろうか・・・

そういう機能があることに死ぬまで気が付かない場合もあるかもしれない。

そういう経験をよくしてるからよくわかる。






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既に満腹状態に至っている時、食べ過ぎない、という体得について

2013-03-13 09:28:15 | 実例体験観察
つい食べてしまうのは前ほどじゃないんだけど、まだまだ体得に至ってない。

ちゃんと考えたいので、頭に浮かぶことをつらつら書いてみる。

「わかっちゃいるけどやめられない」・・・こういうこと多い。

頭ではわかるんだけどね~・・

そう、頭ではわかる。善も悪も。

わかりやすい例でコレ。

食べ過ぎするのは身体に悪いことくらい誰だって知っている。

言われなくともわかる。

こういうこと、何度繰り返せば本当に頭だけでなくわかるのか。

体得できるのか。

タバコも止めたいのに止められないということもよく聞く。

真面目に考えよう。

体得というへんでは、自転車に乗れるようになるのと一緒か・・・

いや、頭でもわからなかったなぁ、乗れるようになる前は。

乗れるようになっても、頭ではわかってないかもしれない。

ということは・・・

頭でわからなくてもいい、ということじゃないか。

私は車を運転できる。超へたくそだけど、前に進むし、バックも出来る。

灯りもつけられるし、右折左折のウインカーも出せる。

けれど、車が動くことがどういう仕組みで、とかは私にはわかってない。

電気系統がなんちゃら、エンジンがなんちゃら、

そういったことは自動車学校で勉強した、本を読んだ記憶はあるけど、

まるでわかってない。けど、車を動かせる。

「わかっちゃいるけど、やめられない」じゃなくて、

「わかっちゃいないけど、やめられる」ということだろうか??

体得さえ出来たら頭・理屈なんかはどうでもいいということか・・・

これは脱線か。

自転車に乗れるという体得の方法は繰り返しの練習のみだ。

ピアノを弾けるという体得の方法は繰り返しの練習のみだ。

食べ過ぎないという体得の方法は繰り返しの練習のみか・・・

タバコを吸わないという体得の方法も繰り返しか????

それはどういう練習か??

けれど、もう少し考えよう。

食べたい、吸いたい、があるのは、食べ物やタバコの魅力があるから、

それにどうしても打ち克つという考えになるので難しいんだな。

“食べないことをしたい”その意志が本当に在るか、それか・・・。

自転車に乗れるようになるのは、乗れるようになりたいから転んでも転んでも、

「乗る」(乗れてないけど)という練習が要る。

食べ過ぎしないようになりたいから、食べても食べても、

「食べない」(出来てないけど)という練習が要る・・ということか?

結局、これは何を繰り返したらいいかというと、

自分の意志を“意識する”ことを繰り返す、ということなんだろうか。

いま、ここでわたしはどうしたいのか?

食べない事をしたい・・のか、それとも食べたいのか・・
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